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『沈黙の声に聴く』(列王記上 19:1〜12)

2018.08.06(21:15) 377

『沈黙の声に聴く』
(2018/8/5)
列王記上 19章 1~12節

預言者の問いに答えられない
 エリヤは、イスラエル民族の王国が南北に分裂していた時代、紀元前570年から550年頃、北側の北イスラエル王国において活動しました。今日の箇所の前の部分、列王記上の18章には、預言者エリヤとバアル神との預言者の対決の場面が記されています。首都サマリアは、ひどい干ばつに襲われ、酷い飢饉に陥っていました。それをエリヤは王国全体のヤハウェ神への不信仰、異教崇拝によるものとして糾弾します。
 それにより、バアルの預言者たちとエリヤは、カルメル山において対決することになり、そのいきさつが今日の箇所の直前の18章に収められています。カルメル山というのはイスラエルとフェニキアの国境線にある山で、2つの神、主なる神への祭壇もバアル神への祭壇も置かれていたのでしょう。その場において、エリヤは主なる神に祈り、バアルの預言者たちはバアルの神に祈って、どちらが最初に神の力によって、薪(まき)に火を付けられるかどうか?という戦いをすることになります。
 最終的に、バアルの預言者たちの祈りは通じず、エリヤの祈りにより火はつき、バアルの預言者たちを皆殺しにした、というお話です。で、こんな「正義が勝つ」といった「勧善懲悪」なお話だけでしたら、神の力が証明されたお話として、あんまり面白くありません。しかし、ここにとても興味深いやり取りがひとつ含まれているのです。列王記上18章21節をお読みします。(P.563)
「エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。」
 「民は一言も答えなかった」とあります。なぜでしょうか?エリヤの言葉に心からの反発があったからでしょうか。同意して、エリヤの言葉を受け入れたからでしょうか。痛い指摘を受けて、無視しようとしたのか、違うでしょう。これは私の想像にすぎないかもしれませんが、彼らは、イスラエルの神とバアルの神が異なるということが理解出来なかったのでは無いでしょうか。おそらく宗教と宗教が混ざってしまっていた状態、宗教混こう状態であった。そうした状況において、「どちらかの神を選べ」ということが理解できなかったのでは無いでしょうか。

エリヤという預言者とその時代
 この時代の王アハブは、イスラエル国において、イスラエルの神と共に、異民族の神も信仰することを勧めました。そしてそれには、政治的背景、そしてアハブの王妃であったイゼベルの影響がありました。王妃イゼベルは、もともとフェニキアのティルスの王の娘であり、人の歴史の中でよくあることですが、王家同士の結婚は他国との政治的安定のために行われていました。そして同時に、それぞれの国や民族で信じられている神同士の結婚として捉えられることもありました。おそらく当時のイスラエルの人たちは、イスラエルの神ヤハウェもフェニキアの神バアルも自らの神と捉えていたのでしょう。ですから、先ほどのエリヤの問い、「もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」という質問に答えられなかったのでしょう。
 預言者エリヤが求めたのは、あくまでヤハウェ神のみ、主なる神のみへの信仰です。しかし当時のイスラエルの状況においては、そうした姿勢を理解できる状況も人もいなかった。誰も彼もヤハウェとバアルを信仰していた状況でありました。そして同時に、隣国との関係の安定にも繋がったでしょう。お互いの神、そして自らの神を近い関係として重んじる、信仰する、また文化などを重要視し、さらに信仰するというあり方、あり得る話では無いでしょうか。
 また、こんなことも言えるかもしれません。バアルは豊穣の神、確かに秋の恵みがなければ、食料がなければ生きていくことはできません。作物が豊かにとれることは誰もが当たり前に求めることです。雨季と乾季を繰り返すパレスチナ(レヴァント)において、雷は雨期の到来をもたらす神として信仰されていた、ということもヤハウェ神とバアル神の結びつきを示すことと捉えることも出来るのです。イスラエルの神には雷と雨を求め、バアル神には、実りを求め、穀物や果実などの豊作を求め、また子宝を求め、祭っていた。
 しかしエリヤがやってきて、バアルには祈るな、と批判する。エリヤがこの場にいて、明日からそんな祈りはダメだ、間違っている、と言われたらどうでしょうか。それは違う神への祈りだ、主なる神への祈りとしてふさわしくない、と言われたらどうでしょうか。エリヤの行動にはおそらく、そんなぐらいの過激さがあったのではないでしょうか。

静かにささやく声
 今日の箇所、列王記19章1節から12節は、エリヤは、王による迫害や民の無理解の中で、逃亡生活に陥っている状況を記しています。エリヤ自身、今日お読みした箇所は、逃げることに疲れ切って、神の山と呼ばれるホレブでの出来事を描いています。最後の箇所、列王記上19章11節12節をお読みします。
「19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」
 主なる神がエリヤの前に現れた場面、顕現した場面です。しかし神は「山や岩を裂くような風、地震、火」の中にはいませんでした。これは私たちが神に求めるであろう現象の中、また一般に人を超えた存在としての神を感じるであろう力の中に、神はいなかったということを示しています。しかし、その後に訪れた「静かにささやく声」に、神が現れたのです。
 実は、この言葉、翻訳がとても難しい言葉なのです。ヘブライ語の原典を忠実に訳しますと、「沈黙の声」、英語では「Sound of Silence」となります。言葉として矛盾しています。新共同訳では、「静かにささやく声」となっております。この箇所に続いて神の言葉が続くので、「沈黙の声」と訳せなかったのでしょう。また、ギリシャ語訳の旧約聖書(七十人訳LXX)では、「かすかなそよ風の音」。日本語訳の中では、文語訳では「静かなる細微(ほそ)き聲(ごえ)ありき」。口語訳では、「静かな細い声」、そして、名訳と呼ばれる関根正雄訳「火の後で、かすかな沈黙の声があった」と訳されていました。

全く希望が無い状況の中で
 今日は、日本基督教団において、「平和聖日」とされています。今年の終戦記念日は、戦後74年となります。終戦の年に生まれた方であったとしても73歳、戦争の記憶を持つ人はどんどん減っていきます。同時に日本国内の政治的状況においても、容易く戦争状態に入ってしまうような危うさを抱えています。また既に、違う角度から見れば、戦争状態である、また専守防衛が原則の自衛隊であっても、そうした原則を逸脱した状態に陥っているとも言えます。
 そしてそれには、様々な事情がある他国との関係、国際社会における立場など、様々な意見が出てきます。またそれは政治的な話だけでは無く、個人間、私たちの日常生活において空気のように伝わってきます。そうした状況の中において、平和への言説について語ることに困難さを覚えるような状況、誰も賛同してくれないような状況、また更にその平和を訴えることによって、自らの生命さえ脅かされるような状況があったとしたら、どうでしょうか。また、同じように主なる神への信仰が迫害される状況が合ったとしたら、どうでしょうか。自らの信ずるところの神への信仰を訴えることによって、また預言者として主の言葉を語ることによって、命の危機があるとしたら。逮捕されて、拷問でも受けざるを得ない状況が合ったとしたら…。しかし、神の言葉を語らざるを得ない。エリヤが陥っていたのは、このような状況でありました。

沈黙の声に聴く
 エリヤは、この箇所において、神の声を聴いたことによって、再び力強く神の預言者として歩み出しました。この「沈黙の声」を聞いた後、この箇所に続いて、聖書には、エリヤが神により具体的な導きを得たことを記しています。ということは、「沈黙の声を聞いた」ということなど記されなくても良いはずです。しかしエリヤにはとても重要な決断に至る何かがあったのでしょう。11節には、神の力がこの世における人知を超えた力に喩えられながれも、すべて否定される記述があります。神の力とは、山を裂くような、岩を砕くような風でもなく、地震でもなく、火でもない、と。では、沈黙の声とは何だったのでしょうか。
 エリヤは、後になって、いろいろな人に、この瞬間のことを聞かれたのではないかなあ、と思うのです。「なぜ、そのような極限状態でも預言者としての活動を続けられたのですか」「なぜ、絶望しなかったのですか」「逃げ出さなかったのですか」など、と。エリヤは答えに困ったのでは無いでしょうか。そうした状況の中において、何の説明できるような何かが無い中であったとして、実感として何かを得たのでは無いでしょうか。神の存在、主なる神の存在が共にあることを、はっきりと説明できない形で、人が持つ、聴覚とか、視覚とか、触覚とか、味覚とか、嗅覚とかいった五感においても、説明できないような形で、神さまが共にいてくださる、ということ、またこれからの道しるべ、何をなすべきかということを受け取ったのではないでしょうか。それがこのような表現「沈黙の声」になったのではないか、と感じます。

共にいる主なる神
 信仰の道において、何かの決断に至るとき、また心の動きに関して、言葉にならない瞬間、というもの、決定的な瞬間というものがあるでしょう。例えば、決定的な時という意味で言えば、ペトロがイエスを知らないと3度言ったときに、ペトロが聞いた鶏鳴、ニワトリの鳴き声。ペトロがあの鳴き声を聞かなかったとしたら、またあの瞬間、ニワトリが鳴かなかったとしたら。また、さらに聞いたとしても、その鳴き声にイエスの言葉を思い出さなかったとしたら、キリスト教の歴史が変わっていたどころか、始まってもいなかったかもしれません。
 私たちが、平和について語る瞬間、何か行動を起こす瞬間、未来から振り返って決定的な瞬間、決定的な割れ目を経験するときがあるかもしれません。その後の自らの歩み、また民族や国家の歩みの決定的な瞬間、決定的な分岐点に立つことがあるかもしれません。そのような時、何が判断を分けるのか、預言者エリヤが置かれたような極限状態かもしれません。また何事もない日常のある瞬間かもしれません。そのような時、主なる神の「沈黙の声」を聞くことが出来る自分でいることが重要なのでは無いでしょうか。


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