FC2ブログ

タイトル画像

『癒やしという形の救い』(ルカ福音書8:40〜55)

2018.02.20(11:30) 364

『癒やしという形の救い』
(2018/2/18)
ルカによる福音書 8:40〜55

12年間の病いと、12歳の病い
今日の箇所では12年間も出血に悩んでいる女性が登場します。この女性の「病」は当時は血というだけで「穢れたもの」として捉える文化でありました。女性の生理についても穢れたものとして捉えられます。生理中そしてそれ以後一週間は神殿に入ることが出来ないなどの律法があったほどでありました。レビ記15:25~27には特に生理中ではない出血に対して、このようにあります。(P.186)
「もし、生理期間中でないとき、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。」
この人は律法的には12年間この状態におかれていたことになります。そしておそらくは独身であったでしょうが、医者に自分の病状を見せることが出来るということから、富裕な層の人間であったということがわかります。ある意味でいえば、とても自立した女性であったと言えます。そして、もう1人の癒やされた人は、12歳の女性、女の子であります。12年間と12歳という年数の一致はイエスの癒やしの力の強調であり、「病い」の苦しみの重さをしめしていると言えます。そして、なぜ、この2名の癒やしを並列させたのでしょうか。よくなされる説明は、一つの癒やし物語の中に、もう一つの癒やし物語を挟み込むサンドウィッチ型の編集によって、イエスの癒やしの力、また慈悲深さを強調しようとした、という説明です。
 また、もう一つの理由があったのではないか、と思うのです。それは、「救い」の形として、イエスは、どのような罪であろうと救われるのだ、赦すのだ、ということの証明ではないか、というとらえ方です。

社会的「病い」と人間的「病い」
 『隣の家族は青く見える』というフジテレビのドラマが放送中です。(木曜日午後10時より)松山ケンイチさんと深田恭子さんが夫婦役で主人公。その家族と合わせて全部で4つの家族が、一つの空間(庭)を共有するコーポラティブハウスに住んでいます。中庭を共有していて、バーベキューなどもしたり、とかもできます。表向き、ある程度、成功して、安定していて、みんな幸せそうです。しかし、それぞれの家族に課題があります。松山ケンイチと深田恭子の夫婦は、子どもが欲しいとおもって不妊治療(妊活)をしています。しかし、なかなか妊娠できない、周囲の理解が得られない、誤解されるなどの苦労をしている。2件目の家庭は、娘さんが2人いる幸せそうなご夫婦、しかし、秘密があります。エリート商社マンだった旦那さんは、出張出張の仕事に疲れ果て、早期退職してしまいます。しかし、その妻はそのことをひた隠しにし、インスタ(SNS)などでは幸せな家族を演じます。そして裏では、なかなか再就職できない旦那さんをないがしろにしています。次の家族は、再婚の男性と若い女性のカップルです。結婚式はこれから、女性の方は子どもがいらない、という女性。しかし、男性の方には、前の妻との間に小学生の子どもがいて、その子どもを引き取らなければならない状況があります。
 そして、4件目は、男性の一人暮らしでしたが、一緒に親戚の甥が住んでいるということになっています。しかし実は、ゲイカップル、男性同性愛者のカップルだったのです。ちょうど先回、そのことがバレて、心無い張り紙が貼られてしまいます。そして更に、商社マンの幸せな家族を演じていた母親が、こんなことを言いました。
「そんな話は聞いていなかった。出ていってもらうか、私たちが出て行きます。」
また、こんなことも言っていました。
「娘たちには、大きくなったら結婚して、子どもを産むことが自然なことだっと教えている。だから、近くにいると困る。」
 ゲイ(男性同性愛者)が、同じ敷地にいると悪影響を受ける、と。騒ぎになると面倒だから、自分たちも奇異の目で見られる、から。社会的多数者が持ちやすい、性的少数者に対する排除の言葉です。一般から奇異な目で見られるから、自分たちも同じような目で見られるから、迷惑。こうした論理によって、多くの社会的な少数者が差別されています。

社会的追放からの復帰
 12年間も、出血する病に苦しめられた女性。病自体の苦しみと同時に、汚れた存在として虐げられていたでしょう。また、そうした病に至ったには、深い罪があるのではないか、という視線も加わっていたでしょう。では、すべての病は罪によってもたらされるのでしょうか。そうした視点、12歳の女性の病の癒やしを捉えたとき、単に、「罪によって、病がもたらされる。罪によって苦しみがもたらされる」ということを超える視点が出てくると言えるのではないでしょうか。先ほど、ドラマにおける同性愛者の話を紹介しましたが、イエスが生きた時代のユダヤにおいても、今現在においてもそうした差別が繰り返されていると言えます。
 癒やし物語の話に戻ります。12歳という年齢、ユダヤ人の男の子であれば、大人としての成人式を行う年齢です。そのことから逆説的に考えてみますと、女性(女の子)であり、12歳は成人もしていないのであれば、律法を守る義務もなく、無垢な存在、罪があるとは言えない存在であるのです。そうしたことから、この二つの癒やしの物語から言えることは、イエスの癒やしとは、罪ある状態から解放として救いではない、ということではないでしょうか。そして整理してイエスの癒やしを言葉化すれば、どのような存在であっても、救いに至らせるという力があるということではないでしょうか。

「いやし」という救い
 「病」には、この癒しの記事に現れますように、身体的に直接現れる「病」という状況と、社会から「病」または「異常」とされてしまう講造があります。イエスに立てられた教会であるならば、そういった社会に「病」と規定されてしまう間違った事柄に、積極的に発言していくこと、また積極的に寄り添っていくことがキリスト教会に求められていることであり、イエスの歩んだ歩みであり、「福音」と呼ばれるあり方ではないでしょうか。
 最後に、振り返って終わります。福音書に現れる癒やしをイエスに求めた人々のほとんどは、単に体の痛みからの解放を願ったものであったと思います。しかし、弟子たちができ、教会となっていく中、あつまってくる中において、ただ単に、癒やされただけではなく、そのことによって、家族や地域共同体への復帰、戻っていくことが出来た、とか、新しい自分を見つけた、とか、自分のことを受け入れられた、とか、そうした経験、救いを得た人々が出てきた。そうした救いを得た誰かが、イエスの癒やしを、物語として伝えようとしたとき、あえて12年の病の苦しみと罪など無い子どもの救いを組み合わせた。それは、イエスの癒やしは単なる病の癒やしではない。イエスは癒やしによって、「救い」を与えて下さったのだ、ということを示したかったのではないでしょうか。

1802181.png 1802182.png

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 名古屋情報へ
にほんブログ村
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
スポンサーサイト


周縁自体


<<「持つ者と持たざる者の救い」(マルコ10:13〜22) | ホームへ | 「『多数だから』こその痛み」(ルカ8:26〜39)>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nantaro3.blog119.fc2.com/tb.php/364-54425163
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)