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『弟子たちの自分ルール』(マルコによる福音書9:33~41)

2017.08.27(20:34) 355

『弟子たちの自分ルール』
(2017/8/27)
マルコによる福音書  9:33~41

弟子たち(私たち)の受け取り方
 今日の箇所は、マルコ福音書全体で言いまして、この箇所を説明してみますと、33節カファルナウムの家と記されておりますが、イエスが恐らくは、神の国運動、神の支配の宣教活動の中心にしていた場所で弟子たちに向かってエルサレムへの旅を始める直前、最後にまとまった形で教えを述べている箇所であります。前半の箇所は、誰が偉いか偉くないのか、誰が一番なのか2番なのか、といった「地位争い」についての箇所。そして、子どもへの言及を挟んで、もう一つは「イエスの弟子」とは?イエスの弟子たち、またキリスト者、クリスチャンとはどうあるべきか、さらには「神の国」「神の支配」を実践する上での、人と人の関係性、横の関係のあり方が記されていると言えます。
 そして、この箇所はマタイにもルカにも並行箇所が存在しており、それぞれのとらえ方の違いを確認することから、読み解いていきたいと思います。まずルカについて考えてみたい、と思います。マタイとルカはそれぞれマルコを元にして、記されておりますが、この教えにつきましては、それぞれ付け加えた箇所にそれぞれの受け取り方が解りやすく現れておりますので、紹介します。まずマタイによる福音書ですが、マタイ福音書18章1~5節です。お読みします。
『18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」』(P.34)
 3節の『はっきり言っておく。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、天の国には入ることはできない。」』となっています。
 今日の箇所にあたる、もともとのマルコではイエスを受け入れることは、「子供を受け入れること」だ、というたとえになっているのに、マタイでは「子供のようになること」と課題とされ、それが成し遂げられたら「天の国に入ることができる」と、その課題が「天の国」に入る条件として、理解されております。
 そしてもう一つルカ福音書であります。9章48節をお読みします。
『9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」』(P.124)
 この後半の箇所『あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。』とルカでは「偉い人」は誰かに焦点が当たっており、逆にマルコにありました35節の「仕える者になれ」という言葉は削られてしまっております。ですから、ルカではイエスの言葉は、「価値の逆転」を述べたモノとして捉えられている、と言えます。また、こういうことも言えると思います。ルカは、何かを神に対して、捧げることに対する言及が多いこと、献金などに対して、厳しい姿勢の話が収められていますが、そうしたことは、自らを「小さくすること」「低くすること」の実践として捉えられている可能性が高いと思います。

マタイの視点、ルカの視点
 マタイの視点は、あくまで教会の一人一人が「天の国」、「神の国」に入るためにどうしたらよいのか、という視点に意志が行っております。これはイエスを旧約聖書、律法の完成者、律法の最高の教師として見るマタイらしい解釈と言えるでしょう。イエスが与えて下さった律法の実現を重んじるマタイの立場としては、「子どものようになる」などとは、本来あまり好ましいことではないでしょう。しかし、それをあえてしろと言うのには、何か理由と目的がある、「子どものようになる」という行為も実践すべき教えの一つであり、これも神の国に入るのにふさわしい者となるためだということなのでしょう。
 そしてもう一方のルカを考えてみますと、これも同じく「仕える者になりなさい」という箇所が削られております。そして、「小さい者となれ」というのは、神に対して、従順でれ、より神に信頼を寄せて歩んでいけ、自らの存在をかけて神に仕えなさい、ということなのでしょう。

子どもでありなさい、という教え
 しかし、こうした立場こそ、実はイエスが批判したものではないか、という可能性があります。今日の箇所において、子どもに言及されている9章36節37節をお読みします。
「9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」」
 子どもとはどのような存在でしょうか。当時のユダヤ人社会において、子どもとは価値のない存在であり12歳の成人の儀式をすぎなければ、一人前とは認められませんでした。また女性は12歳になっても低い存在として捉えられておりました。(「女子ども」という言葉)そうした者を受け入れろ、と言うわけです。ここには「子供をそのままで一人の存在として認めなさい」といっているのです。
 こうした視点は、マタイのとらえ方も、ルカのとらえ方も間違っているということになるのではないでしょうか。大人はあくまで大人であり、子どものようにというのは、「神の国を素直に受け入れる比喩」として使われていて、「子どもになれ」というわけではありません。「子ども」を受け入れるとは、別に純真無垢な子どもを受け入れなさい、ということではありません。あくまで、律法的にも、倫理的、宗教的にも、不完全な存在を受け入れなさい、という話ではないか、と思われるのです。また、「わたしの名のために」と付けられているので、イエスが語った福音に基づいて、子ども、また罪人と呼ばれるような存在、不完全な存在であっても、また罪人と呼ばれるような人でも、受け入れなさいという勧めと理解するのが正しいのではないでしょうか。

逆らわない者は味方?
 そして、今回改めて、最後の箇所、38節から40節を読んでみて、実はかなり困難な課題ではないか、と思うようになりました。
「9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」」
 キリスト教伝統の中に、洗礼というものがあります。多くのキリスト教会において行われています。そして、洗礼を授けるのは、教職(司祭、牧師)でなければならないとされています。
 で、その教職になるためには、現在では、教職養成課程や試験制度などがあり、それぞれの教派、教団に認められて、教職となるわけです。日本基督教団ですと、神学校などを卒業した後、まずは、試験を受けて「補教師」というものになり、それから2年半以上の経験を経て、「正教師」というものになります。いろいろな教派的伝統のいろんな要素を組み合わせて、このようなシステムになっています。
 また、カトリック教会において、正式な祭司になるには、神に対する献身を示してから、叙階という儀式を経て、司祭となります。そして、地域ごとに「司教」という人がいて、組織を形成しています。そして、全世界の教会のトップに、ローマのサン・ピエトロ寺院があり、ローマ教皇が頂点にした組織を形成しています。そして、一方のプロテスタントは、原則的に言って、教会とは、人の集まりのことであり、建物や地域組織ではありません。また、信徒においても、牧師においても、カトリック組織のような上下関係はないはずです。しかし実際には、神学校の同窓会組織や、様々な教派的伝統を根拠にヒエラルキーが形成されている場合が多いように思います。

イエスはどのように考えていただろうか?
 38節で弟子の1人のヨハネが、イエスに「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と言っています。要するに、別の教会の宣教とか伝道に対する批判と捉えることができるでしょう。また、カトリック教会というのは、さきほどローマ教皇が頂点に立つということに触れましたが、初代教皇は、第一の使徒と言われたペトロとされています。そのペトロの権威を持つ教皇を頂点にして、教会全体が形成されています。ですから、教会に「従わない」っていうこと自体あり得ないことになるでしょう。イエスは、39節40節でこのように言っています。
「イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」
 イエスは教会的な視点などなかったでしょう。また教会は、その歴史の中で、分裂や争いを繰り返してきました。多くの場合、教会同士が争うときは、より自分の方が正しい、という尺度が出てきます。教会の形(組織の正統性)、信仰告白(信仰の正統性)、教職のあり方(正統と異端などなど)…。そして、これらの違いの根拠となるのは、教会の歴史、信仰告白、教職制度となります。(教会の合同、教職の移動)
 これらのこと、今日のイエスの言葉によれば、争うべき課題ではない、ということになります。しかし、そうはなってはいない。何故か?やはり組織を守ろうとする意識や競争意識が問題となっているのではないか。また最近、特に感じることは、若い人になればなるほど、教派的伝統に頼りがちで、違いを違いのままとして、じっくりと深めて、教会のあり方とか、自分のあり方とかを見つめるということが足りないように思います。

自分ルールとしないために
 今日の説教題は、弟子たちの自分ルールとしました。「自分ルール」というのは、自分勝手な自分たちだけに都合の良いルールという意味です。そうしたあり方が教会のあり方としてふさわしいのだろうか、ということを教会の組織のあり方として考えてしまうことがあります。今日の箇所に収められている弟子たちの問いにしても、現在ある教会の教えにしても、イエスが教えたものではなく、弟子たちの思い、教会の長い伝統の中で形づけられたものであります。ですから、変わる可能性があると言えるものです。そして、なんとなく、変えることはどうなんだろう、という意識で積み重ねられてきている。しかし、イエスさまが言っている「子供(の1人)を受け入れるように」というのは、どのようにくだらないと思うようなことであっても、自分自身の有り様を見つめ直して、新しい一歩を踏み出そうということではないでしょうか。
 そのための一つの指針、目印として、様々なルールが、教会、キリスト者、クリスチャン、自分の自分ルールになっていないか、と見つめ直すことが大事なのではないでしょうか。キリスト教そして教会は、聖書の言葉によって形づけられています。そして、聖書の言葉によって、また新しく変えられていくのではないか、と感じています。今という時代の中において、私たちの置かれている状況の中で、どのような教会のあり方、信仰のあり方を目指していくのか、改めて考えていく必要があるのかもしれません。イエスが伝えて下さった福音を自分ルールにしないようにすることを大切に歩んでいきたい、と思っています。


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