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「『多数だから』こその痛み」(ルカ8:26〜39)

2018.01.21(20:26) 363

「『多数だから』こその痛み」
(2018/1/21)
ルカによる福音書  8章 26~39節

ユダヤにおけるローマ帝国軍
 福音書の中の登場人物、ほとんどはユダヤ人であります。しかし、今日の悪霊に取り憑かれた人のように少数の異邦人が登場します。異邦人たちを上げてみます。シリア・フェニキアの女(Mk7:24-30/Mt15:21-28)、ローマ総督だったピラト、ユダヤに駐屯していたローマ帝国の軍隊の兵士たち、そして百人隊長たちローマ兵があげられます。ローマ兵という存在。一般のユダヤ人にとっては、もっとも身近な異邦人であったでしょう。そして、ユダヤ人にとって、ローマ兵とは自分たちを支配する存在であります。「暴力装置」という言葉があります。軍隊や基地という存在は、実際に戦闘をしなくても、戦争状態にならなくとも、そこに存在するだけで、圧力を加える、という効果があるわけです。ユダヤ人にとって、ローマ兵とは目の前にある力なのです。おそらく日常的に、武器や防具を身につけていたでしょう。また、そうでなければ、まったく軍隊という意味がないわけです。兵隊がそこにいるだけでユダヤ人たちが反乱を起こさせないようにする効果をもたらすわけであります。
 今日の箇所、豚の大群の霊に取り憑かれた男が登場します。彼が具体的にユダヤ人であるのか、また異邦人であるのかは明確に記されていません。この男は、並行箇所になりますマルコ福音書において、イエスに対し、自らについて「名はレギオン。大勢だから」と答える箇所があります(マルコ5:1-20)。レギオン。固有名詞のようですが、実は軍隊の単位であり、1レギオンは、百人隊が、60集まった軍隊、つまり6000人ほどの軍団を指す、と言われています。
 そして、おそらくユダヤ属州に、1レギオン、6000人ほどの軍隊がいたと想像することが出来ます。そして、全体で2000人から6000人とすると、一つの居留地である町には、100人ぐらいが適当ではないでしょうか。そんな、想像をしてみますと、福音書に登場する百人隊長とは、その町の中で、一番偉い存在ではないか、と考えることができます。

デカポリスという地方
 今日の箇所の舞台、「ゲラサ人の地方」と呼ばれています。聖書の巻末のある地図で確認してみますと、ゲラサという場所は、デカポリスという地方に含まれています。「デカポリス」とは、ギリシャ語で「10の都市」という意味であります。おそらく、異邦人たちが新規に10の町をつくって移住していたような地域と考えられます。だからこそユダヤ人にとっては、汚れた存在であった豚も飼っていたのでしょう。
 27節によれば、イエスが陸に上がった直後、悪霊に取り憑かれた男がイエスに声をかけています。これは、悪霊が乗り移った豚が湖に飛びこんでしまったという空間的な状況にも合います。ゲラサという町、ある注解によれば、異邦人が多く住むヘレニズム的な商業都市です。異邦人たちが多く住むということ、多くの人や物が行き来する商業都市ということで、ユダヤ人からすれば二重に汚れた都市であります。また、地図によれば、ガリラヤ湖から55kmもあります。豚が飛びこむには、距離がありすぎると言えます。ということから、並行箇所のマタイでは、この逸話の舞台ゲラサを、ガリラヤ湖に近い都市ガダラに変更しています。(マタイP.14)
 そして、大量の豚がおぼれ死んでしまったという出来事の後、豚飼いたちがイエスの奇跡行為について報告しています。こうした職業の人がいたからも、異邦人の地域であるということがわかります。さらに、この豚飼いたちや癒やされた人は、イエスという存在が奇跡を起こす「神の子」であることを異邦人たちに伝えたわけです。
 異邦人が登場する福音書に登場する記事に思い出してみます。イエスが十字架上の死を遂げた後に、「本当に、この人は神の子であった」と言った百人隊長の告白(マルコ15:39)、また、シリア・フェニキアの女性がイエスに、断られながらも、娘のいやしを願った信頼(マルコ7:24-30)、そして部下の救いを願い、癒やしが実現した百人隊長(マルコ7:1-10)があります。これらの奇跡行為は、イエスがユダヤ人だけの救い主というだけではなく、異邦人にとっての救い主である、神の子である、という示す物語である、と言えるでしょう。

聖書を読むこと、人を理解すること
 今日の奇跡物語そのものについて考えていきたいと思います。1人の人にレギオンという単位によれば、6000もの悪霊がとりついていたと想像することが出来るでしょうか。
またルカ福音書には豚の頭数が記されておりませんが、マルコ福音書によれば、2000匹もの豚が湖に飛びこんだとあります。一度に、こんなに多くの豚が湖に飛びこんで死ぬことが出来るでしょうか?というか、とんでもない地獄絵図と言えるでしょう。また、先ほど触れたように場所はどこだったのだろう?物語自体、おかしな点ばかりです。
 こんな風に考えてみますと、とても事実とは考えられない、と考えるのが自然でありましょう。そうすると、これは史実ではなく、イエスのキリストという権威について説明しようと作成された物語である、と理解するということが出てきます。そして、この作業のことを非神話化という言い方をします。非神話化というと、神の物語を否定するように聞こえますが、どちらかと言えば、神の物語がどのような人々の信仰に基づいて神話となったか、ということを探る作業であり、信仰や神を否定するということとはまったく別問題といえます。
 そして、この神話化の作業はかなり多くの奇跡物語の読み方に出てくると言えます。例えば、嵐を沈めた(マルコ4:35-41)とか水の上を歩いたという奇跡(マルコ6:45-53)。どうでしょうか?本当にイエスがそのようなことを出来た、と思うでしょうか。また、変わったところでは、イチジクの木を枯らした(マルコ11:12-14)、という逸話もあります。
 これらの奇跡について、イエスの権威を示すため、とか、奇跡を行う存在イエスとして、話が膨らんだ、という理解があります。そういった意味では、今日の物語もそういった種類のものでしょうか。例えば、悪霊という存在は、ユダヤ人にとっては、異邦人の文化や豚に等しいから、こういう話になった、という理解も出てくるでしょう。

物語「ヨシュアとルキウス」 〜分断される個人〜
 今回の物語であったら、「レギオン」とは、ローマの軍隊のことであり、軍隊を暗示する象徴行為として理解する方向に行くでしょう。イエスはローマ帝国の力、権威に勝っているということを示そうとしているのかもしれません。しかし、これらの理解、非神話化の作業は、イエスを中心にして行われるのが常であります。が、この物語では、イエスではなく、癒やされた人に注目して、この非神話化の作業をしてみたいと思うのです。なぜ、彼は墓場に住んでいたのでしょうか。また暴れてしまうことだったので、鎖で縛られていました。そして、自らのことを「レギオン」と自己紹介しています。それは何故でしょうか?
 私は、この癒やされた人は、何らかの心の傷を持っていたのではないか、と想像しています。そうした傷が、彼を墓場へと促し、時に暴れてしまい、自らを「レギオン」と呼ばせていたのではないか、と考えています。そこで、そんな彼の心を傷つけた物語を想像してみました。少々、長くなってしまいましたが、紹介したいと思います。
 〜〜〜〜〜〜
 オレはルキウス。父はコリントで生まれ育ったローマ兵。母親と出会い、結婚し、デカポリス地方のガダラに駐屯兵として派遣され、そこでオレが生まれたんだ。強く優しかった父親、その軍服の姿に、オレは憧れて、大きくなった。小さな頃から大人になったときには、兵隊になりたいと思っていたんだ。そして、大人になった時、入隊して、正式にローマ兵の一兵卒となったときには、両親にも、とても喜ばれた。
 オレは、デカポリス地方に生まれ育った。そして、幼い頃から親しくしていたヨシュアという友だちがいた。名前は、ヨシュア、家が近かったこともあり、いつも一緒に遊んでいました。ガリラヤ湖に行って、釣りをしたり、原っぱで追いかけっこをしたり、いつでも一緒に遊んでいたんだ。
 しかし、不思議なことに、自分の家にヨシュアを連れてきたとき、どんな友だちでも、やさしく招き入れた父と母が、ヨシュアが来たときだけは、素っ気なく、冷たくするのでした。そして、ヨシュアの家に行ったときも、どこか、よそよそしいヨシュアの兄弟や親の態度がありました。なぜだろうか?と小さい頃は不思議に思ったんだ。
 しかし、大きくなるにつれて、その理由が分かってきた。ヨシュアはユダヤ人であり、ローマ人であるオレとは違うのだ、ということ。オレは支配者の側、彼は被支配者、つまり弱者さ。食べ物が違う。オレは豚肉が大好きだった、しかしヨシュアは絶対に食べなかったし、臭いがしただけでも近づかなかった。休みの日も違った、他にもいろいろ、と。
 でもヨシュアは、仲の良い友だちだっだ。でも、ある日のちょっとした出来事で、僕たちは友だちではなくなってしまった。オレのお父さんが、かっこいいローマ兵の軍服を着て、他の兵隊さんたちと行進する場面に出会ったときだった。うろ覚えだけど、オレは、ヨシュアにこんな風に声をかけたんだと思う。
「見て!ボクのお父さんもいる!カッコイイ!強いんだよぉ!」
 が、よく見てみると、1人のユダヤ人をロープで縛って連行しているところだった。そのユダヤ人の顔を見て、友だちのヨシュアは顔色を変え、突然、駆け寄ろうと走り出した。
が、ローマ兵の1人にひどく蹴られて、倒れてしまった。オレはヨシュアにかけより、体を起こしてやろうと、手を差し出した。しかし、その手をさえぎって立ち上がったヨシュアは、見たことも無いような目でオレを見て去って行きました。そして、ぼくたちは友だちではなくなった。後から知ったのだが、そのユダヤ人は、ヨシュアの叔父さんだったんだ。
 それから、長い時間が経った。オレはローマ兵になって、丸1年が経っていました。訓練中、百人隊長の司令官から、急に命令が下った。「町の中心で、ユダヤ人たちが暴れている。出動して、暴動を収めてくるんだ」。こんな出動が、最近は増えてきた。ユダヤ人たちの独立とか救うとかいって、先導者がちょくちょく出て来るんだ。バプテスマのヨハネという水に入ってばっかりの頭のおかしなヤツが出てきたり、さらには、その弟子らしいんだが、新しくイエスとかいうヤツも出てきたらしい。
 現場に行ってみると、ユダヤ人たちが町の広場で、自分たちの集会を開かせろ、と町に入る門の前でさわいでいるということだった。命令は、門の内側に剣や槍を構えて、陣取ってから、門を開けるから脅して、解散させろ、というものだった。ユダヤ人たちは武器を持っていないから、剣や槍を見たら、きっと怖がって解散するだろうと。
 門を開けた瞬間、驚いたあまりの人数の多さに。こちらの3倍はいる。そして、そのユダヤ人たちの中にヨシュアがいたような気がした。奴らは大声を出した。それに仲間の誰かがびびって矢を放ってしまった。ユダヤ人の1人が倒れた。それをきっかけにして、奴らは、突っ込んできた。木の棒を振り回し、石を投げながら、矢を放っても、槍を構えても、ひるまない。新入りだったオレは剣を構えて一番前にいた。沢山のユダヤ人たちが走ってきて入り乱れての殺し合いになってしまっていた。オレは思わず逃げようとした。でも、1人のユダヤ人が木の棒をもって襲ってきた。後ずさりしたオレは、足をひっかけて、転んでしまった。カブトがずれて、目の前がまっくらになった。
 …何が起こったんだろう。顔に血が流れてくる。カブトをずらしてみて、起こったことがわかった。相手のユダヤ人がオレに覆いかぶさっていた。そして構えていた剣がいつの間にか、相手のユダヤ人の腹を貫いていたんだ。周りでは、戦いが続いている。叫び声や剣や石の音が聞こえる。しかし、相手のユダヤ人の顔を見たとき、その音が止まった。ヨシュアだった…。

〜〜〜〜〜

レギオンだからこその痛み
 様々な人間関係の間で生きる私たちは、時と場合によって、多数派になったり、少数派になったりします。また、1人の個人であっても、民族性や思想やその他の要素によって、いくらでも多数派になったり、少数派になったりします。
 どうでしょうか?イエスが生きた当時の多数派といえば、圧倒的な武力を誇ったローマ帝国市民であり、新約聖書の立場からすれば、異邦人と呼ばれた人々だったでしょう。しかし、異邦人だったからと言って、すべての人が多数派でしょうか。また、すべての人が、すべての要素で異邦人とは限らず、すべての要素でユダヤ人とも限らないでしょう。世代において、状況において、友人関係や家族関係において、自らが置かれている状況によって、強者になることもあり、弱者になることもある。また多数者になることもあり、少数者になることもあるでしょう。
 そして、多数者になることが強制されること、また少数者に強制されることもある。今日の箇所に現れた墓場に住んでいた人は、自らのことを「レギオン」「多数」と答えました。彼が自らを傷つけた痛みとは、多数者であること、異邦人であったことによって生まれた痛みであったでしょう。そうした痛みが、彼をして「レギオン」である、「ローマ帝国の軍団」である、と答えさせたのではないでしょうか。私たちの日常も時に多数者であり、少数者である、ということの繰り返しではないか、と考えさせられることがあります。究極の多数者もおらず、究極の少数者もいない、ということにもならないかもしれません。そうすると、小さくされた者に寄り添ってくれるイエスは誰に寄り添うのでしょうか。
 私がそのような問いを投げかけられたら、イエスはそうしたあらゆる人の痛みに寄り添ってくださるのだ、と答えたいと思っています。時に弱いとき、時に強いときがある。しかし、その痛みは私たちのすべてを支配することがある。それは、暴力という形を取って、人を傷つけてしまったり、痛みという形を取って、自らを傷つけてしまったりする。そうした苦しいときにこそ、イエスは私たちの隣に立って下さるのではないでしょうか。
 「レギオン」である、と答えたこの男性。イエスに出会ったことによって新しい歩みを始めたでしょう。なぜか?誰にも分からないと思います。しかし、確かにこの人は新しい歩みを歩み出した。そうした誰にも説明できない救いを実現したからこそ、イエスは神の子、キリストである、と多くの人々の信頼、信仰を得たのではないでしょうか。

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