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『イエスのパン種』(マルコ福音書8:14〜21)

2018.07.01(14:45) 373

『イエスのパン種』
(2018/7/1)
マルコによる福音書 8章 14~21節

舟としての教会
 今日の箇所の舞台である船は、キリスト教の伝統において「教会」や一つの「集団」、また、この「世界全体」を指します。
一つの教会において、また一つの集団において、また世界において、パンが一つであったとき、どのようなことを考えるでしょうか。世界中に、パンが一つしかない、ということはあり得ないことです。ですが、世界が置かれている状況を当てはめて考えることが出来るでしょう。限られた食料や資源、また世界で進んでいる環境破壊、限られた自然として捉えることが出来ます。そうした限られているものをどのように考えていくのか、ということです。一つの集団において、国や民族でも良いでしょう。また教会において、一つのパンを分け合おうとなったら、どうするでしょうか?様々な方法によって解決しようとするのでは無いでしょうか。
 この箇所においては、パンは一つ、12弟子とイエスというメンバーであれば、13等分にするという方法もあるでしょう。また5000人の共食の記事のように増やすことも考えるかもしれません。しかし、この箇所において、イエスは間髪入れずに、ある警告を発しています。8章15節の言葉「「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」」と。こうした構造から、イエスがパンを増やす力を持っている奇跡行為者である、キリストである、ということが言いたいわけではなく、警告を伝えたい箇所であることをわかります。

ファリサイ派とイエス
ファリサイ派の人々、イエスの敵対者として何度も登場します。しかし実態はどうかといえば、いろいろな議論があります。イエスの活動にしても、ファリサイ派の活動にしても、ユダヤ教の革新運動という共通する性格を持っていました。そして神殿を中心としたユダヤ教の時代を終えて、律法を中心としていたファリサイ派の人々がユダヤ教の歴史の中心となり、ラビと呼ばれる律法の教師という存在が重んじられるユダヤ教(ラビ・ユダヤ教)となっていきます。どちらも神殿を中心としたユダヤ教からすれば、革新運動だったわけで、原始キリスト教とファリサイ派は似たような位置にありました。また律法を生活実態、人々の実態に合わせた形で変えていこうという立場も似ていると言えば似ており、ライバルのような関係であったと言われています。そのような背景から、違いを際立たせるため、ライバルを貶めるため、近親憎悪的に福音書においてファリサイ派はひどく描かれているのではないか、といった指摘をする意見もあります。
 また、ファリサイ派をさす「ファリサイ」とは、「分離主義」という意味です。「他の者と隔絶した存在」「自分たちさえ聖なる者」とも言えます。そして、さらに進んで、自分たちのみが「主なる神さま」に助けられれば、それで良い。とてもひどい言い方をするとこういう考え方であります。が、厳密に言いますと、少し違いまして、ファリサイ派の人々は自分たちだけが「救われれば良い」と考えていたわけではなく、自分たちのような存在が、「主なる神」の教えを完全に守ることによって、この世の中全体が救われるだろう、そしてそのときには、自分たち以外の人々も救われるだろうから、ファリサイ派の教え、自分たちという存在を重んじなさい、という考え方でした。

ヘロデ派の人々
 そして、そのファリサイ派と共にヘロデと出てきますが、これはヘロデ大王や息子であったアンティパス個人ではなく、「ヘロデ派」、イエスが生まれた頃から活動期までユダヤ王家を形成していたヘロデ王家の人々、それにつながる人々を指しています。一般に世界史の世界においては、イエスが生まれた頃のヘロデをヘロデ大王と呼びます。そしてイエスがメシア、キリストとして活動していた時期、その息子ヘロデ・アンティパスが、ちょうどガリラヤ地方の領主として活動していました。マルコ福音書6章14節には、ヘロデがバプテスマのヨハネの首をはねたという記事がありますが、これは息子の方のヘロデであり、イエス自身の言葉として、ルカ福音書7章24~25節にはこのような言葉があります。[P.116]
「7:24 ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 7:25 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。」
 「華やかな衣を着て、贅沢に暮らす人」として記されておりますが、ヘロデ・アンティパスであります。ヘロデ派と呼ばれる人々は、ヘロデ家を頭として、ユダヤ人でありながらも、ローマ帝国により強く従うことによって、またユダヤ教のある種の厳格的な部分を捨て去ることによって、王としての立場、また支配層という立場を与えられて君臨していました。父であるヘロデ大王にしても、子であるヘロデ・アンティパスにしても、ユダヤ人たちが大切にしていた神の教えの中心である神殿や律法などについて、あくまでユダヤ人たちを支配するための道具としてしか見ていなかったように考えられます。そういった意味では、ただ単に神ならぬ権威に頼っていた人々というよりも、自らの利益のため、自らの立場をまもるために、この世の権力に妥協的に物事を進めようとしていた人であり人々であったということが出来ます。

パン種に頼る者
 イエスは、「ファリサイ派の人々」や「ヘロデ派の人々」の「パン種」に気をつけろ、と言っています。そして、ここで一つとても興味深いことがあります。それは、「パン種」を警戒せよと指摘する一方、一貫して、弟子たちへの持っているパンについては、「パン」で統一されていることです。8章17節から19節前半をお読みします。
「8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」」
 「パン」と「パン種」が比較する中で浮かび上がってくることは、「パン」は一つのパンでしかありませんが、「パン種」は増えること、膨らむということです。律法において、パン種(酵母)は嫌われている存在です。神ならぬ力、自然ではない力で膨らむという捉え方からであり、神の捧げるパンは、種なしパンでなければならない、また特別なお祭りのときも、種なしパンを食べるように、と進められていました。(Ex12:15)
 そのような背景から、どのような意味が「パン種」には込められているのでしょうか。それは、おそらく「イデオロギー」「宗教心」と言った、人と人の間で繋がっていく、ある種の考え方や心の持ちようを指しているのでは無いか、と捉えることができます。ファリサイ派にしても、ヘロデ派にしても、また宗教団体や政治団体にしても、人と人との繋がりは、その集団の活動での活躍や役割、立場によって評価されます。そして、役に立たないと見れば、すぐに棄てられてしまう。そうした構造を持っていたのでしょう。人々のつながりは、パン種が膨らむように、広く繋がっていくかもしれません。しかし一方、そうした勢いを失ったり、パン種から離れてしまったりすると、パン種も小さくなるしか無く、人々も棄てられてしまったり、離れていくかしかない。とても不安定なものと言えます。

パンに頼る者
 そして、パンに頼るべきだ、というイエスの主張は、このように捉えられるのではないか、と思うのです。それは、まず一対一の人と人の関係を基盤にして生きていくこと、個々人を大切にすること、キリスト教信仰は、そうした思いを基盤にしている、ということをイエスは伝えたかったのでは無いでしょうか。今日の箇所最後にイエスは、このようにおっしゃっています。8章19節から21節。
「8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。」
 この言葉は、マルコ福音書6章30節において行われた5000人が満腹したといわれるパンと魚を増やした奇跡、またマルコ福音書8章1節において行われた4000人が満腹したといわれる奇跡を背景にして理解することができます。あの奇跡は、多くの人々がイエスの言葉を求めて集まったときに起こりました。そして、ただ単に人が多かったから、パンと魚が増えたというお話ではありませんでした。ただ単に、5000人の人々にパンが増えて与えられたという話ではなく、50人や100人のグループに分けられた中で、5つとパンと2匹の魚によって、不思議なことにみんなが満腹したというお話でした。これは私なりの解釈ですが、5000人というグループではなく、50人とか100人、また更に、小さな人のグループになったとき、隣に座る文字通り隣人を助けようという思い、分け合おうという思いが広がって、みんなが満腹した話と理解することが出来るのです。

イエスの思い
 また、パンを配った後に5000人のときは、12つのカゴ、4000人のときは、7つのカゴが残ったとあります。とても象徴的な数ですが、ユダヤ人キリスト者の代表である十二弟子の数、異邦人キリスト者の代表者として7人を暗示する言葉であり、後の教会の広がりを示そうとしているのでしょう。最後の箇所、21節。イエスさまに「まだ悟らないのか?」と弟子たちは問われています。これは同時に聖書の読み手一人一人に向かって投げかけられた問いでもあります。キリスト教の教えの中で、教会の中でも大切なものは何でしょうか。今日の「パン種」と「パン」の比較から捉えられることは、集団や組織としてのあり方よりも、一人一人の人に向き合うことこそ、キリスト教の道であるということではないでしょうか。
 わたしたちは、ときに人に渡すべきパンを持たないものかもしれません。そして、時に弱さから「パン種」に頼りがちな心も持っています。しかし、イエスの言葉を胸に、一つのパンを持つ者として、隣人と一つのパンを分け合う意識を持つ者として、新しい一週間も、歩んでいきましょう。


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