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『イエスのまなざしによって』(ルカ福音書22:54〜62)

2019.02.24(20:30) 386

『イエスのまなざしによって』
(2019/2/24)
ルカによる福音書 22:54〜62

ここに至るまでのペトロの歩み
 ルカ福音書における受難物語において、最後の晩餐の後、「いちばん偉い者」(Lk22:24-30)という小見出しが付いた箇所で、「誰が一番偉いか」という議論が起き、その直後の22章31節32節における、ペトロはイエスの言葉。
「「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」を聴き、ペトロはそれに対して、「「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えますが、イエスは更に「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と重ねて言います。
 31節32節の言葉は、イエスがこの世を去ってからの教会の歩みを準備する箇所です。が、34節の「三度知らない」という言葉はペトロ個人に述べられた言葉であります。が、同時に教会に対して、わたしたち一人一人に投げかけられた言葉と捉えることができます。主なる神の赦し、愛がペトロだけではなく、私たちに一人一人に注がれている、ということです。

信仰告白の一歩手前
 ペトロの否認は四つの福音書すべてに記されています。しかし、微妙に違いがあります。たとえば、ヨハネ福音書には、ペトロが大祭司の家の外に出て、泣いたという記事はありません。ペトロの悲しみ、イエスの赦しという要素よりはイエスの預言が実現した、という要素が強調されているからです。そして、マタイとマルコには大きな違いはないのですが、マタイの方がよりドラマ仕立てで装飾されているように感じます。
 そして、ルカによる福音書における特徴は、今日の説教題にもしました。ニワトリが鳴いたとき、イエスがペトロを見つめた、という記事があること、このイエスがペトロを見つめた、というのは、ルカにのみ収められている要素なのです。なぜ、ルカにのみ収めれているのか、イエスがペトロを見つめたということは無かったと否定するわけでは無いのですが、ルカとしては、ペトロがなぜニワトリの鳴き声を聞いてイエスの言葉を思い起こし、泣き崩れてしまったということでは、説得力が弱かった、と感じたのではないか、と思うのです。そして、イエスに見つめさせることによって、より一段のこの場面をドラマチックに描いた、ということではないでしょうか。
 そして同時に、イエスが復活してペトロと再会した前のどこかで、ペトロがイエスにはっきりと赦された、ということを、なんらかの形で区切りをつけたかった、と思うのです。どのような視線であったのか。とても難しいのではなかろうか、と感じるのです。イエスは、どのようなまなざしでペトロを見つめたのでしょうか。赦しの眼差し、怒りの眼差し、言った通りだろう、という眼差し、なかなか表現できないのではないでしょうか。またペトロはイエスに見つめられて、どのような気持ちになったのでしょうか。いたたまれない気持ち、自分の弱さを思い知る瞬間ではなかったか、と思います。

鶏鳴が開いたこと
 人の心配、悩みは、大きく分けると2つである、という言葉を読んだことがあります。一つは、「過去のことに対する後悔」そして、もう一つは、「未来のことに対する心配」だ、と。ま、考えてみたら、あたり前のことです。しかし、考えてみたら、こうして考えてみると、単純なことかもしれない。過去への後悔、自らの様々な過ち、人を傷つけてしまったことや、裏切り、人に対する傷、自分に対する傷があるかもしれません。そして未来への心配、不安…。そして、そうしたものを解消するためにどうするのか?その糸口も見えないときがあったりするのではないか。
 ペトロは、イエスのまなざしに打たれ、鶏鳴(鶏の鳴き声)によって、心動かされ、泣き崩れました。もし、ペトロがイエスのまなざしを捉えることがなかったら、鶏の声を聞かなかったら、どうでしょうか?どのような声であったのか、福音書には、まったく記されていません。ペトロのごく近く、朝を迎えて高らかな鳴き声であって、誰もが目を向けるような声だったかもしれません。しかし、そうでない可能性もあります。多くの人が集まっていた大祭司の家の庭先です。鶏小屋もあったかもしれません。しかし、その小屋はペトロの近くにはなかったかもしれない。誰もが気付かないような鳴き声だったものを、ペトロの耳は受け取ったとは考えられないでしょうか。そして、それはペトロにとっての人生における決定的な時、瞬間となったのではないでしょうか。そして、この鶏鳴(鶏の鳴き声)が無ければ、キリスト教の歴史は始まらなかったかもしれない、と感じています。そして、イエスがペトロを見つめることがなければ、ペトロが泣き崩れることもなかったかもしれません。

イエスのまなざし
 その後、イエスが復活し、弟子たちと再会し、使徒言行録によれば、天に昇ることによって、弟子たちの歩みとしての教会の歩みがはじまったとされています。しかし、ペトロにおける決定的な時は、この瞬間ではなかったでしょうか。また、誰にとってもそのような決定的な時、信仰における区切りとなる時があるのではないか、と感じています。
 過去の歩みを振り返り、未来へと歩み出すとき。例えば、洗礼を受けるに至ったという決断とか、教会に通おうという思い、聖書を開くということであっても、そこに至るある一点があるはずと言えます。そうした一点から過去を見、未来を見ること、それはルカ福音書的に言えば、「悔い改め」の瞬間と言えるかもしれません。そうした一点が重要だな、と思うのは、それがなければ、過去も未来もなくなってしまう、ということです。
 どのような教会にも始まりがあります。また、それ以前とそれ以後、また今日という礼拝の前があり、これからの未来があります。毎週、そうした区切りをつけるために、キリスト者は礼拝を捧げている、とも言えるでしょう。ペトロは、イエスのまなざしによって、そうした瞬間を与えられた、と言えるのではないでしょうか。人は弱い存在です。なかなか自分1人の力で、そうした瞬間を得ることは難しいのではないでしょうか。そして、こういう言い方もできると思います。キリスト者とは、今までの歩みを過去とし、またこれからの歩みをはっきりとした未来とするため、に聖書を読み、礼拝に集い、イエスの歩みによって示された主なる神の前に膝を折る存在だ、と言えるのではないでしょうか。

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