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『身を献げた主に従う』(マルコ福音書10:35〜45)

2018.08.27(19:38) 379

『身を献げた主に従う』
(2018/8/26)
マルコ福音書10章35~45節

エルサレムの道とは
 わたしたちの信仰というのは、常に「このままで良い」と、今のままではダメで、「変わらなければならない」。そんな二つの意志のどちらか、または、その狭間にあるのではないか、と感じます。そして今日の箇所における弟子たちには、そういった二つの内の一つ、「自分は変化していくのだ。立派になるのだ」という思いと、「評価されたい」という欲望が表れている箇所と言えるのではないでしょうか。
 イエスと弟子たちは、エルサレムへと向かっていました。イエスは、どのような意識であったのか。様々な捉え方がなされます。マルコ福音書の文脈によれば、あくまで受難への道でありました。ヨハネ的には、神の計画に従った道、「犠牲の小羊」となるための道と言えるでしょう。しかし弟子たちは、不安がありながらも、自分たちは、特別な何かをする、また特別な存在になる、と考えていたのではないでしょうか。
 また、お互いに、イエスと弟子たちはお互いに対して、どのように考えていたでしょうか。イエスの側からはどうでしょう。いろいろな可能性があると思います。第一の可能性は「怒り」です。イエスはこの箇所の直前、三度目の受難予告、「自らが祭司長や律法学者に捕まり、十字架にかけられ、死ぬ」ことを宣言します。しかし、誰もそのことを本気には聞いていないのではいないのです。イエスさま自身が「自分は死ぬ」と言っているのに、「栄光にあずかるときには自分を右、また自分を左に」という言葉を弟子たちが述べている。まるっきりイエスさまが王様になるかメシア(救い主)として君臨することしか考えていない。まるっきりイエスさまの言葉を信じていないわけです。普通は怒るか、もしくは溜息でも付くのではないでしょうか。

受難の捉え方について〜ペトロとユダを例にして〜
 また、「苦しみ」「孤独」の中にあったと理解もあります。こんな想像をしてみたことはないでしょうか。弟子たちが、イエスが十字架への道を歩むことの意味を知っていたとしたら。
 受難という事柄の悲劇性を増すためには、弟子たちがイエスの意志、真意、また神の意志、真意を理解していなければいないほど、その悲劇性が高まります。そして更に言えば、イエスが復活しなければ、その悲劇性が高まるわけです。マルコ福音書が、もともと復活の記事がなかったかもしれない、ということの根拠には、そうしたことも関係しているわけです。悲劇性が一番強い場合というのは、その人の死が無意味なものである、という状況ではないでしょうか。戦後73年目の夏ですが、戦争の犠牲になった人々の死に関係して、「犠牲の故に、今の平和がある」とは、よく言われることですが、その死と平和が関係ない、としたら悲惨な死と言わざるをえません。また、「犠牲の故の平和」と声高に語ることによって戦争の責任者の責任に目を向けさせようとしない意図もあると言えるでしょう。
 また、悲劇性に関わることに要素として、赦しの要素も関係してきます。弟子たちを裏切ってしまったイエス。まずペトロなどは分かりやすい形での赦された人であります。最後の晩餐の場面において、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マルコ14:31)。このような言葉を述べ、さらに命をかけるとまで言ったペトロ。また、文字通りの裏切り者と言えるユダ。イエスを銀貨三十枚(マタイによれば)で売り飛ばしたとされています。しかし、ユダの福音書という2世紀に生み出された偽典があります。10年ほど前(2006年)に発行され、話題になったのですが、キリスト教の異端とされるグノーシス主義(知恵主義)の一つであります。
 ユダの福音書によれば、ユダのみがイエスの真意を聞いていた功労者である、という話であって、ペトロを代表とする使徒たちは、無理解であり、ユダこそが本当の使徒だったという主張なのですね。要するに、本家争いをしているようなものなのですね。我こそが、一番イエスの真意を理解していたのだ、ということを主張しています。話の本筋から離れますが、グノーシス主義にしても、偽典にしても、時代時代における本流の流れに対する批判と自らの正統性を主張するために記されている場合が多いです(カイン派、セト派など)。
 また誰が一番の使徒、弟子であるのか、という課題は、新約聖書に収められている福音書の中でもあると言えます。マタイでしたら、ペトロ。マルコでしたら、女性の弟子たち。ルカでしたら、パウロ(使徒言行録も含めて)。ヨハネは、愛する弟子、などです。

ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い
 今日の聖書の箇所で、ヤコブとヨハネがイエスに願っています。10章37節。
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
 そしてイエスは、答えます。10章38節。
「10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」」
 二人は、「できます」と答え、イエスは重ねて言います。10章39節40節。
「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
 解釈学的には、この言葉、弟子たち、使徒たちがいずれ受けるであろう、被るであろう、受難について預言している、という捉え方が出来ます。ペトロにしろ、ヤコブにしろ、キリスト教宣教の故に処刑された、とされています。また、キリスト教共同体、教会の中において、誰がリーダーになるか、ということもイエスが決めることではなく、神の業、計画によるということを、述べようとしている、と言えます。
 また、この弟子たちの無理解、ズレ具合は、このような要求をするヤコブとゼベタイのみならず、二人を責める弟子たちも、内容的には同じレベルではないでしょうか。41節に、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」とあります。要するに、「汚いぞ!自分たちばっかり先生におべっかを使いやがって」と争いを始めます。さらに最後の晩餐の場面でも同じようなやり取りがなされているのです。マルコ福音書14章31節。
「14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。」

権威主義的信仰への批判として
 誰もが最初があると思うのですが、福音書を読んでいて、イエスが十字架にかかってしまうことについて、驚いた人はいるでしょうか?おそらく、おられないと思うのです。また、実際に弟子たちがどうだったか、という気持ちを本当の意味で体験すること、追認することは不可能と言えるでしょう。そういった意味で、マルコ福音書があれほどに悲劇性を高めようとしているのは、そうした意図があるのではないか、とさえ思います。
 おそらく、マルコ福音書を記した人は、読み手が、イエスの十字架刑とはこのような流れであった、弟子たちはこのようなことをしていた、弟子たちは、復活の主、イエスとこのような再会を果たした、ということを、ある程度、知っている人たちが読むのだ、といいうことを考えながら記していたはずです。このことは、考えてみれば、当たり前のことで、キリスト者、教会のメンバーしか読まないからです。そして、歴史的な事実、真実を伝えようという意志もあったけれども、やはり弟子たちの情けなさ、を伝えようとした意志は強かったでしょう。それは使徒や、イエスと直接に触れ合った弟子たちが、権威ある存在として捉えられるようなあり方への批判と言えると思います。
 そして、これは、もしかして想像でしかありませんが、どんどん世代が進むと共に、イエスとの関係が薄まってしまう、ということを危惧していたのではないか、と私は考えています。直接の弟子たちを批判しなければ、イエスと関係が薄くなればなるほど、世代が進めば進むほど、関係が薄くなっていく。しかし、直接の弟子たちもイエスの前ではなさけなかった。無理解であった。そうしたところの使徒たちを立てることによって、結果的に、直接にイエスも知らない弟子たち、キリスト者も使徒たち、イエスと直接出会った弟子も同じだよ、「そのままで良い」んだよ、ということが伝わっていくことになったのではないでしょうか。

価値を転換すること
 名古屋で、在日大韓キリスト教会や他の教会の人と一緒に、毎年、「平和を祈る祭典」として平和集会を行っています。今年は、在日の「趙博(ちょ ばき)」さんという方をお迎えして、歌と講演を伺いました。その中の一曲に、『息子よ、そのままでいい』という曲があります。この曲は、2年前に起きた相模原のやまゆり園の障がい者19名が犠牲になった事件を受けて、自閉症の17歳の息子さんを持つ報道関係の方がSNSに掲載して、拡散した記事です。そして、このような紹介をされています。

「わたしたち夫婦が授かった長男は、脳の機能障害“自閉症”を生まれながらに持っている。この男の刃は、私たち家族に向けられているー。テレビで容疑者の笑顔を見るたびに、心の中をやすりで削られているような気分に苛まれた。怒りや憤りをぶちまけても、容疑者はおそらく笑うだけだ。違う次元の言葉を綴りたかった。フェイスブックに投稿したのは事件から3日後。容疑者が『障害者は死んだ方が良い』と供述する事件の起きた日本から、障害者の父が書いた“詩”は世界に拡散されていった」

 平和集会の講演の中で、この曲に対して、パギやんは同意と同時に、障害者の家族から、やめてくれ、歌わないでくれ、という批判があったということを伺いました。「そんな単純に受け入れられない」「責められているように思う」など。たしかに、私もそういう反応があるだろうな、と思いました。しかし、あくまで元々は、一人の障がいを持つ息子の父親の詩をどうこうするというのは、おかしな話ではないでしょうか。障がいについての捉え方は自由、その時々に様々な思いを持つものです。良いも悪いもないと思うのですが、どうでしょうか。
 障がいという痛み、重荷をどのように捉えるか、神に与えられた道として、運命として捉えられるだろうか。「そのままで良い」と言えるだろうか。障がいに限らず、病い、負い、未熟さ、苦手なこと…。このように自分を良いとできない、という思いは、信仰において、自分は不完全である、という思いと重なるように思います。
 イエスは言っています。10章43節から45節。
「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
 どのような形であっても、高く評価されたい、という思いを私たちはどうしても持ってしまうのでは無いでしょうか。そして、私たちは、このイエスの言葉をどのように捉えれば良いのでしょうか。

身を献げるということー復活信仰ー
 今日の説教題は、「身を献げた主に従う」としました。この箇所において、福音書の著者は、弟子たちの無理解、イエスと弟子たちのあまりのズレの大きさ、イエスの孤独を読み手に伝えようとしています。私たち読み手がこのお話を手放しで笑えるか、ということが一つの課題として提供されているのです。イエスの十字架への道を知らずに、福音書を読んだとしたら、どのように感じるでしょうか。弟子たちのように、イエスはメシアである、ユダヤ人の王となるのだ、玉座に座る存在となるのだ、と考えていたのだったら、逮捕から十字架刑という流れは、驚くどころか、受け入れられないのではないでしょうか。
 また、わたしたち自身もイエスさまの思いを理解せずに、右に座らせてくれ、左に座らせてくれ、と叫んでいるのではないでしょうか。この弟子たちの姿は、わたしたちの姿かも知れない。最初には、信仰とは、「このままで良い」と「変わらなければならない」のどちらか、または間にあるという話をしました。本当にその通りだと思います。しかし、大事なのは、どのような存在であろうとも、イエスは、そのままで良い、と受け入れてくれている、ということではないかな、と思います。新しい一週間も主イエスが共にいることを信じて歩んでいきたい、と思います。

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