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『平和への犠牲』(マタイ福音書9:9〜13))

2017.08.09(12:51) 353

『平和への犠牲』
(2017/8/6)
マタイによる福音書 9章 9~13節

平和聖日の課題
 日本において8月は戦争の記憶抜きに、語ることは出来ません。今日、8月6日にヒロシマ原爆記念日、8月9日にはナガサキ原爆記念日、そして8月15日には、終戦記念日として、様々な追悼式典が行われます。日本基督教団としても多くの教会において、8月第一週の礼拝を平和聖日として守られます。いわゆる太平洋戦争、15年戦争、第二次世界大戦の終戦から72年の月日が流れ、その記憶を如何に後の時代に伝えていくか、ということが課題となっております。私などは当然戦争を知りません。世代的に言っても、過去に「戦争を知らない子どもたち」というフォークソングがありましたが、私などは、その子どもの世代、そして、さらにその子どもの世代、孫の世代になっているとも言えます。

無言館の記憶
 戦争とはいったいどのようなものでありましょうか。戦争の恐ろしさを思うのは、別に好戦的とか反戦的とか、また自分には関係がないと思っている人であったとしても、自分の知らないどこかの意思、誰かの意思によって、その命の削り合いに、望むか望まないかにかかわらず、巻き込まれ、時に人の命を奪い、時に人に命を奪われ、大きな痛みを与え、また大きな痛みを与えられ、誰かの友人や家族の命を奪い、また誰かによって自分の友人や家族、愛する人の命を宇ばれてしまうということ。それが戦争であるということです。
 以前に、神学校の研修会で、長野県上田市にあります無言館という美術館に行ってきました。その美術館には、戦没した画学生たちの作品が展示してある美術館でした。コンクリート打ちっ放しの建物で、上から見ると、十字架の形なのでもまるで教会のようにも見えたりする建物ですが、その中には、戦没した画学生たちの絵が飾られ、遺品や、また小さなプレートには、出身地や、どこの学校であったか、そしてどこで亡くなったかが記されていました。また、無言館のことについて記されている本を買って来たので、読んで、いろいろなことに気づかされました。その内容を紹介したい、と思います。
「正直いって、彼らの絵はまだまだ画家としては半人前であり、一般の職業画家の半分の技術、力量もそなえていない。何しろ学業半ばで、草でもむしられるように戦地に行かされ、そのまま帰ってこられなかった不憫な学生たちなのだ。かれらの絵が、いわゆる完成された画家たちの絵に比べて、芸術的に造形的にも見劣りするのは仕方のないことだろう。だが、『無言館』を訪れた多くの人たちはこういう。『絵の前に立っただけで涙が出ました』と。『絵を見て、こんなに感動したのは初めてでした』と。」(P13)
 また、館主である方が無言館という名前の由来について、記されていましたので紹介します。
「当初の『ムゴンカン』の命名理由は、とりもなおさず『画学生たちの作品は無言であっても、その作品が見る者に語りかけてくる言葉は饒舌である』という常識的なものであった。画学生の『無言』は単なる沈黙を意味するのではなく、伝えるべきあまりに多くの言葉を内包する『無言』なのだ、という意味だったのである。/しかし、最近になって私は、ことによるとこの『無言館』の『ムゴン』は、画学生の絵の前に立つ私たちの方が言葉を失い、無言でたたずむしかないという意味を持っているのではないかと考えることがある。それは、かれらの絵を前にして私たちが抱かざるを得ない心の静寂というか、自らが自らに問いかける自問の時間と言ってもいい『無言』にほかならない」(P.124)
 わたしも無言になってしまったのですが、それは、一枚の絵ながらも、そこにその人の人生があるように思えるからでしょう。また、本の中でも記しているのですが、「彼らは、平和祈念や戦争反対のために絵を描いていたわけではない」のです。戦場へと向かう5分前まで絵筆を握っていた人もいたそうです。そうした一つ一つのエピソードから一枚の絵でありながらも、何か人の生涯の結晶のような印象を持ちましたし、無言になってしまう重さを感じたのでしょう。

いけにえと憐れみ
 今日私たちに与えられた聖書箇所には、このような言葉があります。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」
 旧約聖書、ホセア書6章6節の引用であります。「いけにえ」というのは、神へ捧げられる犠牲獣のことを指します。旧約聖書において、律法によって、自らの罪を贖うため、神からの許しを得るため、献げ物を献げたり、また犠牲獣を屠ることが定められています。
 またエルサレム神殿においては、毎年一度、大贖罪日(ヨム・キプール)という祭りが行われます。どういった儀式かというと、人は自ら知っている罪については、献げ物を献げて、その罪による汚れを取り払っています。しかし、皆が気づかずにしている罪が蓄積してくる。そしてその罪を取り払う必要が出てくる。そこで毎年その「大贖罪日」には、羊を一頭連れてきて、大祭司がその羊の頭に手を触れ、すべての罪を移して、神殿から逃がすという儀式が行われていました。この儀式が「スケープゴート」の語源となっています。(Lev16)
 「スケープゴート」は、現在の意味はこのやや宗教的な意味合いから転じて、不満や憎悪、責任を、直接的原因となるものや人に向けるのではなくて、他の対象に転嫁すること、それらの解消や収拾を図るといった場合のその不満、憎悪、責任を転嫁された対象のことを指します。またある集団の中で、方針や主義に不利益とされる小規模な集団や社会的に弱い立場の人間をスケープゴートとして排除するなどして、社会的な支持や統合を目的とするといったものもあります。例えば、第二次世界大戦中のナチスが行ったホロコーストは、ユダヤ人をスケープゴートの対象としたものの一例とも言えます。

神の使いとしての犠牲
 そして、考えてみますと、旧約聖書に現れる預言者たちといった人たちの多くは、神の言葉を伝えるために、自らを犠牲として、いけにえのような歩みを歩んだ人が多かったと言えるのではないか、と思うのです。例えば、バプテスマのヨハネが生まれ変わりだとされたエリヤは、時の王がバアル信仰に進む中、主なる神への信仰を訴え、王権より、つまり国全体から命を狙われることとなります。
 また、よく知られた預言者であるイザヤは、このような神より、このような言葉を与えられています。イザヤ書には、預言者の役割として、かなり厳しい言葉が語られています。イザヤ書6章9節10節。(P.1070)
「主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」」
 この言葉、イザヤに対して、あなたは神の言葉を預かってイスラエルの民に語るけれども、それは、イスラエルの人を救うためではない、という宣言です。そして、それはとても厳しい勧めでもあります。ようするに、神の言葉を勧告として、耳の痛いことをイスラエルの民、また王たちに対して宣言するわけです。当然、「余計なことを言うな」という話になります。そして、邪魔者扱いされるわけです。現在のイザヤ書は、一つにされていますが、もともとは、三つの時代の預言者の言葉が一つにされていると言われていますが、2番目に収められている苦難の僕の歌と呼ばれる箇所は、そのような預言者の姿を表したもの、またイエスの姿をさき取りしたものとして読まれます。イザヤ書53章3節から8節(P,1149)
「53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」

イエス・キリストの記憶
 この言葉、十字架を背負い、ゴルゴダの丘への道を歩んだイエスの姿に重ならないでしょうか。また、「犠牲」という言葉、いわゆる「スケープゴート」にも重なり、多くの神の導きを得た、族長や預言者、王たちについても、時に主なる神の導き、また言葉を受けたが故、神の招きを受けたが故に、犠牲となることがあります。
 また、イエス・キリストを「神の子羊」と表現することがありますが、その「羊」という言葉には、犠牲獣としての羊が意識されています。そして、その羊の尊さが、神の愛の深さにもつながっている、といます。主なる神ご自身の独り子を献げるほどに、神はこの世、わたしたちを愛してくださったのです。キリスト教信仰において、重要な点は、私たちが信仰する主自らが自らを犠牲として、私たちの罪を赦してくださった。自らを代価として、わたしたちの罪を買い戻してくださった、ということであります。

平和への犠牲
 今ある、わたしたちの平和は、大戦中における多くの人の「犠牲」によって成り立っている、ということが言われます。たしかにその通りかもしれません。では、これからも平和を守っていくために、「犠牲」が必要なのか、ということが問題になると思います。戦争は「人の業」が起こすものであり、戦争の記憶が薄れれば、また繰り返す、といったような達観したような言葉を聞くことがあります。
 先ほど、無言館の話をしましたが、その作品を誰も戦争の無念さを表現するために、描いたのではありません。しかし、あの美術館に行った人々は、その絵を見て、その作者の歩み、最後に思いを寄せ、戦争のむごたらしさに心を痛みます。その「いけにえ」「犠牲」に心を痛める、ということが出来ると思います。
 それは、一人の人の人生を一枚の絵に見てしまうわけです。一人の人の物語をその絵一枚に感じてしまう。その重さに絶句してしまうのではないでしょうか。72年前に終戦を迎えた戦争おいて、本当に沢山の人が犠牲となりました。その犠牲となった方々を数字としてではなく、1人1人の事として考えてみたらどうでしょうか。1人1人の家族や友人達の哀しみとして、考えるということはどうでしょうか。その重さに押しつぶされそうになります。それが「あわれみ」という感情の方向ではないか、と思うのです。日常における「憐れみ」の広がりが平和へのつながっていくのではないでしょうか。
 イエスはわたしたちに「いけにえ」を求めない、とおっしゃっています。また、誰かの犠牲の上に成り立っている平和とは、本当の平和と言えるでしょうか。犠牲を求めない社会や関係性というのは、非常に難しいことです。「平和」という大きな枠ではなく、一つの国、地域、家族、友人関係、教会…。そうした場において、関係において、誰かが、「いけにえ」「犠牲」になっていることはないでしょうか。犠牲とされてしまっていることはないでしょうか。そのような私たちが生きているすべての場において、「いけにえ」「犠牲」を無くしていくことの積み重ねが、「平和の実現」につながっているのではないでしょうか。私たちは、主なる神の「憐れみ」を受けた存在として、その「憐れみ」を分かち合い、平和を求めていくことを求められていると感じます。これからの日々、平和を地道に求めて歩んでいきたいと思います。

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