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『神の支配は小さな群れから』(ルカ福音書9:10〜17)

2018.07.17(10:07) 374

『神の支配は小さな群れから』
(2018/7/15)
ルカによる福音書 9:10~17

イエスと弟子たちの活動
 よく知られている奇跡物語であります。しかし、その解釈において、その受け取り方においては、非常に幅広い物語と言えるのでは無いでしょうか。イエスの奇跡の力に注目する人、その人数、増えたパンと魚の数に注目する人々もいるでしょう。また、この奇跡物語には何らかの小さな出来事が、様々な人々が口伝え、口伝で伝えることによって、大きくなった、として、そうした要素を省いた、原点にある歴史的事実はどのようなものなのか、また、この逸話を伝えた人々の信仰について思いを寄せる読み方もあるでしょう。
 福音書における礼拝説教を考えるとき、だいたいこのぐらいのことを考えながら、いろいろと話を組み立てています。また、そうした作業について、神学校においては、「コンテキストを読む」とか「コンテキストを読み解く」、という言い方をしたりします。「コンテキスト」とは、英語の辞書で引いてみますと、「背景、状況、環境」さらに「文脈、脈絡」という訳語が出てきます。また、その上で、聖書学において、何がコンテキストか、と言えば、福音書にしても、他の諸文書にしても、この文章を記した人や伝えた人の背景や、状況、環境に重きをおいてみて、文章の本義を理解しようとする、近づこうとするということになるでしょう。
 そして更に、私が学んだ神学校において、よく言われたことは、読み手である自分自身にもコンテキストがある、ということであります。自分自身が、聖書という書物を手に取り、その中にある文章、その中にあるメッセージ、指針に触れるとき、それを受けとるにしても、やはり自分なりの受け取り方しかできない。それは、というのは、人それぞれ、その人なりのコンテキストがあって、そのフィルターというか、鍵を通して、メッセージを受け取っている、ということになるでしょう。

ルカにおけるイエスと神の国
 ルカ福音書において、イエスは神の子として、キリストとしてのあり方が強調されます。昔、講談社から『福音書のイエス・キリスト』というシリーズがありました。現在は教団出版局から再版されていますが、五冊で福音書を扱っていまして、マタイ福音書は「旧約の完成者イエス」、マルコは「十字架への道イエス」、ルカは「旅空に歩むイエス」、ヨハネは「世の光イエス」、そしてトマスによる福音書も含まれていまして「隠されたイエス」となっていました。これらの題名、非常にそれぞれの特徴がよく現れていて、比較する時に使わせてもらっているのですが、ルカ福音書におけるイエスは、ガリラヤからエルサレムへの旅をしたキリスト、救い主として、「順序正しく(整理して)」記すことを目的にして、書かれています。
 そして、整理するというと、どういう形になるのか、と言えば、内容的に重なっているものなどは、省かれてしまいます。今日の箇所は、五千人の共食ですが、マルコ福音書には、四千人の共食という記事もあります。しかし、ルカ福音書では、四千人の共食の方は削られてしまっています。また聖書学の世界では、マルコ福音書を元にして、ルカ福音書もマタイ福音書も記されています。、ルカもマルコの順序に従って、間にルカの特殊資料なども入ります。しかし、大きく削られている箇所もあります。ある注解には、この部分をルカにおける「大滑落」というそうですが、マルコにおける6章45節から8章26節にあたる部分を省略してあるそうなのです。何故かと言えば、他の箇所の内容と重なっていたから、と考えられるそうです。

弟子たちの意識
 今日の舞台はベトサイダとなっていますが、ルカによる編集によるモノと思われます。ベトサイダという町の中の話であれば、集まってきた群衆に、食糧を得るために帰れという必要は無いはずだからです。そして、イエスは集まってきた人々に対して、神の国のお話を始めています。これもルカによる編集ですが、ルカは、イエスを神の国の宣教者として、描きたかったということとパンと魚が増えて、皆が満腹したという奇跡の根底には、ルカの神の国への思いがあるものと考えられます。イエスのお話が続いていましたが、夕方になって、日が傾いてきたので、弟子たちが言います。9章12節をお読みします。
「日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」」
 面白い点として、十二人全員で、イエスに指摘したのでしょうか?ちょっと違和感を持つ描写といえます。そして、こうした妙な表現には何らかの意図があると受けとることが出来るでしょう。

五千人と五十人の違い
 その後、イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と良い、五千人もの人々を五十人ずつに分けて座られ、手元にあった五つのパンと二匹の魚を神に祈って、裂いて、分けました。すると、5000人もの人々が満腹したというのです。まさに、あり得ない話です。どんなに小食の人が集まったとしてもせいぜい5人の人が満腹するぐらいの食料なわけであります。しかし、次のように考えてみますと本来起こらないような奇蹟が起こったと言えるのではないかなと思います。9章14節をお読みします。
「というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。」
 イエスが手に持ったパンと魚が、手品師が物を増やすように増えたのでしょうか。もしくはパンと魚が細胞分裂のように分かれ始めたのでしょうか。そんなことが起こったら、まさしく奇蹟と言えます。14節にありますように、集まった人々は「五十人ぐらいずつ」の組で腰を下ろしたとあります。ちなみに、マルコですと「100人、50人ずつまとまって腰を下ろ」し、イエスが裂いたパンと魚を受け取りました。
五千人が、五十人ずつの組に分けられたとしたら、百組のグループが車座になって座っていたのでしょう。そして、それぞれの場所に座っている人たち、悩んだと思います。五つのパンと二匹の魚で100個のグループに均等に分けられたとします。ひとかけらに過ぎないでしょう。考えてみますと、5つのパンと2匹の魚を5000に分けることは難しいかもしれませんが、100キレぐらいだったら、分けられるのでは無いでしょうか。まあ、それでもとてもわずかな量でしかなく、ほんの一欠片ずつ、パンと魚が分けられた。小さな欠片でしょう。みんなが満腹するなどあり得ません。しかし、ここで、ある奇蹟が起こったと考えることはできないでしょうか。
 グループのひとりの人が懷から自分のためだけに隠してあったパンを出して、「みんなで食べよう」と言い出した。当時の生活習慣において、お弁当代わりにパンを懐に入れて持ち歩くということがあったそうです。が、食糧事情の苦しい状況の中では、誰も自らの食べ物を誰かの分けようとなどとは思わないでしょう。しかし、そうしたことが、イエスが、パンと魚を裂いて、分け与えたことによって、起こったのではないでしょうか。そのようにして一つのグループで、食事が始まりました。するとそれを隣で見ていたある人も自分が持っていたパンを出してみんなで分け合い食べ出しました。そして、そういったことが全グループに広がっていったのではないでしょうか。ある人は自分たちのグループで残ったパンや魚を隣にグループの人に分けたでしょう。また、ある人はそうして分け合ったパンや魚をまた足りなさそうなグループに持っていったりしたでしょう。

教会のモデル、宣教のモデルとして
 弟子たちは、この出来事をどのように受け取ったでしょうか?また、私たちはこの物語をどのように受け取るべきでしょうか?この物語を、宣教のモデルとして捉えることは出来ないでしょうか?食事の後、最終的に、残ったパン屑を集めてみたら、12籠にもなったとあります。十二弟子と同じ数、イエスがこの世を去った後、教会の歴史を紡いだのは、弟子たちです。
 つまりこの数、この物語は、教会のモデルを示していると考えることが出来ます。1人1人、大きなこととして、大きな世界のこととして、神の国の宣教、神の支配の実現を目指したとき、とてもできるわけがない、と思うかもしれません。しかし、その世界の100分の1の範囲、100分の1の人間の関係であったら、できるかもしれない。そして、そうしたグループ、群れが数多く集まるのなら。とても無理と思うことも可能になるかもしれない。また、これらのモデルは、各地の立つ教会、各地の存在するキリスト者の群れを思わせます。
 
自らの立たされている場において
 また最初に、コンテキストという話をしました。コンテキストの違いは、私たちが所属する場所の違いでもあり、与えられている立場の違いとも言えるかもしれません。興味や課題は共有できないかもしれませんが、広い意味において、同じ教会と言えるかもしれない。また、現代的な課題に引き寄せて考えてみることも出来ます。平和の問題、いきなり5000名、世界の平和のこととして、考えてしまうと難しいかもしれませんが、その50分の1、100分の1の人数から考えてみる。国よりは、県や市、さらに小さい町のレベルで、平和を考えてみる。また、格差の問題でもそうかもしれません。身近な問題として考えてみる。自分たちの足下にある格差や貧困の問題。自らの立っている場所から考えてみる。
 弟子たちは、自らがパンを持っていないことに捕らわれていました。宣教とは、どこかに出かけていくところ、また何かをしてあげること、と考えていたのではないでしょうか。ですから、分け与えるものが無い、食べ物がない、からできない、何もできないと。今日の物語は、自らの持ち物は、わずかであるかもしれないけれども、持っている物を分け合うこと、そうした姿勢をイエスは求めていたのではないでしょうか。そして、それは私たち今を生きるキリスト者においても、求められている姿勢ではないでしょうか?この五つのパンと二匹の魚の逸話において、奇蹟はどこに起こったのでしょうか?パンと魚にでもなく、一人一人の心の中でもなく、人と人の関係に奇跡がおこったのだ、と言えないでしょうか。そして、それこそがイエスが求めた「神の国」「神の支配」の実現の形と言えるのではないでしょうか。

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