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『傷だらけの系図』(マタイ福音書1:1〜17)

2017.12.12(08:02) 361

『傷だらけの系図』
(2017/12/10)
マタイによる福音書 1章 1~17節

福音書の冒頭
 新約聖書には、福音書が4つ含まれており、それぞれ福音書を生み出した教会や信仰者の信仰が現れています。比較するため、マタイ以外のもの、マルコ、ルカ、ヨハネの書き出しに触れます。マルコ福音書1章1節をお読みします。(P.61)
「1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。」
 ここにはイエスの物語を小説のように記そうという意識があります。そして興味深いのは、その「活動」に意識が集中している、という点であります。また、「福音の初め」とありますが、マルコ福音書において、福音とは、イエスの存在というよりも、イエスの言葉や活動そのものということができます。
そして、ルカ福音書1章1節から4節までをお読みします。(P.99)
「1:1-2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」
ここには、イエス・キリストの物語を文字どおり「順序正しく」伝えたい、実質的な歴史として伝えたい、という意識が働いています。この背景には、既にイエス・キリストの出来事・福音が様々な形、記されたものや口伝えで知られていた。そして、違いがあり、何が本当か判らない…そういった状況の中で、「正しいイエス・キリストの物語を記そう」「歴史としてのイエス・キリストの物語」を伝えようという意識が働いています。
そして最後のヨハネ福音書1章1節をお読みします。(P.163)
「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
 ヨハネ福音書の冒頭は、あきらかに創世記1章に基づいて、記されております。天地創造物語の影響があります。天地創造物語において、この世のあらゆるものは、主なる神によって創造されていますが、必ず「○○あれ」という神の言葉がその創造に先立っています。そのことから、「言葉は神と共にあった」そして、その神と共にある「言葉」がイエス・キリストとしてこの世にやってこられる、という信仰が背景にあります。

「系図」に記された思い
 そして、今日お読みしましたマタイ福音書1章1節をお読みします。
「1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」
 この箇所は、「ビブロス」という単語から始まります。そして、この言葉は「パピルス」という言葉に由来があり、英語の「バイブル」いわゆる「聖書」と訳される言葉の語源でもあります。『記されたもの』『本』『歴史』と訳される言葉です。新共同訳聖書では「系図」と訳されておりますが、「アブラハム」と「ダビデ」の名前を列記することによって、アブラハムからダビデの直系の子であるイエスという意味が込められているのです。そしてこの長々と記された人の名は、創世記から始まるイスラエルの民、ユダヤ人と主なる神との「歴史」または「物語」を語る前の振り返りである、と言えます。
 しかし、ここで考えてみたいのは、系図というのは、あくまで恣意的なものということです。日本でも家父長的な家族観(家族のとらえ方)に基づいて、記されている、ということを考えなければならないと思います。例えば、日本においても系図といえば、基本的には、誰か1人の個人や関係を起点にして書かれることが多いと思います。家という話にすれば、曾祖父などに立派な人がいて、その人から始まって、自分とどのような関係なのか、という形で見ることが多いでしょうか。しかし、あくまでそれも男性中心であり、家の枠を示すためのものと言えます。また、人の歴史の中においては、母系社会もあり、母系に基づいて、女性中心に系図を記してみたら、どうでしょうか。まったく違うものになるでしょう。またこんな想像もできるのではないでしょうか。マタイに記された系図、アブラハムに始まり、ダビデを経て、イエスに至っています。これはイエスが、アブラハムの子孫であり、さらに王家の家系であるダビデ家に属しているということを示そうとしています。
 しかし、ユダヤ人であれば、基本的にはアブラハムの子であることは当然でした。また更に言えば、マリアは聖霊によって身ごもっているので、父であるヨセフの家系など、血脈という意味では、まったく関係のない話になってしまいます。また更に、家系というものを逆に考えてみたいと思います。どうでしょうか?アブラハムからユダヤ民族が始まりました。大和民族でもかまいません。そして、それは、あらゆるユダヤ人が含まれているものです。そういった意味で、ピラミッド型の家系図ができます。しかし逆に考えてみて下さい。1人の人には父と母がいます。そして、その父にも母にも、それぞれ父と母がいる、と。さらにどんどん遡ることができます。すると、どうでしょうか。まったく逆さまのピラミッドを描くことができるのではないでしょうか。まあ、これは一種の言葉遊びのようなものでしょうが、系図というものにどれだけ書かれた人の意図が含まれているか、ということを考える刺激になるかもしれません。

マタイにおける「イエスの系図」
 今日の聖書の箇所、マタイ福音書に記された系図を、まず大まかに触れてみたいと思います。この系図は、大きく3つに分けることが出来ます。
 1段落目は、1章2節から6節前半まで。2段落目は6節後半から11節まで。そして3段落目は、12節から16節までです。この三つの分け方にはある種の流れがあります。系図はアブラハムに始まり、そしてダビデまで一四代で記されていますが、ここまでは『上り坂』です。誰もが主なる神を信じる者として生きていた、そしてその頂点がダビデです。そしてその頂点が解るようにダビデにのみ『王』という称号が付与されております。次の2段落目は、実は、王たちが記されています。それなのに、「王」という称号は、まったくつけられておりません。そして、王たちは主なる神を裏切り続け、他の神の信じ、律法を破りました。そして、その結果としてダビデによって建てられた国は亡び、主だった人々は「バビロンへ移住させられ」ました。主なる神に率いられたイスラエルの民としては「下り坂」どん底です。そして3段落目、12節から16節まで捕囚期、捕囚からの解放、そしてイエス・キリストまでの歴史は、「上り坂」です。だだ単の羅列ではなく、この系図にはそのような考え方があって記されているのです。
 6節にある「王」という言葉は、イスラエルの民の絶頂期、「良き時代」を意味する鍵語(キーワード)であります。
そして逆に、11節12節に記された「バビロンへの移住」は、イスラエルの民の最低の時代を意味する鍵語(キーワード)なのです。そして、16節に「メシア」という鍵語が現れます。2度目の絶頂期、「良き時代」の到来をこの系図、歴史の羅列によって記そうとしている、と言えるのです。

タマル・ラハブ・ルツ・バトシェバ
 そして、この系図における不思議な点に触れてみたい、と思います。このほぼ男性しか記されていない系図に、4名の女性の名前が記されている点です。
 1章3節に登場しますタマルは、創世記〔創28:26〕に登場し「子ども」に恵まれず、夫とも死に別れた為、売春婦に化けて、自分の義理の父であるユダをだまして、関係を持ち、子供を持った女性であります。そして5節に登場するラハブ〔ヨシュア2章〕も売春婦であり、さらに付け加えますとユダヤ人ではない「外国人」であります。そしてルツは有名ですが、彼女も外国人であり、さらに違う神様を信じる異教徒であります。そしてウリヤの妻バトシェバも外国人であり、〔2サム11:1-12:25〕ダビデが自分の部下の妻を横取りして自分の妻とした、という話に基づいております。世界中にはいろいろな形の系図があります。が、これらの女性の背景には、いわゆるスキャンダラスな背景があり、なるべくならばこの4名の女性のような「存在」は、どちらかと言えば、わざわざ記すべきような事柄が込められている名前ではありません。しかし、記されている。とても不思議なことなのです。

なぜ4名の女性について記されたのか?
 このことに関して、広く二つのとらえ方があります。一つ目は、マタイ福音書は、ギリシャ語で記されており、これは福音書が記された教会の状況に適合します。当時のキリスト教会は、アラム語を話すユダヤ人よりは、ギリシャ語を話すギリシャ人たちローマ人たちがすでに多数派でした。そのような状況の中で、すると、この4名の女性の話は、自分たちの主であるイエスの血統は、「ユダヤ人たちのものだけではない」という点に積極的な意味を込めている、という理解です。系図というものはその人の背景を記すものであります。が、男性だけの系図では、イエスが如何に生粋のユダヤ人の家に生まれたか、血統を持っているのか、ということを示すだけになってしまいます。ですから、わざわざこの4名のユダヤ人ではない女性たちを加えたのだ、という読み方です。
 そして、もう一つは、神の愛とは、律法や人の思い通りには現れない、という読み方です。そして、そのことはモーセ五書、族長や旧約聖書に記されている登場人物たちにも現れているといえます。創世記から申命記、旧約聖書の最初の五書は、旧約聖書律法の中心であります。本来ならば、律法的にも理想的な状態が現れているべきでしょう。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという父祖たちのことを考えてみたいと思います。律法においては、家の権利は、家の長の権利は、長男が継ぐべき、となっておりますが、この4人とも、長男とは言えません。また、最初の預言者として知られているモーセも、長男でありません。さらに、その召命のとき、彼が神の使いとして、奴隷として苦しめられているイスラエルの民を救うために、エジプトに迎え、と神の命じられたときにこのような言葉を述べています。
「わたしは何者でしょう」【出エ3:11】
 自分にそのような資格があるのか、価値があるのか、という思い、それは同時に謙遜さと言えます。全能の神の前に立つ不完全な存在としての人。そういった人を神は選ばれた。イスラエル民族も別に世界の中において強い力をもった民族ではなく、とても弱い小さな民族でした。だからこそ選ばれた、という言葉もあります。【申命記26章】そして、その人の側の謙遜さを包む神の力が旧約聖書の多くの箇所には記されており、それを「神の愛」と表現することが出来るのではないか、と思います。
 そして、この言葉は、この系図の5人目の女性であるイエスを生んだマリアの言葉にも繋がります。実はマタイ福音書においてマリアは一言も言葉を発していないのですが、ルカ福音書にはこのような言葉があります。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)
 マリアも旧約聖書に記された多くの先人たちのように、「自分は相応しくない」という気持ちを持っていました。だからこそ主なる神に用いられた、そのような信仰がこの系図に現れている、と読むことが出来るのではないでしょうか。

神の前に相応しい者であろうか
 そして、ここに上げられた女性たちも、神の前に謙遜だったからこそ、神に選ばれたと言えます。私は、キリスト教信仰において、神の前に謙遜であること、謙虚であることがとても大切な意識だと思っています。「わたしはキリスト者として相応しい者であろうか」「神の前に立つにふさわしい存在であろうか」という意識です。
 なぜ系図に多くの傷とも言えるような物語が記されているのか?神の愛というものが、血統などで決まるわけではなく、神の意志が勝っており、そして人の意思、信仰、謙遜さも関係しているということを示そうとしているのではないでしょうか。ここに名前が出てきた女性たち、また男性も、旧約聖書において、主なる神に導かれた物語が記された人々であります。その名前を綴りながら、その名前を読みながら、この福音書を生み出した初代教会の人々は、人が「かけ多き存在」「不完全な存在」ながらも、助け導き神の姿を思い浮かべたのではないか、と感じています。
 また、私たちに至る先祖の歴史はこんなにも空しい、神を裏切り続けてきた、そして異教徒や異邦人にたいしても自慢することも出来ないことばかり、なんにも誇ることがない。しかしそんな自分たちであったけれども神は自分たちを常に助けてくださっていた、という理解、信仰であったと思います。そしてそのような信仰の継承、つながりとして、「すばらしい系図」ではなく、「傷だらけの過去」であり、「傷だらけの歴史・記録」をマタイ福音書の冒頭においたのではないでしょうか。そして、その歴史の中から、その流れの中から、私たちの主であるイエスが誕生した、何も特別なことは無い、一人の人として生まれたのだ、という信仰が込められていた、と読むことが赦されている、と思います。
 先週からアドヴェントに入りました。世界の情勢は、様々な形で変化しておりますが、過ぎ去ろうとしている2017年も、新しい2018年もあまり明るいニュースが期待できるとは思えません。歴史の流れの中、あらがえきれない流れ、雰囲気を感じてしまいます。しかしイエス・キリストは、イスラエルの民のどん底の歴史の中「胸を張れない」背景、「傷だらけの歴史」の中に、神のまったく自由な意志によって誕生しました。信仰を持つ、希望を持つ、ということは、この世の流れから、まったく自由な神の意志を信じることであります。そのように、諦めてしまうことも、主なる神の前に「謙遜な姿勢」としては、相応しくないのではないでしょうか。
 クリスマスには、様々なとらえ方があります。しかし、たしかに人の世にはっきりと神の業が働いた時であり、そのことを思い返す時と言えるのではないでしょうか。光は闇の中でこそ輝きます。寒く、闇の深い季節ですが、そのような時にこそ、光輝く存在を求めて、過ごしたいと思います。

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