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「持つ者と持たざる者の救い」(マルコ10:13〜22)

2018.03.04(17:31) 365

『持つ者と持たざる者の救い』
(2018/3/4)
マルコ福音書 10;13~22

神を知るということ
 今日の箇所、イエスと弟子以外に二人の登場人物が現れます。問題となっているのは、それぞれ「神の国に入ること」、「永遠の命」を得ることとなっていますが、内容的には、同じことです。そして、こうした箇所から私たちはイエスの意志、神の意志を触れ、自分たちの生きる指針にしていくわけです。そうした積み重ねの中において、イエスに触れる、神の触れることが出来るのではないか、と私は考えています。
 また、言い方を変えれば、完全に聖書を読み解いたとしても、正しい読み方があったとして(私は無いと思っていますが)、それを実践したとしても、理解出来ることはない、あくまで神そしてイエスを空間の中にある一つの人物、物体と捉えたとして、人の目、人の側から見えるのは、一面でしかないわけです。そうした意味で言えば、あくまで一部しか理解することは出来ない。そんな謙虚さが信仰ではないか、と思ったりしています。
 また、キリスト教であろうとなかろうと、酷いヤツもいますし、逆に良い人もいます。また更に、洗礼など受けていなくても、「あの人はクリスチャンみたいだ」とか「キリスト教精神を持っている」と思う人もいます。と考えていくと、いったい何がキリスト教なのか、ということは、ずいぶん曖昧なのかもしれない、というように感じます。

無力な子どもとして
 聖書の話に戻りたいと思います。今日の子どもについての10章15節のイエスの言葉、
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:15)
また、金持ちの男に対する10章21節のイエスの言葉、
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコ10:21)
どちらも、とても困難な指針であると感じます。どちらも有名な箇所、言葉であります。しかし一緒に読まれるということは、あまり無いように思います。今日は、それらの言葉を共に、一緒に読み解いたとき、どのような導きがあるのか、というように感じます。
 最初に前半の子どもに関する話に触れます。イエスは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ」と語っておりますが、イエスが生きた時代の価値観からいえば、まったくナンセンスなこと、まったく不可解なことです。なぜなら当時の考え方において「神の国」や「永遠の命」に至るためには、正しい律法の理解や律法の実行が必要となります。しかし、ユダヤ教の考え方において、子供とは完全ではない者、律法の教育を十分に受けていない者です。そうしたことから考えてみますと、イエスが語った言葉、子どもが神の国を受け入れるような人でなければ、入れないという言葉はそういった考え方を、正面から否定する価値観と言えます。また、この「子供のように」というところがポイントです。子供のように「無邪気に物事を受け入れる」態度でなければ「神の国には入ることが出来ない」という意味でしょう。また同じ内容であっても、「何も知らずに」と否定的にいうこともできますし、「無垢に」と言えば肯定的な感じがしますが、あくまで、ユダヤ人たちの文脈においては、「子どものように」とは、保護の対象ではあると思います。また、極端な例ではありますが、律法には、親の言葉を聞かずに育ってしまった子どもは殺してしまっても善い、という箇所まであります。(申命記21:18-21)

金持ちの男として
 次に、金持ちの男性がでてきて、イエスに問います。10章17節。
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
 この男性、自らの正しさを絶対の自信があったのでしょう。イエスが十戒の戒めを示すと、重ねて言います。10章20節。
「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。」
 すごい自信です。なかなか言える言葉ではありません。しかし、イエスは、この男性、若者のように思いますので、若者といいますが、若者に言葉を返します。10章21節。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 何が問われているのか、と言えば、一人の倫理的な行動ということだけではなく、立ち位置というのでしょうか。豊かな家、財産をたくさん持っている家庭に生まれたこの若者。自らが他者に比べて、恵まれていること。また厳しい言い方をすれば、そうした豊かさに守られているからこそ、律法の一字一句を守ることができた、ということをイエスは問題としている。また更に言えば、地上における富というのは、イエスにとっては価値の無いもの、もう一歩進んで言えば、イエスが語った「貧しい人々のために施す」という勧めは、本来、それぞれの人に必要なモノを、豊かな者が不当に得ているのは善くない、という考え方が根底にあるのでしょう。主なる神の恵みは、あらゆる人に当分に与えられるべき。イエスの言葉で言えば、
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)
そうした完全平等主義的な考えが根底にあるのかもしれません。

中途半端な存在である私たち
 福音書は、イエスの歩みが時系列をもった物語風にまとめられたものであります。その前には、断片的な一つ一つのエピソードがあり、それが組み合わされているわけです。ここで、子どものエピソードと金持ちの若者のエピソードが並べられていることは、編集者の意図があるでしょう。そして何を伝えたかったか、と言えば、主なる神の救い、そしてイエスの語る救いの幅についてではないでしょうか。
 私たちは、誰でもイエスさまの前に立つとき、また主なる神さまの前に立てば、不完全な子どものような存在であります。そういった意味でいえば、今日の聖書の箇所にあったように、私たちは誰であっても、そのままでイエスさまに受け入れられている存在であります。同時に金持ちの若者のように、自分たちはこのように善いことをしてきた、だから、神の国に入れるはずだ、永遠の命を得られるはずだ、と思っている存在です。子どもの存在とこの若者の存在、私たちの信仰とは、常にこの子どもと若者の間にあるのではないでしょうか。完全に子どもでもないし、完全にこの豊かな若者でもない、中途半端な存在として私たちは神の前に立っているのではないでしょうか。財産、力、能力、年齢、あらゆる意味で、人は違いがあります。信仰においても、教会だとすれば、教会の中での働きにおいても違います。私たちは、時に「持つ者」になり、「持たない者」になります。しかし、どのような存在であっても、神は私たちを常に救いに導こうとしてくださっている、というのが、キリスト教信仰のあり方ではないでしょうか。

救いを求めて
 最初に、キリスト教とは何か、といった話。内容的には、神義論的な議論、神とはどのような存在か、神の義、神が義となさることはどのようなことか、という議論です。一般的に、キリスト教徒、クリスチャンとは、洗礼を受けること、教会に日常的に通うこと、といったことを指すと思います。が、本当にそうだろうか、という思いがあります。教会に行っていなくても、キリスト者っぽい人もいます。また聖書や教会を知らない人であったとしても、またアーメンと祈らなかったとしても、この人は、イエスの歩み、キリストにつらなる者である、という人もいるでしょう。
 では、洗礼を受けるとはどういうことなのか、教会に通うとはどのようなことか、私なり言えば、キリストの教えに従って神の前において、常に謙虚に歩み出す決意をする、ということではないか、と思っています。私たちは、神の前に立てば、今日の箇所に従えば、どこまで行っても、子どもとこの金持ちの男の間にいるのではないでしょうか。時に、イエスが語った子どものように、まったく力ない存在として、また時に、金持ちの青年のように自らの行いによって正しさを証明しようとして存在です。イエスがこの二つのエピソードで示したのは、常に主なる神の前に、謙虚であること、それが信仰の始まりである、ということではないか、と感じます。

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