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『赦されることと許し合うこと』(マタイ福音書18:21〜35)

2017.09.24(19:37) 357

『赦されることと許し合うこと』
(2017/9/24)
マタイによる福音書 18章 21~35節

赦しという課題
 許しについて、述べられている箇所です。「赦し」とは何か、いろいろと考え方、とらえ方があると思います。また、説教題においても、音としては「ゆるし」は、同じ音であり、意味内容も似ているように捉えられますが、辞書などで調べてみますと、最初の「あかへん」の「赦し」は、罪を無くすこと、罪の赦し、神による赦しなどを意味して、宗教的なイメージがあります。また、後半の「ごんべん」の「許し」は許可といったもの、人の願いを聞き入れることなどを指すといった意味であると説明されます。
 そして、よく私などは、「ゆるし」という言葉を説教で触れるときには、神の赦しに関しては、「あかへん」の「赦し」、人の間での許しについては、「ごんべん」の「許し」を使っています。これは人によって違うかもしれませんが、聖書に寄るのか寄らないのか、私としては、律法学者ではないですが、人には罪を赦す権利など無い、という意識の表れと言えるかもしれません。

イエスによる赦し
 そして、このことは、イエスに対するある律法学者の言葉にもかさなります。マルコ2章5節から7節。(P.63)
「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」」
 「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」律法学者のイエスに対する言葉であります。律法において、罪が赦される、ということは、神殿なりに行くなどして、決められた儀礼を行うことによって、罪が赦される、ということが認められることになります。律法学者たちや祭司たちの立ち場によれば、律法なり神殿なりの権威に基づかなければ、罪が赦される、ということは認められない、ということです。
 しかし、イエスはこの箇所で罪を赦してしまっている。何を根拠に?ということになります。敵対者たちからすれば、何もしていないのに、「罪の赦し」が宣言されたことに対して、「人が罪を赦している」ということになるでしょう。しかし、イエスの視点は違うのではないか、と思うのです。何もしていないわけではなく、今、触れた箇所で言えば、中風(麻痺など)の病気で悩む友人を助けようと、屋根をはがして、友人を下ろしました。また他の箇所などでも、律法で規定されていた捧げ物を捧げることが出来なかった人の捧げ物、祈りを褒めている箇所などもあります。イエスはそのような人の神へ対する気持ち、また隣人に対する気持ちがこもった行いをすべて、祝福すべきもの、として、神の赦しを得るに相応しい行為として捉えていたのではないでしょうか。

神の赦しと人の許し
 今日の箇所において、王が家来たちに貸している借金を清算しようとして、ある1人の家来が借金を赦されています。24節によれば、王さまはまず、その金額は、1万タラントンであり、返せなければ、家族や持ち物を全部売り払って返すように命じます。しかし、その家来が「返します」としきりに願うので、憐れに思い、帳消しにしました。そんなことがあって解放されたその家来は、自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、首を絞めて、「借金を返せ」と言った、と。そしてそのことが王の耳に入り、家来は捉えられてしまったというたとえ話であります。
 王から借金を赦されたのに、仲間の借金を許すことが出来ないという家来の姿は、一般の人の姿に重ねられています。たしかに、人は赦されることを強く求め、それを喜びますが、いざ自分が許す存在となるとその難しさ、困難さは、とてつもなく大きなものであります。王から借金を許された家来の借財は、1万タラントンとされています。これがどのくらいの金額であるのか、参考になる記録を紹介したいと思います。
 ヨセフスという『ユダヤ戦記』を記した人がいますが、彼の著作によれば、ヘロデ大王の息子でアルケラオスという人がいます。ヘロデ大王の死後、アルケラオスは、ユダヤ、サマリア、イドゥマヤという地域、私たちがカナンの地という地域の領主となりますが、その地域全体の税収が、600タラントンだったそうです。また、もう1人、ヘロデ大王の息子でヘロデ・アンティパスというガリラヤとヨルダンの領主だった人がいます。(田川健三訳新約聖書より)
 彼の年収が200タラントンだったそうです。ですから、10000タラントンというのは、イスラエルを一つの国家とすれば、国家予算の10倍以上というとてつもない金額ということになります。またこの家来が仲間に貸していた金額も100デナリオンとして、出てきます。福音書では、わりとよく知られている金額です。マタイ福音書20章1節から16節にある「ぶどう園の農夫の例え」です。朝から働いた労働者と昼から働いた労働者と、夕方1時間ほどしか働いていない労働書に同じ賃金が支払われたという例えです。あの箇所で支払われる金額が1デナリオンです。ですから、おおよそ1デナリオンを1万円と考えることが出来るかもしれません。
 ちなみに、家来が赦された1万タラントン。1タラントンは6000デナリオンぐらいと考えられております。ですから、1万タラントンとは、デナリオンに換算すると、6億デナリオン。1デナリオンが1万円だとすると、6000億円ということになり、本当に国家予算なみの桁になってしまいます。

イエスの語った共同体の姿と教会
 教会の視点に立って、「赦し」について、考えてみたいと思います。一応、教会のメンバーになる。洗礼になるということは、手続き上、理屈の上では、罪が赦されたことによって、教会のメンバーになるということになっています。今日の箇所で言うなれば、この王から多大の金額の借金を赦された家来のように、仲間の借金、仲間の罪を赦さなければならない、としたら、どうでしょうか。とても、できないと思うのではないでしょうか。
 また、神から赦されることと、自分が人を許すことは、まったく違うことと誰もが考えるのではないでしょうか。また、人を許すと言っても、自分に危害を加える人や敵対者などは、まったく違う、と考える人もいるでしょう。また、許されると言っても、同じ教会の人の間のみ、とか、同じ教団の人たちのみ、とか、ということもあるかもしれません。しかし逆に言って、同じ教会の人、同じキリスト教の人だからこそ、許すことが出来ない、ということもあるかもしれません。また、「許しなさい」と言っても、間違ったことも受け入れなさい、ということでもないでしょう。おそらくイエスは、喜怒哀楽に豊かな人であったでしょう。怒りの感情で言えば、神殿において、両替商や商人たちのテーブルをひっくり返して、怒りをあらわにしています。また、様々な皮肉が効いたユーモアをもって神の国、神の支配について語っています。
 そこにいた人々は、笑顔によってその言葉を受け取り、反感を持つのではなく、ユーモアがあったからこそ、自分のこととして、その言葉を受け取ったのではないか、と私は想像しています。

教会における男女
 また「赦し」とは、少し話が離れてしまうかもしれませんが、教会の中において、よく話題になることの中に、男女差別の課題があります。別に意図はないのですが、例としてあげやすいので取り上げてみたいと思います。女性の教職の少なさ、たまたまと言って良いのか、名古屋堀川伝道所の牧師は、女性ですが、今でこそ、多くなってきましたが、N教会で牧師になった当時は、大変だったと思います。特殊な状況もあったでしょうが、子どもを抱えての牧会…。考えてみると、ぞっとします。
 また、パウロ書簡において、こんな言葉が記されています。第1コリント14章33b節から36節。(P.319)
「聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」
 先日、女性差別について、岡崎茨坪伝道所での礼拝説教の後で話題になりました。その時、ある男性がこんなことを言っておられました。
「町内会とか、マンションの組合とかで、だいたい実際に動いているのは女性ばかりなのに、女性は議論が苦手だから、男性が代表に選ばれる。」
 これって、わりと教会の中の議論、役員とかにも当てはまるのではないかなあ、と思うのです。日本キリスト教団の一般的な教会の男女比率っていうのは、だいたい3対7から4対6ぐらいだと思うのです。しかし、役員になるとこの比率が逆転して、さらに教区総会、教団総会になると男性の比率が更に上がっています。そして、考えてみますと、教会の保守性、社会の保守性もこうした制度の上に成り立っているのではないかなあ、と思うのです。牧師になるより、教団総会の議員になることの方がとっても難しいと思います。役員になって教区議員になって、さらにその中の選挙で選ばれる。(10年ぐらいかかる?)当然、若い人や実際の教会の問題などは見逃されてしまうのではないか、と。
 こうした男性と女性の違い、やはり立ち場として、男性にしても、女性もしても、日本という社会の中で、そうした役割を求められてきたことから起こってくると思います。会社にしても、社会にしても、町中を運転していても、女性であるとなめられたりして、まともに相手にしない、とか、なめられてしまう、とかが出てくる。そうしたことを避けるために、また男性が前に出る、というサイクルが繰り返される、と。そして、そのサイクルを断ち切るためには、今現状の私たちにおいて、社会において、不平等、非効率、不必要だと思われるようなことを実践することからしかないのではないでしょうか。

赦された者として
 今日の課題である「赦し」、聖書の箇所に戻ってみて、考えてみたいことは、「神の赦し」にしても、私たちが隣人と「許し合う」ことにしても、最初は、不平等な形で進むのではないか、ということです。考えてみれば、イエスさまが語っている神の国、神の支配というのは、不平等なものと言うことができます。先ほど触れた「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20:1-16)にしても、放蕩息子のたとえにおける兄の弟に対する妬み(ルカ15:11-32)、そして「見失った羊のたとえ」(マタイ18:12-14)にしても、課題となっているのは、神から赦された者を妬む他者の姿なのです。ぶどう園の労働者、1番長く働いた者が短い時間しか働いた者に対する妬みを持つというのは、ある種の平等性から言えば当然です。労働時間に応じて、賃金は支払われるべきです。また、財産を先払いして使い果たしてしまった弟を歓迎し、盛大なお祝いを開いた父に怒りを持つ兄も平等ではない、という妬みです。見失った羊、羊が妬みを持つのかどうか、解りませんが、99匹か1匹を選べと選択を求められて1匹を選ぶ羊飼いは商売としては、間違っていると言わざるを得ないでしょう。しかし、あの羊飼いは、99匹の羊を置いて、はぐれてしまった1匹を探しに出かけるのです。
 今日の箇所において、王から多大な借金を赦されたのも関わらず、仲間を許すことの出来ない家来。私たちはどうでしょうか。自分たちと同じような存在であれば、許すことができるかもしれません。しかし自分より罪深いという人を許すことができるだろうか。イエスさまは、神が私たち人を赦してくださっている、ということを示してくださいました。そして同時に、私たちに、隣人、他者をどれだけ許して、受け入れているか、許し合っているだろうか、という大きな問いを投げかけていると思います。

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