FC2ブログ

タイトル画像

『神のみに信頼を寄せて』(マルコ福音書10:23〜31)

2018.04.22(21:04) 368

『神のみに信頼を寄せて』
(2018/4/22)
マルコ福音書 10:23~31

誰が救われるか
 今日の箇所は、「財産についての勧告」として、読むことが出来ます。が、23節のイエスの言葉「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」この言葉をそのまま受け取りますと、この直前の箇所、「財産をもつ青年」がイエスの前から悲しみながら、去っていったように、誰でも少しばかりの蓄えはあるものであり、私達も悲しむべき存在でしかないのかもしれません。しかし、ここで考えてみたいのは、この箇所の読み方は随分と極端な読まれ方が多い、ということです。いくつかの注解書を開いてみますと、大まかに二つの要素が語られることが多いと感じます。一つは、文字通り「財産を持っていると神の国に入ることは出来ない」「財産は悪」という要素、そして、もう一つ「なによりもイエスに従うことが重要」という捉え方です。
 そして教会の歴史において、この箇所は様々な議論を呼び起こしてきた箇所であります。例えば、教会の中には、長い時間をかけて、このような議論が真面目に行われていました。「イエスがまとっていた衣服は、イエスの財産にあたるのかどうか?」と。

中世の教会において —ブラザー・サン・シスター・ムーンより—
 二つの映画をあげて、財産に関するキリスト教会の歴史を紹介したいと思います。一つめは、『ブラザー・サン・シスター・ムーン』、聖フランチェスコを題材にした映画です。12世紀のイタリアで活躍した人で、修道士になり、現在も続くカトリックの「フランシスコ修道会」を作った人であります。フランチェスコは、裕福な商人の跡取りでした。しかし彼は、何もかも捨てて、修道士になりました。一切を捨てて、托鉢をして、廃墟となった教会を建て直すことに専心した人であります。映画の中には、彼が文字通り何もかも捨てて裸で町を出て行くシーンがあります。何も持たず「貧しさ」に生きる、というのが彼の修道士としての生活でした。おそらくフランチェスコは、イエスの言葉に触れており、今日のような箇所に基づいて、こうした決断をしたのではないか、と思われます。
 フランチェスコは自らの持ち物をすべて捨てて教会を建てるために、人々を訪ね歩いて托鉢をしておりました。教会を建てるためであれば、財産を持っていたのであれば、その財産を使って教会を建てれば良いのではないか、と思います。しかし、フランチェスコは「すべてを捨てて」、修道士となり、教会を建てるため、托鉢(お恵み)、今日風に言えば、献金を集めて、教会を建てました。ここには、彼なりの教会への意識、財産への意識があったと感じます。というのは、同じ財産、お金であったとしても、そこには思いが込められている。財産、お金に関して、ただお金があれば良いというわけではない、と考えていたのでしょう。また、カトリック教会における修道会というのは、今でこそ、当たり前のように様々な修道会が存在しますが、当時は、ややこしい立場の存在でした。
 修道会とは、基本的には修道院において、集団生活を行い、祈りや労働などに専門的に従事する集団でした。しかし、フランシスコ会などの修道会は、違いました。カトリック教会の中でも独自の考え方を持って教会を建てようとしていました。そして主流派の教会と、大きく違ったのは、財産に対する考え方です。そうした考え方の違いというのは、主流派のカトリック教会への批判を内包していると言えます。姿勢の違いは同時に考え方の違いであり、内部の異分子という立場が修道会という存在であったと言えるのではないか、と思います。

中世の教会において —薔薇の名前から—
 また、『薔薇の名前』という映画があります。ウンベルト・エーコというイタリアの作家が1980年に発表した小説が原作であり、主人公は、ショーン・コネリーです。13世紀のイタリアとある修道院において、修道士たちが犠牲になる殺人事件を題材にした映画です。
 この映画の中において、フランシスコ会の修道士とカトリック教会のお偉い人たちが、さきほど紹介しました議論をしている場面、「イエスがまとっていた衣服は、イエスの財産にあたるのかどうか?」が描かれています。フランシスコ会は、清貧(清く貧しく)と、言うなれば信仰の二つを柱としています。また、この映画にはショーン・コネリー演じる主人公に、敵対する血も涙もない異端審問官がベルナール・ギーという人が登場します。この人物、かなり残酷な人として描かれておりますが、歴史的に記録も残っている人で、どのように魔女を有罪にしていくか、というマニュアルを記した人として知られています。
 このベルナール・ギーが所属するドミニコ会です。フランシスコ会と敵対していますから、清貧(清く貧しく)なんて価値観なんてもっていないと思っていたら、実は、このドミニコ会も、清貧(清く貧しく)を柱にしています。が、もう一つの柱が違いました。フランシスコ会のもう一つの柱が、「信仰(信頼)」であるのに対して、ドミニコ会は、「神学」を柱としています。そうした姿勢から、正統な信仰とか、こういうものです、と決めて、正統的な神学から外れた人々をどんどん裁いていたわけです。
 この時代、「貧しさ」を重んじる異端とされる教派が、幾つも生まれていました。そうした土壌、背景を多くの地域で共有していたからでしょう。莫大な財産を保持していたカトリック教会への批判、一般民衆の貧しさ、そして今日の聖書の箇所のようなイエスの言葉が根底にあったのではないか、と考えています。『薔薇の名前』の中にも貧しい人々が登場し、また極端な異端的な信仰を持った人々が登場します。当時は、まだ聖書の言葉が一般の人々が知ることはなかったのですが、一部の人には、今日の箇所のようなイエスの財産に関するラディカルな(根本的な)問いの言葉が伝わっていたのでしょう。おそらく、多くの異端者と共に、名も無き多くのフランチェスコがいて、違いはそんなに大きくは無かったのではないでしょうか。
 祭司は都市という都市、町や村の有力者がなるもの、司祭職もお金で売買される、司祭の子は司祭となり、多くの財産を所有するようになっていた。そうした古代カトリック教会に対する不満の受け皿として、異端とされた教派があり、フランシスコ会がありました。そしてフランシスコ会など修道会はカトリック教会に認められることは認められましたが、事細かな規則によって、教皇への絶対服従が、厳しく管理されていました。また、ただ単にフランシスコ会を教会の新しい形、信仰を認めたというわけではなく、フランシスコ会を、いわゆる異端と正統をわける防波堤として作ったという狙いがあるわけです。
 存在として、両義的だったわけです。フランシスコ会という集団は、清貧思想を持つ人々の受け皿となっていきました。そして同時に、フランシスコ会も異端審問の役割を担っていました。「自分たちまでは正統、その枠より出てしまったら、異端である」という立ち位置だったわけです。そして、こうした教会への財産に対する問いは、この時代以降も、どんどん大きくなっていきました。一般の人々からの目もありましたが、ヨーロッパ諸国の王族にとっても、古カトリック教会の力、財産は目の上のたんこぶだったでした。そして、そうした批判的な様々な小さな流れが、どんどん大きくなっていき、15世紀のドイツ、ルターを初めと知る人々に始まった宗教改革に繋がっていったわけです。宗教改革は、「聖書のみ」という言葉がよく知られています。
 現在でも、セクシャルハラスメントに対して、「Me Too運動」という運動があります。最初は、小さな1人1人の声の声でした。しかし、それが一つの国の中で、また国境を越えて大きな流れとなっていっています。教会の変化も、フランチェスコからルターまで300年近くの年月が経っていますが、確実に変革が進んでいた。気の遠くなるような歴史の流れですが、社会でも教会でも変化というものは、そのような形で進んでいくのかもしれません。

現代の教会において
 聖書のテキストに戻って今日の箇所、10章29~30節をお読みします。
「10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」
 家族や育った家や土地を捨てること、農民を前提としている言葉に感じられます。全てを捨てること、いわゆるイエスの弟子たちは、すべてを捨てて、イエスに従いエルサレムへの道を歩みました。では、それ以外の人々は、救われないのか、というとそうでもないでしょう。イエスは癒しを多く人に行っていますが、「従いなさい」と言っていることは実はないのです。ですから、今日の箇所の直前の金持ちの青年への言葉は、かなり例外的なものであります。イエスとしては、自らの正義というか正しさを誇る若者に対する試みと言えるかもしれません。このような想像が成り立つのではないでしょうか。イエスとしては、彼が財産を持っているかどうかということよりも、自分を神に対して、誇ること、そちらの方がある意味、気になったのではないか、もっと進んでいえば、気に障って、このような問いを問うたのではないか、と考えられるわけです。
 たしかに、神のために財産を捨てることができるか、という、とても強い問いではあります。簡単にできることではありません。どんな人でも少しぐらいの蓄えはあるものです。そうした背景や文脈から考えてみますと、やはりイエスは財産の善し悪しという単純な問いを問うているのではないのではないか、と思えます。そして、イエスがこの若者に問うたのは、あなたは、神に対して、どれだけ信頼を寄せて生きているのですか、ということではないでしょうか。またこういう問いかもしれません。
「あなたは確かに、神の教えに従って生きている。しかし、それは誰の力、何の力によってなのか?また、何もなくなったとき、神に従うことが出来るのか?」

神のみに救いを寄せて
イエスは福音書のあらゆる箇所にいえることですが、様々な箇所で「物事の逆説」を説いております。今日の箇所でも、「財産の所有」に関する話かと思えば、「家や兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」を捨てたとしても、それを何百倍にも受け取る、「先の者が後になり、後の者が先になる」と。金持ちの若者は、自らが善とされる、義人と認められることを望みました。考えてみると、何のために?という問いも出てきます。神に信頼するという姿勢は、同時に、自らの評価、自らが善とされるか、悪とされるかということも含めて、神に委ねるということにつながるでしょう。
 私たちのあり方に引き寄せてみて、このことを考えたらどうなるでしょうか。聖書を読んだり、教会に足を運ぶこと、神さまに、またイエスさまに善とされるためであるとしたら、今日の箇所に現れるイエスはどのような言葉を私たちに投げかけるでしょうか。
 ある知識人が、現代を捉えたとき、うろ覚えですが「『~のために』ということが多すぎる社会だ」という趣旨の言葉を聞いたことがあります。そういえば、よくよく「将来のため」「安全のため」「安心のため」「安定のため」「健康のため」などという言葉によって、随分と息苦しい思いをしたことはないでしょうか。
 今日の箇所10章26節にこのようにあります。
「それでは、だれが救われるだろうか」、と。
 金持ちの若者は、「救いのために」、神の言葉に従っていたのでしょう。イエスはそうした姿勢を糾そうとしたのではないでしょうか。確かに、人の力では誰も救いに至ることはできないでしょう。今日の箇所は、神の力に信頼を寄せて歩むのなら、イエスの導きに身を委ねて、歩むのなら、人はきっと救いに至ることができるとこの箇所は述べているのではないでしょうか。神にのみ信頼を寄せること、人には不可能なことかもしれません。しかし、そのような目標、道しるべを持つことによって、人はより良い道を歩むことが出来るのではないでしょうか。


1804221.jpg 1804222.jpg


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 名古屋情報へ
にほんブログ村
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

スポンサーサイト


周縁自体


<<『放浪宣教の手引き』(ルカ福音書9:1〜6) | ホームへ | 『信仰の原点としての復活』(ヨハネ福音書20:19〜29)>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nantaro3.blog119.fc2.com/tb.php/368-60fefc34
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)