FC2ブログ

タイトル画像

『隠されている神』(マタイによる福音書11:2~19)

2017.08.22(06:29) 354

『隠されている神』
(2017/8/20)
マタイによる福音書 11章 2~19節

イエスとヨハネ
 今日の箇所、バプテスマのヨハネとイエスさまが比較された形で記されています。バプテスマのヨハネは、イエスに洗礼を授けた預言者でありますが、すでに捕らえられており、牢屋に繋げられた状況の中に置かれています。11章2節3節をお読みします。
「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」」
 「来たるべき方」とは、キリスト(ヘブライ語で言うところのメシア)、救い主のことを指しております。イエスがこの世における歩みをすすめた時代、ユダヤ人たちは日々、重税とローマ兵から苦しめられ、虐げられていました。苦しみの中にあったユダヤの人々、イスラエルが求めていた神から与えられる救い主とは、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる救い主でした。いうなれば旧約聖書中にある「サウル・ダビデ・ソロモン」のような王のような存在であったでしょう。神から与えられる「救い主」とは強くあって、ユダヤの王となってローマ帝国の支配から解放してくれる救い主でした。
 バプテスマのヨハネという人は、荒野に住み、福音書にも記されていますが、「らくだの毛皮」を着て、「革の帯」を着けて、いなごや野蜜を食べ物としていました。(Mt3:4)そこにたくさんの人が来て、ヨハネより清めの洗礼を受けていました。罪に汚れてしまったと考えている人々が、もう一度、神に立ち帰ることができる、ということを水による清めを行っていました。そして、ただ「清め」の儀式を行っていたというだけではなく、様々な世の中に対して感じていて不満や苦しみから逃れさせてくれるだろう、と考えていました。
 そして、イエスの周囲に集まってきていた人々も、同様です。イエスであれば、ユダヤ人たちを支配していたローマ帝国を倒してくれるかも知れない。また、自分たちのことをバカにしている祭司や律法学者たちのことも変えてくれるかも知れない。神殿も本当に人たちのことを大切にしてくれる神さまの神殿にしてくれるかも知れない、という思い。

イエスとヨハネの共通点
 バプテスマのヨハネは、預言者として、断食をして、荒野に住んで禁欲的な生活を営み、洗礼活動を行いました。日本風で言えば、いわゆる「世捨て人」として、あらゆる「欲」を立つことによって、「仙人」のようになって、神に近づこうとした、救いに至ろうとした、人でした。そして、イエスの方はどうだったか。イエスは、荒野に住むことも、断食することもなく、多くの町々を訪ね歩き、それぞれの場において、多くの人と共に食卓につき、お酒も交えて、触れあっていました。そんなヨハネとイエスへの言葉として、11章16節17節は捉えることが出来ます。
「11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』」
 これらの描写は、子どもの遊びのことです。笛を吹いて、結婚式の宴のマネごとをすること、「結婚式ごっこ」をして遊ぼうと思ったのに、一緒に遊んでくれなかった。
 イエスは、宴会ばかりしていた、というよりも、たくさんの人との触れ合いの場として、おそらく不特定多数の人と共に食事をとっていたのでしょう。葬式の歌を歌って、泣き真似をする「葬式ごっこ」遊ぼうと思ったのに、無視されてしまった。バプテスマのヨハネは、禁欲的な生活をしていました。断食をし、規則正しい生活や質素を重んじる清貧とも言える生活環境だったでしょう。まったく逆のことであるのに、等しく、「悪霊に取り憑かれている」と非難される。それを「罪人や徴税人の仲間だ」と非難される(18-19節)。そういった言葉をイエスも実際に耳にしたことでしょう。そして、そういった自らやヨハネに対する非難の言葉を弟子たちに向かってユーモア・皮肉を込めて語ったのではないでしょうか。
 ヨハネが語った厳しい禁欲的な悔い改めの道も神への道です。そしてイエスが語り行動した解放の言葉、違いを超えた自由な交わりの道も神の道なのです。これら二つはまったく逆のことです。しかし、それらのどちらにも参加しようとしない、傍観者として批評する人ばかりではないか、という意味が込められています。つまり、神さまの考え方、神さまを大事にするあり方がどのような形で来たとしても、受け入れない人たちばかりではないか。それで良いのですか?ということをこの譬えからイエスさまは伝えようとしているのです。

日常生活の中で
 レオナルド・ダ・ビンチが描いた『最後の晩餐』という絵画があります。とても、有名な絵画であります。しかし実は、その場面において、放たれたイエスの言葉は、「(あなたがたのうちのひとりが)わたしを裏切ります」というものです。
 弟子たちは、あの場面をどのような思いを持って、思い返していたでしょうか。よく考えてみますと、福音書には、食事の場面が数多く記されています。たしかに、食事は人間がいきていく上で、必要不可欠なものです。が、それにしても、あれだけの場面が描かれているのは、とても特徴的なことではないでしょうか。なぜでしょうか?一つの理由としては、イエスの活動において、様々な立場の違う人と食事をするという事柄自体に意味があったということでしょう。そして、もう一つは、弟子たち、そして多くのイエスをメシア、救い主、キリストとして、イエスに従った人たちにとって、食事は、神の支配、神の国の前触れであったと捉えられていたからと考えられます。
 また、特に弟子たちにとっては、何度と重ねて来たイエスとの交わりの時であり、思い出がつまった楽しいときであったでしょう。共に喜び、心を許しあい、触れあった場所。しかし最後の食卓の場となった文字通りの「最後の晩餐」の場面、現代においては、もっとも有名な食卓を描いた絵画であるこの作品の場面は、喜びの場であるはずの食卓で、「裏切りの予告」が成された瞬間を描いた内容なのです。
 誰もイエスの本当の思い、計画を知ることが出来なかった。そして、誰もがその予告通りに裏切ってしまう。しかし、そこに神の愛が現れている。この直後にイエスはゲッセマネの園で逮捕されてします。弟子たちは、誰1人として残らず、逃げて行ってしまう。そのことを予告した場面。もしも弟子たちが、このダ・ビンチの名作を目の当たりにしたら、どのような気持ちになるでしょうか。痛みと同時に、主なる神であるイエス・キリストの深く大きな愛を感じざるを得ないのではないでしょうか。

信仰の営み/教会の営み
私たちの日常生活の中において、食卓を共に囲む、ということは、家族や親しい間柄においてのみ、行われることと言えるでしょう。また教会の営みの中においても、いわゆる愛餐という形で行われる教会の食事、イエスを中心にして守られた食卓を思い返すためということができます。そして聖餐には、イエスがその命をかけて、私たちが負うべき罪をおってくださったこと、同時に主なる神が常に私たちと共におられるということを思い返すためになされることと言えるでしょう。
 教会の営みの中においては、当たり前のように、愛餐にしても、聖餐にしても、行われることであります。しかし、当たり前のように、行われることだからこそ、時の経過の中において、まったく同じ食事や愛餐、また聖餐であったとも、置かれている状況や気持ちによって、受け取り方はずいぶん異なることがあるでしょう。
 また、同じ事柄だからこそ、過去のことを思い出すということもあるのではないでしょうか。そして、弟子たちは、初代教会において、食事を取るために、イエスと共に、囲んだ食卓の喜びと楽しみ、そこで出会った多くの人々、また、イエスを裏切ってしまった罪とイエスの愛に満ちた赦しを思い起こしたのではないでしょうか。

隠されている神
 今日の箇所において、イエスの活動は結婚式ごっこの遊びとして、ヨハネの活動は、葬式ごっこの遊びとして、喩えられています。ここには、ある種の宗教批判があると言えます。宗教心とか信仰共同体の営みというのは、時に、日常生活から離れた場所にあるものとして、日常生活とは異なったものとして考えることはないでしょうか。何か特別な奇跡であるとか、宗教的な興奮状態とか、冠婚葬祭といった人生の切れ目切れ目とか、そういったものとしての話です。
 しかし、イエスがここで伝えようとしていることは、そうではなく、人としての当たり前の営みの中に、神の国、主なる神の愛、神の業がある、ということではないでしょうか。日常の教会の営みの中に、まったく変わらない日々であったとしても、神の愛がある、またなかなか思い通りのならないことがあったとしても、そうした営みの中にこそ、神の業が現れる可能性があるのではないでしょうか。
 今日の説教題は、「隠されている神」としました。私たちは、時に分かりやすい形での神の姿、神の存在を求めてしまいます。今日の箇所は、そのような私たちの弱さに対して、実は、そのような当たり前の毎日、思い通りにならないような毎日であっても、「わたしは共にいる」と、イエスさまがおっしゃられるように、常に、神の力が働いていることを信じなさい、主なる神の存在に信頼を寄せなさい、とおっしゃっているのではないでしょうか。

1708212.png 1708211.png

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 名古屋情報へ
にほんブログ村
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
スポンサーサイト


周縁自体


<<『弟子たちの自分ルール』(マルコによる福音書9:33~41) | ホームへ | 『平和への犠牲』(マタイ福音書9:9〜13))>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nantaro3.blog119.fc2.com/tb.php/354-af550bf0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)