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『犠牲的発想を超えて』(マルコ9:42〜50)

2017.11.13(19:44) 359

『犠牲的発想を超えて』
(2017/11/12)
マルコによる福音書 9章 42~50節

地獄
 「地獄」と言いますと、ミケランジェロの「最後の審判」などが思い出され、絵画のような想像を膨らましますが、ここで地獄と訳されている「ゲヘナ」というギリシア語は、実際にあるエルサレムの南側にあった谷、「ヒンノムの谷」(ゲー・ヒンノム)という土地の名前を指しております。それが「地獄」と訳されているのはキリスト教ならでは解釈によるものです。その「ヒンノムの谷」では紀元前7世紀頃、当時のユダヤの地は宗教的にかなり混乱した時期で、様々な神、信仰が乱立していました。そして、この谷において、その中の一つのモレク神という神の儀式である子供を捧げ物として、焼いて捧げるという儀式が行われていました。まさに地獄絵図がそこでは繰り広げられていたのでしょうし、イエスにとっても700年以上前のことですが、おそらく「ヒンノムの谷(ゲー・ヒンノム)」という言葉を聞いたら、それを周囲の人々も「子供を捧げ物とするような絵図」を想像し、倫理が崩壊したときを地獄のような状態としているのだろう。

子どもと犠牲
 そして、ユダヤの人々にとって、まさに地獄といえるイメージはただの瞬間としてではなく、その異教の持っていた異常性は、「地獄」というものを想像する要素となっていきましたし、自らの民族の間違った過去として捉えることができるでしょう。また、ユダヤ教の神殿祭儀においては、犠牲を捧げるという行為は、とても一般的なものであります。そして、より多くの罪を贖うために、より高価な捧げ物や大きな犠牲獣を捧げるということもあります。そして、より大切なもの、大切な存在である自らの子どもを捧げる、ということにも、考え方としてはつながることもあったでしょう。また、旧約聖書の創世記には、そうした価値観があったように捉えられる物語があります。
 創世記22章に収められているアブラハムに対して、主なる神がイサクを捧げるよう命じたことによって始まる物語です。創世記22章2節をお読みします。
「神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」」
 そして、アブラハムは、この神の命令に対して、不満や疑問、さらには葛藤や怒りを持っていたかもしれませんが、彼はイサクの命を奪うために、目的の山へと向かい、祭壇に体を乗せ、刃物を振り上げるところまで行ってしまいます。最終的に、神が、その手を止めるのですが、興味深いことに、その間、アブラハムの思いが見えるような記述は一切、見当たりません。ということは、アブラハムは神に対して、一切の疑問も持たずに、イサクの命を奪おうとしたのでしょうか。このお話、様々なとらえ方ができますが、アブラハムの神への忠実さを示すための物語、神が子どもの命を重んじているということを示すための物語、などです。そして、もう一つは、イスラエルの神、主なる神、ヤハウェの自己紹介として捉えるとらえ方です。私は、「ゲー・ヒンノム」(ヒンノムの谷)で行われていたような小児犠牲をささげるような行為を喜ばない、というとらえ方であります。

犠牲と宗教
 たとえば、呪いや裁きから逃れるために、自らの「手」や「足」、そして「目」をえぐり出すなどは考えにくいことであります。しかし現実には、違う形でそういったことを行うことがあるのではないか、と感じております。「目」は外部にある情報を取り入れること、そして「手」や「足」は具体的に働きかけるといった役割の象徴する身体の部分であります。そういった意味で言えば、「手」や「足」、そして「目」を切り落とすとは、社会のまぎれも無い現実や、関係を切ること、を象徴的に示していると捉えることもできます。自分、自分たち、自分たちの教会に都合の悪いことはには眼をつぶる、認めようとしない、人であったり、また社会の問題にしても、自分たちに都合が悪そうであったら、手を切ったり、足を伸ばすことを辞める、とか。とても恐ろしいことです。そして、そういう特徴を持つ集団のことを、もはや宗教ではなく、反社会的な動きを持つ団体、所属するメンバーを取り込もうとするカルトである、ということもできます。

「火」と「塩」
 そして、「火」そして「塩」が出てきます。こんな話があります。大金持ちの人たちが自分のグルメ具合を、互いに自慢しようとして、それぞれが食べたことのある一番うまい料理を持ってきました。本当に色々なすごい料理が出てきましたが、一人が変わったモノを持ってきました。皿に持った白い粉末「塩」です。他の人々は笑って「そんなモノが世界で一番うまい料理だって」「笑わせるな」「誰だって食べてるじゃないか」などなどと言いました。しかしその人は答えました。「そうです。とてもつまらないモノですが、これが私は世界一おいしいと思います。しかしあなた達は笑いました。それではこれからは塩抜きの料理を食べて下さい」…塩抜きの料理、だいたい想像がつきますね。とても食べられたものじゃないでしょう。塩は調味料の王様といいますか、塩がなければ、料理として成り立たないのです。
 聖書の中には、「塩」がたとえに使われる箇所がありますが、そのたとえはおおむね二種類の読み方が出来ると思います。今のたとえ話では「塩」が抜けたら、料理は食べられたものじゃない、でしょう。そういった意味でキリスト者、イエスに付き従う者を料理の中の「塩」、「人間社会の中の塩」「世の中の塩」として捉える読み方、そして、もう一つの用い方で記されているのが、マタイ福音書5章13節をお読みします。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」
後半部分になりますが、ここには世の中における存在という視点ではなく、キリスト者また教会がその内面の課題としての「塩」に力点があるといえるでしょう。ただ存在として、キリスト者、クリスチャンであるだけではなく、その内容が問題だ、という話です。キリスト者として、イエスに付き従う者として、の外面や立場が問題ではなく、内面、その内容はどうなのだ、という問いかけの題材として、「塩」が用いられているのです。

犠牲とは?
手や足を「切り落とす」というところに戻ってみたい、と思います。カルトの話ではありませんが、私たちの宗教心、信仰心のあり方に対する問いではないか、とも思えます。宗教心と申しますか信仰心は、なんでしょうか?いろいろな答え方があると思いますが、こういう言い方をすることがあります。教会とは、日常の生活から離れて、神さまと、またイエスさまと向き合う場所である、と。そして更に、信仰を持たない家族からしてみたら、教会に行くことで、食事が出てこない、掃除ができていない、とか言う夫がいたりするかもしれません。
 そうした発想というのは、犠牲という尺度によってもたらされると言えます。いわゆる日本の一般的な信仰生活も、日曜日はノンビリ寝ていたい、と思っていても、そうした時間を犠牲にして、成り立っているといえます。またそれ以上の魅力が教会にある、キリスト教にはある、と考える人たちによって教会。キリスト教が支えられていると言えるでしょう。また、アブラハムにおけるイサクの犠牲の話を取り上げましたが、日本社会において、出生率の低下が叫ばれ、総選挙の争点としても取り上げられました。しかし、総選挙後の議員、大臣たちの発言からは、本当の意味で子どものことなど考えていないことがよく分かります。自分たちの都合の良いように、事柄を勧めようとして、友だち優遇のような政策しか出てこない。大学の学費にしても、保育料にしても、無償化と言っておきながら、いろいろ理由をつけて、窓口を狭めようとすることばかりしている。日本社会というのは、本当に一般の人々や、そして社会的な弱者や子どもを犠牲にして回っている社会であり、いつか崩壊するだろうな、と考えざるを得ません。

社会の犠牲とイエスという犠牲
 また、日本でも世界でも、歴史的には、自分たちの生活を守るために、家族を減らすということが行われていました。姥捨てとか子どもの口減らし、そういう文脈の中に、アブラハムに対するイサク奉献の物語を捉えることもできます。また、十戒の中における「父母を敬え」という戒めも、一家の長である者、族長に対する、厳しい荒野の中における半遊牧生活の中における人道的な戒めとして捉えることができます。
 現代社会において、このような視点をどのように捉えることができるでしょうか。様々な社会的弱者の課題について、毎日のように、殺人事件や交通事故、自然災害などのニュースが飛びこんできます。それらの被害者について、私たちは自分の責任だとは思わないでしょう。しかし、社会的な課題が絡んでくる事件ではどうでしょうか?福島県に起こった原子力発電所の事故、事故によって家族や故郷を奪われた人たち。沖縄にある米軍基地の問題など。人によって、自分に関わるかどうか、とらえ方に幅が出て来るのではないでしょうか。そうした尺度は、信仰によるものだったり、正義、社会正義というか、世の中はこうあるべきという意識だったりします。そして、そうした持ち方の意識は、人によって異なりますし、だからこそ、政治や社会の課題として、議論が終わらないのでしょう。
 そして、こうあるべき、という考え方は、自分ではない誰かに犠牲を強いている、という捉え方にもつながります。キリスト教において、最大の犠牲というのは、神の子イエスの十字架刑であります。すべての罪を贖うために、本来ならば1人1人が背負わなければならない罪を、イエスがすべて背負って犠牲となった、というとらえ方が、キリスト教信仰の一つの柱になっています。

犠牲的発想を超えて
 しかし、そうしたイエスのような犠牲によって、神からの赦しを得られた存在として、また他の他者、誰かに対して犠牲を強いる、また何か願いや祈りをするために人身御供にするということを繰り返すことは、正しい事と言えるでしょうか。最後の箇所9章50節をお読みします。
「9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
 「互いに平和に過ごしなさい」と呼びかけられているのは、私たち1人1人です。そして、それは誰かの犠牲に強いることのない関係を作ること、社会を作ること、世界を作るという考え方につながっていくのではないでしょうか。
 手や足、そして目によって、つまずくのであれば、切り捨ててしまいなさい、とイエスは語ります。それは、あくまで自分の体の一部分の話です。人のことではありません。また、パウロ的な「教会はキリストの体」で語っているのではありません。自分ではない誰か、自分ではない何かを切り捨てろとは言っていないのです。信仰生活にしろ、日常生活にしても、私たちは何かを切り捨てることによってのみ、何かを選択することによってのみ、新しい歩みができると考えてはいないでしょうか。イエスはそうしたことを言っているのではないと感じます。「平和に基づいて」、誰かに犠牲を強いるのではないあり方を目指しているのではないでしょうか。イエスの時代における律法、あらゆる時代に存在する「正しさ」によって、人間は隣人を虐げ、切り捨ててしまっています。
 イエスが言いたいことは、そうした過ちをしてしまうような目や手、そして足であるならば、切り捨ててしまいなさい、ということではないでしょうか。そして隣人と互いに「必要である」ということを実現することによってのみ、未来が開けるということを示したかったのではないでしょうか。イエスは誰の犠牲を生まないよう、自らを犠牲としたのではないでしょうか。イエスがその歩みを通じて示した道しるべを求めて歩みたいと思います。


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