FC2ブログ

タイトル画像

『信仰の原点としての復活』(ヨハネ福音書20:19〜29)

2018.04.08(22:07) 367

『信仰の原点としての復活』
(2018/4/8)
ヨハネによる福音書 20章 19~31節

ヨハネ福音書における受難と復活
 ヨハネ福音書の特徴は、一貫して、イエスが神と共にいた存在として描かれているところにあります。
 有名なヨハネ福音書の冒頭、1章1節「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」また、1章14節をお読みします。「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
 この言(ことば)は、イエスのことを指しています。「先在のキリスト論」という言い方をして、キリストはこの世の始まりから、神と共にいて、神から離れてこの世にやってきたという神学論であります。そして、ヨハネにおけるイエスは、この神学に基づいて、何もかも最初から最後まで、あらかじめ知っているという立場で描かれています。
 大貫隆という神学者は、「金太郎アメみたいな文書」と表しました。言うなれば、最初から最初まで、同じことを伝えようとしているからです。イエスは、救い主であり、先在の神であり、すべてを最初から最後まで知っていた、ということです。ですから、ヨハネ福音書におけるイエスは、自分が逮捕される状況になっても、処刑される状況になったとしても、恐れることも、叫び声を上げることはありません。ただ、予定どおりに事柄がなされること、ただ予定されていた時間が過ぎていくことだけのように、時を過ごしていきます。
 そうした有り様が、末期のぶどう酒を口に含んだとき「渇く」といった言葉、また事切れるときに語った「成し遂げられた」という言葉に現れています。そうしたあり方は、マルコ福音書とは、まったく逆のものと言えます。マルコ福音書において、受難、イエスの地上に於ける苦しみとは、イエスがこの世の歩み全体を指している様に思います。というのは、マルコにおける悲劇性というのは、弟子たちがイエスへの無理解、そして裏切りに重点が置かれていると捉えられるからです。イエスは、何度も自らが十字架にかかる、と宣言していながら、そのことを理解していませんでした。弟子たちは、あくまでイエスがユダヤ人の王となることを期待していた。まあ、おそらくイエスがゲッセマネの園で逮捕される瞬間でもそのように考えていたでしょう。ですから、ペトロにおいても、他の弟子たちにおいても、「たとえ、命を失おうとも従います」ということができたのでしょう。そうした弟子たちの無理解とイエスの思いの違い、ズレに悲劇性があるわけです。
 ヨハネ福音書におけるイエスは、最初から最後まで知っている、ということは、一つ問題が起こってくるわけです。受難にならないわけです。全部、知っているとなると。そして、このことが神学という不思議な学問でいうと、大きな問題となるわけです。というのは、キリスト教徒の救いというのは、イエスの苦しみと命(死)によって贖われた、ということになっています。が、先在のキリスト論、ヨハネ福音書におけるイエスの有り様ですと、イエスが命を捧げたということに関しては、まったく問題がないのですが、苦しんだか?というと、少し問題になって来ていたと考えられるのです。

疑いの視点
 ヨハネ福音書は、90年代に生まれたと考えられています。そして比較したマルコ福音書は、4つの福音書の中で一番古いと考えられ、西暦でいうと60年前後、そして、その間、大きな違いがあったでしょう。イエスの死と復活は、30年と考えられています。マルコ福音書が生まれた60年だとしても、30年経っています。そうすると、直接にイエスの言葉を聞いた人も少なくなってきていたでしょう。そうした状況から福音書が生み出されたと言えます。しかし、ヨハネ福音書が生まれた時代は、それよりも、更に30年です。直接に、イエスを知っている人がいるかどうか、分からない時代です。そうした状況の中において、本当にイエスがいたのかどうか、本当にキリスト、救い主、神の子であったのか、疑問に思う人も増えてきたであろう時代です。そして同時に、このような問いもされたでしょう。極端に言えば、このような問いでしょう。
「イエスは、ただの犯罪者であったんじゃないのか。」「ただ、ローマ帝国や神殿に反抗したテロリストじゃないのか」
キリスト教徒の間でも、こんな問いがあったと思います。
「本当に神の子だったのか」「イエスの死が私たちと関係あるのか」「イエスが私たちの罪のための犠牲となったというのは、本当か?」…。
 今日の箇所の最後の箇所、20章29節の言葉をお読みします。
「20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネ福音書における受難
 復活の記事は、各福音書によってかなり違いがあり、その福音書にしか記されていない特殊資料も多いという特徴があります。そうしたことから、今日の記事に至るヨハネ福音書におけるイエスの復活について、なぞってみます。十字架刑の後、イエスの亡骸は亜麻布に包まれて、大きな岩が入り口に置かれていた横穴の墓の中に納められます。が、三日後に、マグダラのマリアが訪ねていきましたが、大きな石はどけられて、遺体がなくなっていた。
 驚いてペトロともう1人の弟子を呼びに行って、3人でその遺体が失われていることを確認して、悲しんでいた、その後ろにイエスが現れ、主イエスが復活したことを知った。その後、弟子たちが集まって隠れていた家に、またイエスが突然現れて、手とわき腹を見せ、たしかに十字架にかけられたイエスであることが示された。しかし、その場に、トマスはおらず、復活について疑いを抱き、「傷に指を入れる」と言った表現までして、イエスの復活の事実を確認すること求めます。トマスのイエスの傷に指を入れてみたいという言葉。神学書などを開いてみますと、「イエスさまが釘で打ち抜かれた手の傷、槍で刺されたわき腹の傷に触れることによって、主イエスの痛みを知るためであった」という説明もなされる言葉であります。とても信仰的な捉え方と言えます。しかし、他の福音書における受難物語のとらえ方や強調点の違いを考えたとき、必ずしも、そのようには言えません。
 また、ヨハネ福音書が生まれた時代、キリスト教会はひどい迫害状況にあったと言われています。非常にグロテスクな表現は、そうした迫害状況の反映かもしれません。具体的にキリスト教を信じることによって、十字架に付けられたり、槍で傷つけられている人がいたとも考えられるわけです。そのように考えてみますと、トマスが、イエスの傷に指を入れなければ信じない、という言葉も非常にグロテスク、悪趣味な表現もそうした雰囲気を表している、また迫害の中における教会の友たちの言葉、叫び、と考えてみますと、うなずけるような気がします。そして、そうした痛みは、再びイエスの苦しみの意味を問う問いに繋がるでしょう。イエスの苦しみが私たちの罪のためのモノだったのか?
 ヨハネ福音書の生まれた時代に迫害を受ける人の苦しみが本当に無駄なモノではなく、意味あるものだったのか。50年前の一人の男性の苦しみが、わたしたちの罪のためだったのか。そうした議論がこのトマスの言葉の背景にはあったのではないでしょうか。イエスの復活、キリストの復活が本当にあったのか無かったのか、ということ、「聖書にそのように書いてあるから信じる」という人もいるでしょう。しかし、聖書の記述について、考えてみますと、一つ、大きな問題があることに気がつきます。福音書というものは、復活について、信じている人が書いている、ということです。歴史書や記録ではない、ということです。そうなると、客観的な証明という意味では、まったく成り立たないということです。

復活を信じるではなく…
 そんなヨハネ福音書の背景について考えてみますと、イエスの苦しみについて考えることは、同時に復活について考えることではないかという考えに私は至ります。また、イエスを神の子として信じること、またキリストとして信じることは、同時に復活について信じること。福音書を読むこと自体、そういう構造になっているのではないか、ということです。ヨハネ福音書の著者にとって、復活は疑いようの事実、前提とされているわけです。そうしたことを、疑いを持ってしまった人々、時代を超えて同じような思いを持つような人々に伝えようとしているのではないか。
 今朝、テレビで「こころの時代」を見ていました。現在、70歳前後のアメリカで育った日本人で仏教を宣教している人の話でした。その人が、キリスト教のことを指して、(何かしらの事柄や教義を)「信じる宗教」であるという表現をしておられました。また仏教のことを指して、「信じる宗教ではなく目覚める宗教である」ということもおっしゃっておられました。たしかにその通りかもしれません。よく言われることです。キリスト教を信じるとは、イエスが神の子であるかどうか、を信じること、復活したかどうかを信じることだ、と。しかし、聖書のテキストから示されることは実はそうしたことではない、ということを最近考えております。私が考えているキリスト教の信仰というのは、「信じる宗教」というより、「(イエスの後を)歩む宗教」ではないか、ということです。本来、キリスト教を信じるというのは、イエスの存在が自分自身の生き様に関係があるということだけで十分ではないか、と思っています。
 いわゆる教義的な信仰のあり方、「復活」というのは、信じるか信じないかではないということができるのではないでしょうか。イエスの苦しみが私と関係がある、イエスは私たちのために死んだのだ、ということを信じる時点で、イエスの復活を受け入れるということに繋がるのではないでしょうか。また、イエスの痛みに共感する、痛みを覚えるという時点で、自分とは違う他者の痛み、存在に対する共感も出てくるでしょう。そうしたあり方一つ一つが、イエスの復活を受け入れることに繋がっているのではないでしょうか。


1804082.png
 母親の誕生日祝いでした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 名古屋情報へ
にほんブログ村
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
スポンサーサイト


周縁自体


<<『神のみに信頼を寄せて』(マルコ福音書10:23〜31) | ホームへ | 『今も続く裏切りと許し』(マルコ福音書14:32~42)>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nantaro3.blog119.fc2.com/tb.php/367-1013e2ad
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)