FC2ブログ

タイトル画像

『クローズ隣人愛批判』(ルカ福音書10:25〜37)

2019.08.19(20:50) 393

『クローズ隣人愛批判』
(2019/8/18)
ルカによる福音書 10:25~37

良きサマリア人のたとえのテーマ
 良きサマリア人のたとえ、誰も知っているたとえです。律法の専門家がイエスに永遠の命を受け継ぐにはどうしたら?と聴き、イエスは神への愛と隣人への愛を説きました。しかし、その専門家はイエスの答えに納得がいかなかったのか、イエスを試そうとしていたのか、ぼろをださせようとしたのか、さらに質問をして、その答えとして、イエスは強盗に襲われたユダヤ人とそこを通りかかった、祭司、レビ人、そしてサマリア人が登場するたとえ話を語り、最後にこのように言います。ルカ福音書10章36節。
「10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 大きく分けて、三種類ぐらいの捉え方ができるのではないか、と思います。一つは、優れた隣人愛の課題として捉えることです。要するに、どのような存在であっても、愛すべきなのだ、と。その延長として、その愛の実現として、たとえ憎み合った民族であるサマリア人であっても、自分のように愛すべきなのだ、心を配るべきなのだ、という捉え方です。
 そして、二つ目は、神さまへの愛と人への愛は対立することがあるという問いと言えるでしょう。祭司とレビ人、どちらも神殿祭儀に関わる人々です。このたとえを聞いていたユダヤ人は、さもありなん、と受け取ったことでしょう。祭司にしても、レビ人にしても、律法の遵守者であり、倫理的にもすぐれた人であります。しかし、いくら人助けであっても、異邦人に触れるとなると、話が違う、と。異邦人に触れることは、律法的に汚れてしまうことなので、祭司やレビ人は神殿祭儀に関わることが出来ない。だから、助けることはないだろう。イエスの例えを聴きながら、どちらも通り過ぎた、という場面を聴きながら、「ほら、やっぱり」と誰もが感じたでしょう。いわば、神への愛が人を大切にすること、いわば隣人愛と対立することがある、という結論です。
 そして、三つ目は、民族への批判、同族愛への批判と捉える捉え方でしょう。このサマリア人は、敵対者であるユダヤ人を助けました。そして、さらに宿の主人に、2日分の日当に当たると考えられる2デナリオンをもお金を預け、さらにさらに、余計にお金がかかったら責任を持つとまで言っている。この喩えを聞いた律法の専門家、また一般的なユダヤ人は、どう感じるでしょうか。それは、見下しているサマリア人がユダヤ人にそんなことをするはずがない、という思いではないか、と思います。
 そして、このようにも感じるのでは無いでしょうか。自分がサマリア人の立場だったら、傷ついたサマリア人を助けるだろうか?そして、もう一つ、自分が傷ついたユダヤ人だとしたら、サマリア人の行いをどう受け止めるだろうか、と。

クローズ隣人愛批判
 イエスは、なぜこのような喩えを語ったか、この律法の専門家に対して、また一般のユダヤ人に対して、閉じられた形での隣人愛の無意味さを伝えようとしていたのではないでしょうか。イエスは、隣人愛に関してもこのようなことを述べている箇所があります。マタイ福音書5章46節47節。(P.8)
「5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。/ 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」
 「異邦人でさえ、同じことをしている」。この思いをイエス自身、強く持っていたと想像しています。ユダヤ人がユダヤ人同士で、愛を持って接したとして、思いやりをもって接したとしても、当たり前のことではないだろうか。おそらくイエスが青年期までを過ごした、ガリラヤ地方には、ユダヤ人だけではなく、異邦人と呼ばれる様々な民族の人々、そしてサマリア人も交易路があった関係で、日常的に触れ合っていたのではないか、と思うのです。また、隣人愛の元になっている旧約聖書のテキストに触れてみます。レビ記19章18節です。(P.192)
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
 意味が分かりにくいので、岩波訳の翻訳を紹介します。
「あなたは決して、あなた自身の民の子らに復讐しようとしたり、怨恨を抱いてはならない。〔むしろ〕あなたは、あなたの隣人に対し、あなた自身と同じようなものとして友愛をもって接しなさい。わたしはヤハウェである。」
 旧約聖書、律法において語られている隣人愛とは、同じ民族、同じ血族の人々が過酷な環境の半遊牧民生活の中において、互いの民族を守るため、誰が味方で誰が敵かということから、自らの民族が絶滅しないため、死に絶えないための知恵として、「目には目を、歯には歯を」というオリエント的な倫理観、法的な規範に基づいたものと考えられます。そして、もう一つ、一民族一信教的な世界観、民族宗教が乱立する社会における倫理観と言えるでしょう。そして、閉じられた形での隣人愛、同族愛、民族愛ならば、どの民族であっても実践していた。イエスはそうした現実から、そうした隣人愛の実践を他の民族に誇ることが出来るか、主なる神の教えとして、受け入れるべきだろうか、という問いを持っていたのではないでしょうか。

隣人になったと思うか
 イエスさまは、良きサマリア人の例えの最後にこの律法学者に向かって、このような問いを投げかけています。ルカによる福音書10章36節。(P.127)
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は、「その人を助けた人です。」と答えています。この答えには複雑な感情が伴ったのでは無いでしょうか。
 律法の専門家にとっての「隣人」とは、ユダヤ人であり、律法に従って正しく生きている人であって、あなたもそうした人の仲間になりなさい、そして仲間同士で助け合って生きて行きなさい、と言ったような言葉を期待していたはずです。
 しかし、イエスさまは、その問いに対して、例えで返した。ある意味、問いに対して、問いで答えました。そして、さらに、「わたしの隣人は誰なのか」という問いであったのに、「あなたは誰の隣人になるのか」と微妙に論点をずらしているのです。わかりやすく整理するならば、イエスさまが言いたかったことはこういうことではないか、と思います。
 あなたにとっての隣人が誰かということは問題ではない、多くの人がこの世には生きているが、あなたが誰にとって隣人と思われるのか、あなたが誰の隣人になるのか、それこそが問題だ、と。そして、そういったあり方は、民族や家族、そして国境や思想も超える可能性も持っているかもしれません。

現代におけるクローズ隣人愛
 今現在、日本は隣国韓国、北朝鮮や中国との関係が難しい状況になっています。日本人と韓国人、朝鮮人の関係、日本と中国の関係、とてもユダヤ人とサマリア人の関係と似通っているように感じます。互いに地域的には近接しているのに、また歴史的にも支配した、支配されていたという歴史的事実があるのに忘却してしまっていたり、支配していた過去を正当化したりするような言説、民族的な差別を正当化するような言説を繰り返したりする。
 しかし個人として、一対一の隣人として、出会ってみたら、たやすくそうした誤解や偏見を乗り越えられたりすることがあります。イエスが促した姿勢は、このような隣人との出会いではないでしょうか。平和の問題を考えるとき、国籍や民族性を超えて、1人の人として、1人の人と出会うことこそ大切なのではないでしょうか。そうした時、自らが持つ民族性や宗教性自体が、その隣人との関係を邪魔してしまうこともあるかもしれません。
 よきサマリア人の例えは、そのようについつい閉じてしまいがちになる、私たちがもつ「隣人愛」を常に広げる役割をもっているのではないでしょうか。イエスは、問います。その問いは、「あなたは、誰の隣人なのか」ではありません。あなたは「誰が隣人になったのか」という問いです。新しい人との出会いは、時に厳しさや辛さを伴うモノですがそのことを恐れずに、開かれた隣人愛、オープンな隣人愛に生きることを、イエスは求めているのではないでしょうか。

1908181.png


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 名古屋情報へ
にほんブログ村
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

スポンサーサイト





周縁自体


<<『神殿権威批判』(マルコ福音書11:27〜33) | ホームへ | 「日本人の心を踏みにじる」というところが理解できない>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nantaro3.blog119.fc2.com/tb.php/393-8184f6a6
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)