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『許しの創造性』(ヨハネ福音書8:1〜11)

2018.07.29(14:32) 376

『許しの創造性』
(2018/7/29)
ヨハネによる福音書 8:1~11

姦通という罪
 今日の箇所、様々な捉え方がされます。イエスの慈悲深さを示す物語として、またイエスが持っている人という存在に対する鋭い視座を示すものとして、またファリサイ派や律法学者たちという論敵に対する見事な知恵の勝利として、など本当に様々な捉え方があります。さらに、ここに出てくる女性は、とある伝承によれば、マグダラのマリアではないか、として語られることがあります。また、そうした考え方を元にしてか、イエスを描いた映画などでも、マグダラのマリアとイエスの出会いの物語として、描かれることがありますが、聖書のテキストとしては、あくまで一つのテキストであり、一人の女性として捉えることが適切と言えるでしょう。この女性は、神殿の中、境内において、イエスの前に律法学者とファリサイ派の人々によって、連れてこられました。彼らはイエスに質問しました。今日の箇所、8章の4節5節です。
「…「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
 なぜ、律法学者とファリサイ派の人々は、イエスにこのような質問したのでしょうか。6節に「(イエスを)訴える口実を得るため」とありますが、この問いは、たくみな罠となっております。「姦通の罪」は、十戒の第5戒「姦淫してはならない」にも含まれており、この違反は重大なものとして、違反に対しては、テキストにあるとおり石打ちの刑とされていました。イエスの敵対者たちは、イエスがこの女性は石打ちであると答えれば、イエスに希望をかけていた「罪人」とされた民衆の期待を裏切ることになります。また「赦す」と答えれば、十戒の第五戒の戒めを破ることとなり、イエス自身も逮捕される可能性さえでてきます。このように「許すべきである」「許さないべきではない」といった、どちらの答えを答えたとしても、イエスが立ち場を失うという良く出来た質問なのです。しかし、イエスはその質問に対して、地面に何かを書くような仕草をしてから、逆に彼らに対して、ある質問を返します。今日の箇所、8章7節。(P.180)
「「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」」

なぜ石を投げられなかったのか
 このようにイエスに問われ、誰もこの女性に石を投げることが出来ず、「年長者」より順に立ち去っていった、と記されています。この女性は何らかの行動や意思表示をまったく行っておりません。しかし、この女性はイエスによって許されました。なぜ誰も、石を投げることができなかったのか?イエスに逆に質問された人々は、罪の問題を、この女性と自分の関係ではなく、神と自分と隣人との関係において、罪の問題を捉える視点をイエスの問いがもたらしたからではないでしょうか。ユダヤ人は歴史を通じて、神殿また聖所において、様々な罪を贖う儀式、罪の呪いを無化する儀式を行っていました。その中で、年に一度、自分たちが気付いていない罪を癒やすため、無化するための儀式というものがありました。イスラエル民族、ユダヤ人が知らずに犯してしまった罪を大祭司が雄山羊の頭に手を当てて移して、その山羊を荒野へ逃がす、という儀式です。いわゆるスケープゴートの語源になっている儀式です。(レビ記16章)
 知らないうちに犯したかもしれない罪。律法は、613個あると言われています。その中には、「〜してはならない」といった禁止項目もあれば、「〜した方が望ましい」といった期待される項目もあります。そうしたことも律法違反であると捉えれば、罪を犯したことのない人などいない、と言えるでしょう。また、言える人がいたら、それはそれで、と思いますが。とにかく、イエスは石を投げようとしていた人々のそうした心をくすぐったのではないでしょうか。

やまゆり園の事件から
 2年前の7月26日、神奈川県のやまゆり園で、19名の方が殺傷される事件が起こりました。加害者となった彼は、障がいを持った人、特にコミュニケーションが困難な人を「心失者」と呼び、社会に役に立たない存在、必要の無い存在、としていました。彼はある新聞社の1年前の手紙による取材や投書によって、「意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだと考えております」「世界には“理性と良心”とを授けられていない人間がいます」「障害者は生産性がなく生きている価値がない。そこに税金が回されている」と言った言葉を記しています。
 また最近、とある国会議員が、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスセクシャル)といった性的少数者の人を指して、「生産性がないのに、税金を投入するのには是非がある」といった内容のことを投書して、大きな批判を浴びております。この発言を聞いて感じたのは、障がい者に対しても同じ発想をするんだろうな、ということです。また、「生産性とは何を指すか」ということも課題になるでしょう。子どもを生まないという選択をした夫婦や結婚しない人はどうでしょうか。また、生産性がなければ生きる価値が低いとか、生きる価値が無いとなるとどうでしょうか。やまゆり園の加害者となった彼は、障がい者を「役に立たない」と言っていました。「生産性がない」にも繋がる表現でしょう。
 また、私は牧師になる以前、神学校に進む以前、18歳から3年間、金属加工を行う鉄工所に務めていました。あるとき、一つの機械の改造をしました。とても単純なある部品を並べる機械でした。そして完成して納品に行ったのですが、その機械によって、あるパートの女性の仕事が無くなってしまうことを知りました。機械化って基本的に、そういうことなのですが、何か、心が痛む瞬間でした。実はこの世の中、機械化が進めば進むほど、技術が進めば進むほど、モノを作る手間は減っていきます。それは生産性の上昇なのでしょうか、低下なのでしょうか。
 また、障がいを持つ人をケアする人の仕事もどうなんでしょうか。多くの高齢者施設や障がい者の施設における夜勤の現実。40名の人を夜勤では3名で見るということが当たり前という現実があります。緊急的な対応が2件でもあったら、1名で38名もの人の対応をしなければならないということが容易く起こりうる現実があります。これも、「生産性」という尺度で言ったら、無駄なこと、不必要なことと言われてしまうかもしれません。

ラルシュのエピソードから
 しかし、障がい者だからこそ、成し遂げられたこんな出来事もあります。とあるラルシュコミュニティーのリーダーから聞いた話です。1994年にアフリカのルワンダで、おおよそ1000万人の人口の5%から10%の虐殺されるという事件がありました。民族的そして政治的な対立が背景にはあります。その時の出来事です。アフリカの家族は大きくて20人か30人ぐらいいることもあります。そのようなある大きな家族の中に、自閉症の男性がいました。多くの自閉症者がそうであるように、その男児も周りの人たちの感情に、とても敏感でした。そして日常的に、家族にとっては重荷では内存在でした。
 その家族が住む村にもその人たちを殺そうという暴徒が近づいてきました。この家族はある小屋に皆で隠れました。本当に緊張した空気の中で、この人は耐えられなくなり、この小屋から表で出て走り出してしまいました。家族はその男性のことを諦めました。またその子が小屋から出て行ってしまったことによって自分たちも暴徒たちに発見され殺されると思ったそうです。そして暴徒たちがやって来ました。この自閉症の男性は、まっすぐ暴徒の司令官のところに歩いていきました。そして自分のポケットからタバコを取り出して言いました。「火を持っていますか?」その司令官は、この男性に目をやり、銃を置いて、ポケットからマッチを取り出して、火をつけてあげました。その司令官は自分の部下たちの方を向き直り「戻ろう」と言いました。

許しの創造性
 聖書のお話に戻ります。イエスとこの女性を取り囲んでいた人は誰もいなくなり、イエスとこの女性のみになり、このような言葉を彼女にかけています。(8:11)
『「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』
 イエスは、この女性に対して、他の箇所でよく見られるように「罪を許す」とか「罪は許された」とは言っていません。「罪に定めない」と言っています。また、この女性は、様々な尺度でいって、好ましくない人、おそらくは罪人とされる人であったでしょう。そうした女性が理想的な存在となったのでしょうか。そうではないでしょう。律法という尺度でいえば、「罪人」という存在に過ぎない人だったでしょう。また、現代的にいえば、「役に立たない」人間、「生きていても意味がない」人間、そして「生産性がない」と言われてしまうような人であったのではないでしょうか。
 今日の説教題は、「許しの創造性」としました。私が感じていることですが、「許し」とは、その当人だけの問題ではない、ということです。女性の周囲にいた人々、イエスの言葉によって、この女性への許しによって、何か感じるものがあったのではないでしょうか。改めて神の存在、神の赦しとは何か、罪とは何か、ということを考えたのではないでしょうか。
 また、ルワンダにおける奇跡について紹介しました。いわゆる世の中の尺度では測ることができない力を障がい者は持っているということができるかもしれません。一般の人が持っていない力があるからこそ、だからこそ、自分たちの命を狙おうという人に敵対することなく、接することが出来たのだ、と。しかし、そうではなく、力を持っていないからこそ、生産性を持っていないからこそ、奇跡がおこったと考えることは出来ないでしょうか。ただその人をそのまま、その隣人をそのまま受け入れること、実はとても難しいことです。しかし、まったく力が無かったとしたら、どうでしょうか。目の前の人を受け入れるしかない。しかし、それは否定的なことではない、肯定されるべきことなのだ、と考えてみたらどうでしょうか。
 人は、どのような時でも、生産性とは言わないまでも、障がい、民族や思想、宗教、所属、性別、また「生産性」など様々な要素によって、人を区別しています。しかし障がいを持つ人から見れば、どうだろうか、ということを思います。障がいを持つ人は、私たちのそうした人を区別しようとする弱さを打ち破ろうとしているのかもしれません。今日の箇所における女性もそうではないでしょうか。イエスはこの罪ある女性を罪には定めませんでした。1人の人のことでありましたが、周囲にいた多くの人が、主なる神の赦しについて、罪について、改めて心に刻みつけたのではないでしょうか。「許し」とは、ただ1人のことではなく、多くの人々への救いへとつながる創造性、人と人をつなげる創造性をもっているのではないか、と感じています。


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