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『隣人への責任と権利』(マルコ10:1〜12)

2018.01.09(21:22) 362

『隣人への責任と権利』
(2018/1/7)
マルコ福音書10;1~12

フェミニズム的視点
 今日のメッセージを担当するのに、開きました注解書は『女性神学・フェミニズム神学』の視点で書かれたものでありました。そこにはだいたいのこのような趣旨のことが書かれております。
「(このイエスの言葉の狙いは)男性が気まぐれに結婚を終わらせるという一方的な特権を無効にするものだった。そうすることで、男性(夫であれ父であれ)のいない女性が非常に過酷な、ぎりぎりの生活を余儀なくされている文化において、いかなる時代にあっても離婚はだめだという無条件の禁止ではない、このイエスの応答は、紀元1世紀のコンテキストにおいて結婚をより平等な制度にするものである。」
 要するに、イエスのこの言葉は、「離婚」というものを禁じたのではなく、男性の側の一方的な意思で行われる離婚は間違っている、だから認められないのだ。逆に言えば、状況が変われば認められることもある、というとらえ方です。
 当時の社会状況において、離婚によって不利益を被るのは女性でしかありませんでした。財産を所有する権利はありません。現在のような男性と女性という1人対1人の離婚というのではなく、女性の側が一方的に財産も住む場所も奪われ、さらに元の家、家族のもとに戻ったとしても、後ろ指を指されるだけ…。そうした、不平等を「離婚を禁止すること」で平等な制度にした、平等な夫婦の有り様をしめした、というのです。そして最後の箇所の、10章11節から12節では、離婚と再婚が前提として語られておりますが、これはユダヤ社会では考えられないので、ギリシャ・ヘレニズム社会の初代教会の状況が現れている、と記してありました。
ある程度は、フェミニスト神学の注解書に心から納得しました。しかし、一つ疑問が浮かびました。それは、このとらえ方は、あくまで現代的な価値観によるとらえ方であり、もしかして、また時代状況が変わったとしたら、解釈が変わってしまうのか、ということです。時代状況の変化によって、『イエスの意思』『神の言葉』はかわってしまうのでしょうか。そんな疑問がわいてきます。聖書のテキストにしても、様々な出来事にしても、捉える人、解釈者によって、また時代背景によって変化します。すると、なんとでも言えるということになってしまう。ですから、制度としてどうあるべきか、ということではなく、イエスはどのような思いで、どのような根拠に基づいて、このように語っているのか、ということを考えていかなければならないでしょう。そして、そのヒントは、他の箇所のイエスの発言から考えていくしかありません。

男と女のとらえ方
 マルコ福音書10章6節から9節をお読みします。
「10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」」
 この記述は、創世記の創造物語に基づいています。旧約聖書の冒頭、創世記2章24節に、マルコ10章8節と同じ言葉があります。
「2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(P.3)
 で、よく言われることなのですが、創世記におけるアダムとイブの誕生について、二つの神話が組み合わさっているということが言われます。今、読んだ箇所において、あくまで男と女の関係は対等に捉えられています。男女とも、それぞれ父母から誕生して、その家族から独立して、パートナーと一緒になり、一つの家族を築いていく。(一夫多妻の否定)この流れ、サイクルにおいて、男女の間に上下関係は存在しません。しかし直前の部分には、明らかに男女の関係における差を前提とした記述であります。創世記2章23節。
「2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」」
 2章7節において、人と呼ばれているアダム(男)は、神に息を吹き込まれて、誕生しています。そして、女はその男の体の一部から誕生している。神→男→女というヒエラルヒーがあり、他の関係は見えてこない。創造物語の一部として、男そして女の存在について語られている。しかし、24節においては、「父母を離れて」とあるように、生物の営みの一部として、男と女の存在が語られている。まったく異なる背景、価値観があるということです。そして、離婚の是非について、否ということを、イエスは、男女の平等な関係を記した創造物語を使って、説明しているのです。

イエスの自然観
 こうしたイエスの価値観について、もう一つ、象徴的な聖書の箇所があります。マタイ福音書6章25節から29節。(P.10)
「6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
 神から与えられる栄光とはなんでしょうか?ソロモンの栄華、とらえ方によっては、神から与えられる最高の恵みと捉える人もいるでしょう。しかし、イエスは「野の花」の美しさの方を、また生命の寿命についても、神に与えられるものに信頼を寄せなさい、と言っている。これらのことは、人によってずいぶんととらえ方が違うものです。先ほどの創造物語における男女の関係のあり方の違いについても人によって、どちらを選ぶかは異なってくるでしょう。しかし、イエスがどういった理由においてか分かりませんが、どちらか一方に重きを置いているということは重要なことと言えます。
 また、ある種の平等主義的な視点を、イエスは持っていたのではないか、と思うのです。立場によって、祭司であるとか、律法学者であるとか、大工であるとか、漁師であるとか、職業や財産によって人を選ばないということ、それは男女に対しても、同じだったのではないでしょうか。

理想的な人と人の関係
 今日の箇所の内容に戻ります。イエスは、創世記2章24節の言葉「…男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」を引用して、10章2節「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(申命記24:1)という問いに、否を唱えました。とはいえ、おそらくイエスも、男性と女性の関係が対等であれば、離縁も認めたと思われます。また、少数ではありましたが、女性が財産をもって家督を継ぐということも存在しましたので、何があっても「否、ダメ」であったとは言えないでしょう。そして、この問い、あくまで男性の側からの視点であって、女性側からの離婚の申し立てではないということも大きな理由でありましょう。
 過去の日本でも多くの場合、女性の側からの離婚は認められませんでした。(逆に言えば、男性の側からの離婚は、どんな理由であったとしても、認められていたということ)しかし、鎌倉のある寺に行って離婚が認められるということがありました。2年ほど前に、そのお寺「東慶寺」を題材として、『駆込み女と駆け出し男』という映画が封切られていますが、そのお寺を実際にロケ地とした映画でした。映画の内容でも、資料によっても、3年一緒に暮らしていなければ、夫婦ではない、ということが江戸時代を中心に慣習的にも一般化し、18世紀には、それが法律として整備されていたそうです。ですから、縁を切りたい女性の方がその寺に駆け込んで、3年間を過ごせば、女性の側からの離婚が成立すると言うことでした。そして、その寺に逃げ込まれないよう、離婚の申し立てが不当だと、離婚したくない側の男性は、権力を使っていろいろと策略を巡らしてくるわけです。
 しかし、考えてみますと、こうしたあり方というのは、日本においても、古代ユダヤにおいても、他の文化や地域、民族においても、似たような形であったと思われます。男性側から離婚申し立ては何か者を捨てるかのように行われ、女性からの離婚申し立てについては存在をかけて、時に命がけで行われていたと思われます。そして、それは現在でも、様々な形で残念ながら、引き継がれているでしょう。

人と法
 イエスを試そうと、ファリサイ派の人々は、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と問いました。これには、律法の規定が記されていました。それをわざわざイエスに問うのは、イエスがそうしたあり方に否定的な発言をしていたからでしょう。また、こういうことも言えるのではないでしょうか。このファリサイ派の人は、たとえ律法(法律)に離縁することは認められないとなっていたとしても、どうであっただろうか。女性に対して、同じように権利を守り、立場を守る責任を果たしていたか。また多くの当時を生きた男性が、法律によって女性の権利を法律的に守っていたとしても、日常生活においてどうでしょうか。そうした多くの男性の姿を、イエスは問題にしているのではないでしょうか。
 キリスト教が、人類の歴史に与えた大きな影響、獲得した観念の中に、自由、平等そして権利といったものがあります。これらの根底には、人を支配するのは神のみである、ということ、そして、誰もが神の愛されている大切な存在だ、と聖書の価値観、イエスの語った教えがあるでしょう。しかし、いつでも「自由、平等、権利」といった人権に関わる価値観は、様々な形で危機に襲われます。
 個人の権利や自由よりは、国家のしての面子や政治家の身勝手な都合、世界平和よりは、一国主義、〇〇ファーストといった価値観。キリスト教会も同じかもしれません。そこに集う1人1人の思いや状況よりも、教会としてどうなのか?教団や教派の歴史が重んじられる。すべてがゼロイチ、右か左かの問題ではないですが、どれも個人に対して、「あなたのため」「あなたのためだから」といった形で、自由や平等、権利が抑圧されることが多い例と言えます。
 先ほど、イエスが、ソロモンの栄華を野の花の美しさと比較した箇所を紹介しました。これも様々なとらえ方があると思いますが、ソロモンの栄華を国家としての繁栄、民族の繁栄として考えてみる。また、野の花の美しさを名も無き人々、一般の人々の幸せや自由として捉えてみたら、どうでしょうか。現在の多くの国家や集団のあり方に対して、イエスはどのように思っているか、という指針にもつながるかもしれません。

神の言葉との向き合い方
 今日のテキストの話に戻ります。今日のテキストにおいて、イエスは読んだままでいえば、離婚はしてはいけない、と記されています。が、様々な背景から考えてみますと、そんなことはあり得ない、ということができます。そして何よりも、問題とされているのは、質問者の姿勢ではなかろうか、ということです。質問者の立場、ファリサイ派の人にしても、弟子にしても男性であり、彼らの興味は、イエスの立場を悪くすることであり、男性としての夫としての自分の立場を正当化するところにあり、離婚によって大きく生活が脅かされる妻やその子には視点はないわけです。
 現代においては、権利や責任、自由といった言葉は使われることは多いように思います。しかし、一般社会においても、マスメディアにおいても、強者の側の権利ばかりが強調されすぎではないか、と思うことがあります。弱者の側の権利はどうでしょうか、強者の側の人の責任、強い立場の人のあるべき姿というものを日常生活のニュースや出来事から考えます。今日の箇所、離婚についてや夫婦のあり方について、よく開かれる箇所であります。しかし、そうした限定した課題ではなく、様々な人の有り様について、イエスはどのように考えただろうか、発言しただろうか、ということを考えるべき箇所ではないでしょうか。私たちの生活全般の課題として、今日の箇所から捉えなおしてみたい、と思います。


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  礼拝後の新年会にて

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 一泊させていただいた生田教会の会堂

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