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『メシアか、それともキリストなのか』(ルカによる福音書 9:18~27)

2018.09.24(10:31) 380

『メシアか、それともキリストなのか』
(2018/9/23)
ルカによる福音書 9章18~27節

「イエスはキリストである」という思い込み
最初にクイズを紹介したい、と思います。
問題:父親と息子が交通事故に遭いました。父親は即死。重症の男の子は近くの病院に運ばれた。そして病院の当直は、腕の良さで知られた外科医だったので、誰もが助かるだろうと思っていた。しかし、病院で、手術を担当する医者がその少年を見てこう言った。この手術を担当することはできない。この子は自分の息子なのだ、と。一体どういうことでしょう?
(答えは、記事の末尾にあります)


 この問題を紹介したのは、私たちの中にある色々な思い込みと共に、「イエスはキリストである」という思いによって、聖書を読むという作業の中で見逃していることはないだろうか。また、「イエスはキリストである」ということは、キリスト教信仰において、中心的な課題なのですが、いわゆる思い込みで、キリストはこのような存在、イエスはこのような存在と捉えていないだろうか、ということを改めて考えてみたいと思ったからです。

マルコにおけるキリスト像
 今日の箇所、ルカによる福音書9章18節から20節は、ペトロの信仰告白と呼ばれている箇所であり、マルコ福音書にも並行箇所があります。の箇所を開いてみたいと思います。マルコ8章27節から30節。
「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」
 マルコ8章29節におけるペトロの信仰告白。「あなたはメシアです」のギリシャ語は、「シュー エイ ホ キリストス(You are the Chirst.)」となっています。しかし、日本語の聖書では「あなたは、メシアです」と訳されているのです。ルカでも同じくメシアです。「メシア」というギリシャ語もちゃんと存在しています。しかし、「メシア」と訳されている。これは何故か?。
 口語訳聖書では、この箇所「キリストです」と訳されていましたが、新共同訳では「メシア」と訳されています。「メシア」という言葉は、旧約聖書で使われておりますヘブライ語では「油注がれた者(マーシュイーアッハ)」という意味があります。ユダヤ人の考え方によりますと「メシア」とは、ユダヤ人を救いにもたらす存在としてとらえられております。そしてそのイメージは旧約聖書中随一のヒーローであるのがダビデであり、イエスが「ダビデの子であるのか」という問いは、同時に「あなたはメシアなのですか」という問いであるのです。
 そして、ギリシャ語では、「キリスト」と記されていながら、ここで「メシア」と訳されているのは、ペトロを代表とする弟子たちの思いに合わせての翻訳と言えます。イエスに従ってきた弟子たち。おそらくはイエスは「メシアである」という思いをもって従ってきた、そうした思いを翻訳に反映させた訳なのです。
 たしかに、口語訳聖書での訳である「あなたはキリストである」は、教会的には、また信仰的には、都合の良い訳と言えます。しかし学問的に、歴史的考えたとき、文脈上、弟子たちは、イエスが「メシア」になることを期待していました。また、ギリシャ語における「キリスト」(救い主)という言葉自体も、その意味も知らなかったはずですから、「キリスト」と告白させるのは、おかしな話であり、翻訳としては「メシア」が相応しい、と言えます。

受難予告とキリスト思想
 今日の箇所であるルカ福音書の当該箇所(9章18節から27節)は、前半と後半にわけることが出来ます。前半の18節から20節は、ペトロの信仰告白とイエスの応答、そして後半の21節から27節は、イエスの受難予告であります。後半の部分にあたる受難予告から触れてみたいと思います。22節をお読みします。
「次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」」
 この部分は、イエスの十字架刑による死について予告であります。そして、それはイエスの予告であるということは、主なる神の計画であり、改めることは出来ないということです。そして更に、23節24節をお読みします。」
「9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
 この箇所は、理想的な弟子たちのあり方と同時に、イエスが歩むであろう道、キリストとしての真の姿、歩みを述べている箇所とも言えます。そして、この箇所をマルコと比べてみますと、面白いことに気がつきます。もう一度、マルコ福音書の並行箇所を開いてみると、ルカにおいては削られている箇所があります。
 マルコ福音書8章32節33節が、ルカにおいては、まったく削られている箇所となります。
「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」
 かなり強い調子での言葉であり、怒りの表現であります。そして「神のことを思わず、人間のことを思っている」と、イエスの指摘し、怒りをあらわにして、ペトロを叱っています。そしてこのことを今日のテーマに絡めて、考えてみます。

メシアとしてのイエス –マルコの場合−
 マルコの文脈で考えてみます。ペトロは、イエスがメシアになると信じて従ってきた。そしてイエスが、きっと新しいユダヤ人の王となり、ローマ帝国の支配からも解放してくれると信じてきたのでしょう。そしていよいよイエスがエルサレムへむかって歩みだそうとしている時、イエスが注目を集め出して、預言者ではないか、エリヤか、といった人も出てくる。
 そして、ペトロはイエスこそ、メシア新しいユダヤ人の王になると思っているその時、そのイエス当人が、逮捕される、殺されてしまう、という予告をしゃべり出してしまう。どうでしょう?止めるのでは無いでしょうか。それはまずい。自分の思いとは違う、と。イエスがユダヤ人に救いをもたらす存在として、期待していたペトロには受け入れられる発言ではなかったでしょう。翻訳の問題に帰ってみます。こうしたように考えてみますと、マルコにおいて、ペトロの言葉、信仰告白と言われている「あなたはメシアです」と訳されているのは、適切なことと言えるでしょう。

キリストとしてのイエス −ルカの場合−
 では、ルカにおいては、どのように捉えれば良いのでしょうか。新共同訳聖書のルカにおいても、「わたしはメシアです」と訳されています。しかし、ルカの場合においては、わたしは「わたしはキリストです」と訳した方が適当、相応しいのではないかと考えています。
 なぜならば、マルコはやはり「イエスはキリストである、そして、キリストはこういう存在である」と信じていた人々に対して、疑問を投げかけるつもりで、福音書全体を記していると思うのです。しかし、ルカにおいては、あくまで「イエスはキリストであり、キリストはこういう存在である」ということを伝えようとして、記しているからです。ルカ福音書冒頭、1章1節から4節には、
「1:1-2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」
 こういう言葉があるのであれば、やはり、弟子たちも正しくイエスをキリストとして理解していた、という姿勢であった。また、ペトロの言葉も削られていたのも、同じ理由からでしょう。ですから、「あなたはキリストです」と訳すべきではないか、と考えております。

メシアか、それともキリストなのか
 弟子たちは、イエスのことを、どのように考えて捉えていたか、と言えば、やはりメシアであったと言えます。なぜなら、彼等はユダヤ人であり、アラム語を話す人々として、イエスがダビデのようなメシアではないとしても、イエスをメシアと呼んでいたのではないか、と考えられます。そして、キリストとは、すべての出来事が終わった後に、イエスはどのような存在かとして、ギリシャ語を使う人々の間で「イエスはキリストである」ということで広がっていったと考えられます。
 今日の箇所の「あなたはメシアです」という箇所。わたしとしては、ここはキリストと訳すべきでは無いかなあ、と思います。しかし、一人一人捉え方が違って良いのではないかな、と思っています。各福音書には、各福音書を生み出した人や教会の神学が背景にあります。そして、私は一人一人に神学があって良いのではないかなあ、と思っていますので、どのような訳を当てはめるのかも自由と言って良いかもしれません。また、正典としてみたら、どうだろうか?礼拝の場ではどうだろうか?という問題も出てきます。いろいろな状況によって、相応しい訳がある、という分け方が出てくるでしょう。聖書朗読としてはこう、讃美歌としてはこう、信仰告白としてはこの訳といった形です。
 そしてキリストとは、どのような存在であるか?という課題も出てきます。メシアとは、ダビデのように、王として民をひっぱっていく存在です。それに対して、キリストとは?民の犠牲になる存在、またキリスト教の贖罪論においては、民の罪を背負って犠牲となる存在、民の最も低いところに立つべき存在です。そうしたあり方について、今日の箇所の後半にあたる部分は、イエス当人の声を通じて明らかにされた箇所と言えます。しかし信仰的にはあがめられる存在、上にいて欲しい存在です。両義的というか、なんとも捉え合えにくい存在なのです。
 イエスとは、自分にとって、どのような存在であるのか?キリストか、メシアか、救い主か、神の子か、ダビデの子か、様々な表現がされます。しかし私は、正解はないのではないか、と思っています。最初に医者の話をしましたが、どこかしら、自分たちのイメージの中で、イエスを捉えているのでは無いでしょうか。しかし常に、イエスの姿は変わっていくのではないか、と思います。聖書を読むとき、イエスの物語を読むとき、一つの捉え方に止まることなく、常に新しいイエスに出会っていくことが大切なことではないでしょうか。

〜〜〜〜〜〜
答え:医者は男の子の母親だった。

 アメリカにおけるジェンダーバイアスを考えるために、作られた問題。アメリカのボストン大学が在校生を対象に行った2014年の調査では、正解できたのは20%以下だったそうです。母親が医師をしているという学生も正解できなかったという結果は、職業と性別に対するジェンダーバイアスが、想像以上に深いことを物語っています。

※ クイズと解説については、このページを参考にしました→http://grasshopper-sapporo.com/2016/08/06/a-riddle/

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