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『レット・イット・ビー』(ルカ福音書1:26〜38)

2018.12.16(14:45) 383

『レット・イット・ビー』
(2018/12/16)
ルカによる福音書 1:26~38

キリスト教の中におけるマリア
 来週はクリスマス、アドヴェントの時期、私たちはイエス・キリストが誕生したことを記念して礼拝に集っています。今日お読みしましたルカ福音書1章26節から38節は、イエスの誕生をマリアに宣告される箇所、受胎告知と呼ばれている箇所です。いわゆる処女の状態で、聖霊によって身ごもったとされる箇所です。ところで、マリアという人は、どのような人であったのでしょうか。カトリック教会においては、聖母(聖なる母)マリアとして、崇拝の対象、祈りの対象とされています。そして、受胎告知、処女懐胎なども、崇拝の根拠となっています。また、キリスト教が様々な地域に広がっていく過程において、各地における母神(母なる神)崇拝と交わって、広まっていってということが言えます。また実際に当時のユダヤ人の女性が結婚する年齢というのは、13歳から16歳ぐらいと言われていましたから、イメージするよりもずいぶんと若かったのでは、と考えられます。
 しかし、実際のマリアという存在は、どのような人であったのかについては、あまり考えられていないように思います。まず聖書から、時系列的にさかのぼる形で、マリアに近づいてみたい、と思います。マリアが聖書において、最後に登場するのは、使徒言行録における記述になります。使徒言行録1章4節。(P.214)
「1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」
 マリアは、最初の教会とも言えるエルサレムの教会につどっていました。またイエスの十字架刑の時に立ち会った場面に登場します。聖書の記述としては、マルコ福音書に「ヨセの母マリア」(Mk15:40)と記されているのが、イエスの母マリアではないか、と考えられています。

わたしは主のはしためです
 今日の箇所においてマリアの前に、天使ガブリエルが現れ、この世の救い主となる子どもが生まれるので、その子をイエスと名付けなさい、と命じます。それに対して、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えます。主なる神が使わした天使のいうことに対して、そのままに受け入れるということ、とても大きな決断が必要なことと言えますが、どうでしょうか?それを積極的なこととして捉えることも出来ますし、しかし自分とは違う存在に、それがたとえ神であろうとも、運命を委ねるというのは、消極的な姿勢として捉えることも出来ます。いったい、どう考えれば良いのでしょうか?
 マリアは、イエスを産んだときには、「お言葉どおり、この身に成りますように。」という言葉に現れているような受け身的な女性として、また母としてのあり方を歩んだのでしょうか。イエスの父であるヨセフはイエスが一人前になる前、旅にでる前には亡くなっていたと考えられますが、一家の大黒柱である夫を亡くした母親として一人、頼りない状況があったからこそ、家を出て行ったしまったイエスを連れ戻そうとしたのでしょうか。そのときには、とても受け身的では子どもを育てられなかったという考えることも出来ます。また、その最後には、イエスの死を看取り、最初の教会の始まりに集ったマリアです。今日の箇所の直後に記されている「マリアの賛歌」には、とても力強い母、女性に姿があります。いったい本当のマリアとは、どのような人だったのでしょうか?

Let it be
 イギリス出身の世界で最も知られたロックバンドであるビートルズ。そのビートルズの名曲「Let it Be」の歌詞の冒頭には、マリアが登場します。
「When I find myself in times of trouble. Mother Mary comes to me, Speaking words of wisdom, "Let it be."」
日本語訳しますと「苦しみ悩んでいる時には、聖母マリアが現れて、貴い言葉をかけてくださる。 “すべて なすがままに” 」〔アルバム『LET IT BE』歌詞カードより〕です。
 この「なすがままに」と訳されている「Let it Be」と、聖母マリアの組み合わせには、先ほどお読みしましたルカによる福音書1章38節の言葉「お言葉どおり、この身に成りますように。」が背景にあると考えられます。38節において「この身に成りますように」と訳されている言葉、幾つかの英語聖書(RSV、NKJV)では「Let it be」という翻訳が用いられています。そして、「Let it be」という言葉を、どのように訳すべきか、ということが議論にもなります。この曲「Let it be」を作詞作曲したポール・マッカトニー自身は、このマリアは、ビートルズの解散を考えて思い悩んでいた時期に、既に亡くなっていた母メアリーが夢に現れたことがきっかけでマリアという言葉を含めた、とコメントしています。
 ビートルズという世界一のグループを続けるべきか、解散するべきか、また自分の進むべき道に関して、思い悩んでいた時期の話です。ポールは、すでに亡くなっていた母メアリーが幻として現れた、と言ってはいます。が、聖書のテキストからヒントを得たのではないか、とも考えられます。それほどまでに追い詰められていた、ということ、また聖書のテキストから、歌詞のヒントを得たのというのも、照れくさく実母のこととしてコメントしたのではないか、とも考えられます。
 「Let it be」という言葉。積極的なある決断、「自分の思いのままに」、前向きに歩み出して「後は野となれ山となれ」といった思いがあったのか。また逆に受け身的に、「運命を受け入れよう」とか、消極的に「なるようになれば良い」とか、その運命に身を委ねる思いであったのか、どちらの理解も出来ます。また、こうも考えることは出来ないでしょうか、その思いが同居している、という捉え方です。私は、「Let it be」のメロディーと歌詞には、積極的であるとか消極的であるとかいう二者択一を超えて、与えられる自らの運命に身を委ねて積極的に歩もうという思いがあると感じます。(ビートルズとしては、同時期に、『Come together』『Get Back』『The Long and Winding Road』という曲もあり、それぞれ思いがゆれていたのが、分かります)

「御心のままに」
 今日の聖書の箇所、マリアの賛歌に込められた祈りと指針の力強さ、と1章38節の「お言葉どおり、この身に成りますように」は相反しない、矛盾しないのではないでしょうか。キリスト教において、このマリアの言葉「はしため」に過ぎない自分を神が選んで下さった、神の御心のままに「この身になりますように」という祈り、受け身的な姿勢、また「控えめ」を美徳とする女性の理想的姿として捉えられてきたように思います。
 しかし、そういった捉え方ではない受け止め方があります。それは、天使ガブリエルの前に対し、自らの運命に対して「御心のままに」と答えた姿、そして「マリアの賛歌」に示されているような信仰的な積極的な姿が共存するあり方です。2つの要素は、矛盾するように感じます。しかし、神の前に対する信仰としては矛盾しないと言えるのではないでしょうか。また、キリスト教信仰の深いところには、神に身を委ねるあり方と自らの積極性が共存する人間の姿があるのではないでしょうか。
 クリスマスは、イエスの物語の最初の出来事です。母マリアは、イエスの誕生時に起こった出来事に基づいて、様々な形で神格化されています。しかし、そうした一つ一つの姿も非常に人間的な要素である、といえるのではないでしょうか。イエスは、この世に何の力もない赤ん坊として誕生しました。クリスマスは、そのことを祝いますが、何も力のない赤ん坊は、何の力もありますが、その笑顔によって、多くの人々を笑顔にし、そして幸せを感じさせてくれます。誰もが赤ん坊として、この世に生を受けました。しかし、いつの間にか、力や知識やその他の要素によって、人を比べてしまうようになってしまっています。クリスマスという出来事は、人は赤ん坊のように、神の前には何の力もないけれども、誰かを笑顔にすることが出来る、ということを思い起こす日ではないか、と感じています。「御心のままに」とガブリエルに答え、自らの運命を神に委ね、積極的に歩み出したマリアの信仰を胸に新しい一週間を歩み出したい、と思います。


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