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『イエスが呪ったいちじくの木』(マルコ福音書11:12〜14/20〜25)

2019.03.04(21:24) 387

『イエスが呪ったいちじくの木』
(2019/3/3)
マルコ福音書11:12~14/20〜25

木と家系図
 木の絵を描いたことがあるでしょうか。わたしの高校時代の美術の先生はちょっと変わった方と言いますか、美術の先生なんですが、本当の芸術家でした。そんな先生の課題で木を描く、という課題がありました。何も教えもせずに、です。今から考えてみますと、その先生は何も教えずにいろいろなことをやらせてみて、生徒の書いた作品を見てからアドバイスをするというパターンをやっていました。他にも、円を描いて、それを64等分して、その点と点をすべて結ぶという課題などもありました。しかし今から考えてみますと、芸術家ですから、そんな高校生に絵などの講釈をたれるよりも、実際に色々と描かせること、というのをコンセプトとしてやっていたのかもなあ、と感じております。
 そんな木の絵を描く、という課題の時、最初に書き上げて、その先生に持って行きますと、ちらっと見て、一言言います。「葉っぱが足りない。やり直し」自分としては一生懸命、葉っぱを描いたつもりでしたが、「足りない」と言われて、もう一度描き始めました。そして、もう一度もっていきました。すると「また足りない」と言われます。そんなかんだの何度目か、で「これ以上、葉っぱを描くスペースがありません」と言いました。すると先生は「葉っぱの向こうにある葉っぱがこの絵には描いてない」と言ったんです。「そんな葉っぱの向こうにある葉っぱ」が見えるはず無いだろ、と思ってその場は適当に絵を仕上げて終わりましたが、その言葉は不思議でした。それに何故、木の絵などを描かせたのだろう、と思いましたが、いろいろと面白い教師で、人気がありました。
 マタイによる福音書の冒頭には、アブラハムからイエスに至る家系図が記されています。家系図は「木」のように描かれるものですが、興味がある部分しか書かれないわけです。アブラハムからダビデ、そしてダビデからヨセフ、そしてイエスに繋がる「一本の線のみ」が書かれてだけです。しかし、枝は書かれないわけです。が、興味深いこと、4名の女性が書かれていて、あまり望ましくないような義理の親子間での近親相姦やダビデの部下殺し、異教徒、異民族などの話に関係する人々です。あえて、見にくい人の姿を描いて、どれだけ立派な家系であったか、を知るそうとしたのではなく、どれだけ人は理想的ではなかったか、そして神はそんな罪深い人、家系であっても守ろうとした、ということを現したかったのでないか、と感じています。

ヨナのお話
 長々と木と家系図の話をしてしまいましたが、結論から言いますと、今日登場します「いちじくの木」は何かの比喩であると考えられるからです。そしてこの比喩は「人の共同体」を指しているからであります。それは「民族」や「イエスの共同体」そして「教会(キリスト教共同体)」を指すと考えられるからです。そして、今日の聖書箇所も飛んでいる二箇所を選ばせて頂きましたが、その間にある箇所は『宮清め』と言われている箇所であります。そして「木」と「人々」そんな中で思い出されるのは、旧約聖書のヨナのお話です。
 ヨナ書は、一人の預言者の物語ですが、おとぎ話として旧約聖書に収められている物語です(P.1445)。全体で4章という短い物語なので、全部を読んでみても良いのですが、短縮のために、まとめますと
『ヨナは預言者として召命を受けます。そしてその指令は「ニネベ」という町にいって、「神の裁き・意志を伝えよ」と命じられますが、ニネベに行くのがイヤで、ニネベへの途中の港で反対側の船に乗ります。しかし神の意志によって、船は嵐に遭い、その原因がヨナが神の意志に逆らったことが原因であることが解って、船から放り出されたら、魚に飲み込まれて、ニネベの近くの海岸に放り出されて、ニネベで「このままでは滅びる」という神の意志を伝える、といきなりニネベの人々は悔い改めて今までの生活を捨てて断食をし、神に赦された』というお話です。
 そして、4章にある「木」が出てきますので、その箇所を読んでみたいと思います。
『4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。 4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。 4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」』
 このお話は、裁きに対する人間の思いを的確に表現していると思います。例えば、『良いこと』をしたら救われて『悪いこと』をしたら滅ぼされる、としたら、何が『愛なのか解りません』だからと言って、『良いことをしてる人も悪いことをしている人も』すべての人が救われるとしたら、何が『神の意志』なのでしょうか。ヨナはニネベの人たちが滅ぼされれば良い、と思ったわけです。悪いことをしていたならそうでしょう。じゃあ、神に従っても従わなくても一緒じゃないか、という話になるわけです。だからヨナは神に怒ったわけです。そんなヨナに自分の意志を知らせようと神は「とうごまの木」を生えさせ、そしてすぐに枯らしてしまった。そしてヨナは怒っているわけです。が、神は「わたしも一緒だ」ということをニネベの人たちを大切にしてきたのだから、と。ヨナに対して、お前は怒っているけれども、滅ぼすことはとても悔やまれることだ、と言っているわけです。

救いと裁き
 しかし、旧約聖書そして新約聖書全体を通して、そうした滅びと救いの問題を考えてみますと、どちらもあるわけです。悪いことをしたら滅びる、また神の意志によって滅ぼされる民族がいる、神に従わなかったから滅びてしまった人々の話などがあります。今日のお話は、やはり間に挟まれた物語から考えますと、この「イチジクの木」の話は、神がエルサレムをたしかに滅ぼされるのだ、ということを示しているのでしょう。そのことから、マルコ福音書は、エルサレムがローマ帝国に滅ぼされた後に書かれている、と考えられています。
 そしてもう一つの要素ですが、22節~23節をお読みします。
『11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」
 神の裁きの話ではないのか、という形ですが、ここには人の意志の問題が出て参ります。神に従うことは人の意志決定の問題です。この言葉の断片と、「いちじくの木を呪う」というエピソード、もともとはまったく違ったかたちで伝えられたものです。(マタイ17:20)
 この言葉をここに配置したのは、マルコでありましょう。マルコは「イチジクの木への呪い」を教訓として受け取ったのです。神への信仰を持たなければ滅びてしまう、と受け取ったのでしょう。イエスがイチジクの木を枯らしたように自分たちの教会も神への信仰をきちっとした形で持たなければ滅びてしまう、と思ってこのように配置したのでしょう。

イエスは正しかったのか
 しかし、どうでしょうか。イエスがこのようにイチジクの木を呪って枯らすようなことをするか、という問題があります。だいたいこの季節は春で、イチジクは6月と9月になるらしいので、イエスはとても無理があることを言っている、またイエスが空腹だったから、という理由で季節外れに実をつけていなかったら、枯らされたら木の立場としては、たまらないのではないでしょうか。
 現代におけるキリスト教においても、「良いことをしたら救われ」「悪いことをしたら滅びる」という構図から抜け出せないでいるなあ、と思います。しかし、こういうことを言いますと同じキリスト教でも立場の違う人は「救われる人と救われない人」がいるからこそ、キリスト教である、という人もおります。しかし、どうでしょうか。わたしはやっぱり、キリスト教の神さまというのは全ての人を救う、のではないでしょうか。
 最初に、高校時代における「木のスケッチのエピソード」を紹介しましたが、今になって思うことですが「葉っぱの向こうにある葉っぱ」を描け、という話ですが、たしかに絵を描くという作業は、前にあるモノから描いたら上手くいかなくて、遠くにあるモノ、後ろにあるモノから描くべきなんですよね。それを最初に教えてくれれば、と思うのですが、それを描くことで覚えろ、ってことだったと受け取っています。
 そんなことまで考えてみますと、人間の集団を木にたとえてみますと、その集団だからと言ってすべてが良いとも悪いとも言えないでしょう。また一面的に見えるものが良かったとしても、それだけでは判断できない、こういった考え方を相対主義とか懐疑論とも言ったりしますが、この逆の形は正統主義ではないかな、と思うのです。こういった形が正しい、間違いない、という価値観です。
 聖書には「正しい者が救われ、誤った者は救われない」というメッセージと「誰もが救われる」というメッセージが併存しております。そんな中で今日お読みした箇所は、イエスにおいては、珍しい「呪い」を語った箇所であります。また、他の人々が「呪われよ」「滅びろ」と言われた時、どのように私たちが感じるのでしょうか。ヨナのように、怒りを感じるだろうか否か。神のように、やっぱり助けたいと考えるだろうか。また、ヨブのように自らが辛いことにあったり裁きにあったりして、友人たちに「お前は前任だと言われているけど、絶対に悪いことをしたにちがいない」と言われたら、反論するだろうか否か。この喩えは、そうした人の有り様を問うているのでは無いでしょうか。

十字架への道の途上で
 最後に致します。今日の箇所の冒頭、「11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。」と記されています。その後、イエスは神殿で商人たちを追い出す「宮清め」と言われる事件を起こします。そのことをきっかけにして、イエスは逮捕されます。イエスは基本的に、従いきれない人でも受け入れていたのでしょう。
しかし,このときは、そうした気持ち、思いでもいられないほど、追い詰められていたのではないでしょうか。
 そして、イエスにとっては決定的な分岐点となる時であったでしょう。そうした時に、イエスの期待に応えることが出来るだろうか、キリスト者として、自分はできるかどうか、そんなことも問われているかもしれません。そして、そういった意味で言えば、弟子たちは誰も従いきれなかったわけです。いちじくの木は枯れてしまっていました。そして、その後イエスは、信仰についての話をしています。ぱっと読むと、信仰の力を持っているイエスが木を枯らすことが出来た、というように受け取りがちです。しかし、違うんですよね。信仰によって、イエスの期待、イエスの同労者になることができる可能性を誰もが持っている、という言葉ではないでしょうか。もうすぐ受難週です。従いきれない私たちであっても、受け入れて下さる主イエスの歩みに思いを寄せて、過ごしたいと思います。

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