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『あの旅路を再び』(マルコ福音書16:1〜8)

2019.04.28(19:29) 390

『あの旅路を再び』
(2019/4/21)
マルコによる福音書 16章 1~8節

イースター(復活祭)とは?
 今日は、イースターです。イースターとは日本語では、復活祭とも言い、イエス・キリストが十字架刑によって亡くなり、その三日後に、復活した、甦られたことを記念することであります。なぜ、イースターが重要なのか?もっとも解りやすい説明として、一般的な教会では大まかに、このような説明がなされるのではないかなあ、と思います。
「イエスは十字架上の死を遂げることで、私たちの罪を贖ってくれた、リセットしてくれたのです。そして、イエスが復活したことは、イエスが本当に神様だったこと、神の子であったことの証明です。」といった感じではないか、と思います。一般的に宗教とか奇跡というものが、人知が及ばない力の働きや知恵が働く場、時という徴があるものです。そして、そうした働きの根源として神という存在を信じるのが、信仰を持つ、ということであり、信者の姿勢である、と。しかし、これは正しいようで、少し実際のキリスト教会、キリスト教徒にとってはズレがあるのではないか、と思います。どうでしょうか?イースターによってイエスは復活しました。そしてマタイ福音書、また使徒言行録のみの記事でありますが、イエスはその後、天に昇った、と記されています。ということは、天に去って行って、この世にはおられないでしょうか。
 かというと、違いますよね。祈りでは、主が共に、イエスが共に、といったことが祈られますので、天に去ったわけですが、離れたわけではない。また天に去ったとしても、共にいるといった両義的な状況と言えます。イースターとはどのような時でしょうか。確かにイエスさまが復活されたことは、イエスさまが単なる人ではなく、神の子であること、父なる神に対する、子なる神の証明であります。が、同時に、イエスが共にいること、イエスが人ではない存在として、一人一人と共にいることが始まったとき、キリスト教としての時間の始まり、教会としての時間のはじまりと言えるかもしれません。

イエスを裏切った弟子たち
 イエスには、12人の男性の弟子たちがいました。そして、それ以外の弟子たち、そして女性たちの弟子たちもいた、というように考えられております。しかし、イエスが十字架刑にかけられる前の晩、12弟子とイエスは、ある宿で過越の食事をし、その食卓は結果的にイエスと弟子たちの最後の晩餐となりました。これは木曜日の夜か金曜日の夜にあたりますが、その食事の後、イエスと弟子たちはゲッセマネの園へ移動します。イエスは、1人祈っていますが、弟子たちは眠りこけてしまいます。そうした状況の中で、イスカリオテのユダに伴われてきた兵士や群衆によってイエスは逮捕され、弟子たちは1人残らず、逃げてしまいます。
 この間、ペトロはイエスに対して決して裏切ることはない、と誓います。しかし、イエスが予告したとおり、そのニワトリが朝になって二度鳴く前に、三度もイエスのことを知らない、とのべてしまいます。そして、他の弟子たちもイエスの逮捕の場面でその場から逃げて行ってしまいました。その後、イエスはユダヤ人の裁判、そしてローマ帝国の裁判にかけられ、十字架刑で処刑されてしまいます。そして、イエスの処刑の理由というか罪状は、ユダヤ人にとっては「神の子」と言いふらしたということで、神を冒涜した罪ということになりでしょうか。そしてローマ帝国にとっては、国家反乱罪といったことになると思います。
 当然、イエスがそのような罪で十字架刑にかかったとなると弟子たちも捕まってしまう可能性があった。ですから、福音書によりますと、弟子たちはエルサレムの町を離れたり、どこかに隠れたり、また生まれ故郷であったガリラヤへと帰って行っていたのではないか、と想像できます。そんな弟子たちの目の前に復活したイエスが現れたのです。

赦しとしての復活
 ルカ福音書24章13節から35節には、このような記述があります。ある弟子たちは、自分の故郷へ帰る途中でした。その途中の道でイエスに出会ったのに、その人がイエスだとは気づかなかった。しかし、ある宿に入って、食事の席において、その人がパンを裂いたときにイエスだと気がついた、とあります。(ルカ24:13-35)
 マタイ福音書28章8節から10節によれば、このような記述があります。そして、今日お読みしまし墓へ行った女性たちの前にも現れ、「おはよう」と挨拶をしたイエス。女性たちは驚きひれ伏してその足にしがみついた、とあります
 また、ヨハネ福音書20章19節から29節によれば、このような記述があります。弟子たちがどこかの家に隠れていたところ、鍵もキチッとかけられていた部屋の中に突然現れた。また、その場にたまたまいなかったトマスという弟子たちは、その人をあのイエスだとは信じられずに、釘によって十字架に貼り付けにされた時の手の傷、槍に刺されたわき腹の傷に障らなければ信じない、とものべています。
 そして、ガリラヤ湖に帰って行った後に、イエスが現れたという記事もあります。ヨハネ21章によれば、網を打って漁をしていた弟子たちは、岸を歩いていたイエスに気がついて、喜びのあまりに湖に飛び込んで近寄った、という記事。
これまで触れてきた記事における弟子たち、感情の動きはあまり記されてはいません。しかし、どちらかといえば喜んでいるように捉えることが出来ます。しかし、恐れた、という記事もあります。それは復活伝承とも言えないかも知れませんが、マルコ福音書6章45節から52節には、舟を出して漁をしていた弟子たちでしたが、そこへ湖の上を歩くイエスが現れ「幽霊だ」と恐れたという記事があります。

不可解な終わり方
 今日の箇所マルコによる福音書16章1〜8節は、マルコ福音書の最後の箇所であります。しかし、そのあまりに唐突な終わり方なので、後代の人々が2つの末尾を追加しています。これには、本来は違和感のない末尾があるはずなのに、失われてしまった、という考え方があったから書き加えられたのです。しかし、最近では、もともとこの終わり方だったのではないか、ということで読まれることが多くなってきました。ということは、あえてこのような違和感のある終わり方でマルコ福音書の著者は筆、ペンをおいたのではないか、そこにはどのような狙い、理由があったのでしょうか。
 いろいろな想像をすることが出来ます。復活したイエスに出会った弟子たち。それぞれにイエスとの再会を思い起こしたでしょう。ペトロさんはこうだったかもしれない。「わたしはエルサレムで出会い、こんな声を掛けてくれた、こんな顔をしていた、こんな服を着ていた。わたしには赦しの言葉を述べてくれた」。アンデレさんは、こうだったかもしれない。「わたしはガリラヤで出会った。やさしく声をかけてくれた」他にも、いろいろな記憶があったでしょう。そして、もう一つ大きな問題がありました。今日の最後の箇所、マルコ福音書16章8節にはこのように記されています。
「16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
 女性たちは、「震え上がり、正気を失っていた」とあります。何故でしょうか?それは、言葉に出来ないほどの恐怖を覚えたからではないでしょうか。先ほど、触れましたように、弟子たちはイエスを見捨てて逃げて行きました。よく裏切り者の代名詞としてイスカリオテのユダがいます。しかし、考えてみれば、ペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネ、すべての弟子たち12人、そしてお墓に来た女性の弟子たちもイエスを見捨てて逃げてしまったわけです。この女性たちだけではなく、十二弟子たち、その他の男の弟子たちも同じだったのではないでしょうか。

復活に記すということ
 改めて考えてみたいとおもいます。なぜ、この福音書を記した人は、中途半端に「恐ろしかったからである」という一文のよって自分の救い主である主イエス・キリストの物語を締めくくったのでしょうか。それは人間にはイエスさまの復活を書きあらわすことが出来ない、という思いに立ったのではないでしょうか。これだけの著作です。何日もかかって書いたものと思います。机にペンとインクと紙をおいて、書き進めていったでしょう。夜になったら休んで、机に向かう。ご飯を食べて休んで、机に向かう。そんな作業を何日も続けたのかもしれません。筆を進めながらも、机を離れていながらも、イエスの話について聞いたことを整理しながら、書き進めたのではないか、と想像しています。
 そして、とうとう最後の場面、イエスの復活の場面にやってきました。キリスト教において最も重要な場面です。そして、また様々な人たちから復活したイエスとの出会いを聞いては、記そうとしていたかもしれません。しかし、いよいよと思い、書き始めようと思いました。しかし、書けなかった。何度も書こうと思った。何か記そうとしても、イエスの復活というできごとを書き記したとしても、自らの思いとはずれるばかりだった。そして、あんな結末になってしまった。また、もしかしたら、病気になってしまったとか、個人的な理由によって、書き進めることが出来なくなってしまったかもしれません。それは復活という出来事は、あまりに大きすぎたから起こったこととも言えるかもしれません。

あの旅路を再び
 弟子たちにとって、イエスの復活とは、イエスさまが神の子である証明という意味よりも、弟子たちにとって復活とは、イエスによるとてつもない深い赦しの体験であったという意味の方が大きかったのではないでしょうか。最後に、16章7節をもう一度、お読みします。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」」
 「ガリラヤへ行かれる」そして「そこでお目にかかれる」とあります。この言葉に従い、弟子たちはガリラヤへ戻ったのかどうか、わかりません。歴史的に言えば、使徒たちはエルサレムにおいて、最初の教会としての歩みを始めております。ということは、この言葉は、ただ単に地域としてのガリラヤに戻るという意味として受け取らなかったということでしょう。
 ガリラヤへ行く、というイエスの言葉、イエスと弟子たちがガリラヤからエルサレムへの歩み、旅路を、次は弟子たちの一人一人が導き手として歩みなさい、ということではないでしょうか。イエスと弟子たちの歩み、様々な人々との出会い、癒やし、食卓、奇跡があり、弟子たちにしても、周囲にいた人々にしても、主なる神への信仰を深めたこともあったでしょうが、神への信頼を失うような辛いこともあったでしょう。
 様々なことがあっても、1つの共同体として、歩むこと、歩み続けること、「ガリラヤへ行ったイエスの背中は、そのような歩みを弟子たちに促したのではないでしょうか。そして、そうした弟子たちの歩み一つ一つが現在にも続く教会へと繋がっているのではないでしょうか。今日は、イースターです。イエスの復活は、イエスと弟子たちの再会であり、教会の歩みの始まりでありました。そのことを胸に、また新しい一週間、また新しい歩みを、新しい旅路を歩み出したい、と思います。

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