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『誰が種を蒔いているのか』(ルカによる福音書8:4~15)

2017.07.16(17:12) 352

『誰が種を蒔いているのか』
(2017/7/16)
ルカによる福音書 8章 4~15節

聖書の読まれ方と解釈すること
今日の「種蒔きのたとえ」は、結構に頻繁に読まれる箇所であります。またイエスは、いくつかの「種」を用いたたとえをおっしゃっています。主なモノとして、今日お読みしました「種を蒔く人」のたとえ、「成長する種」のたとえ(マルコ4:26-29)、これはルカには納められていません。そして、「からし種」のたとえ(ルカ13:18-21)の三つであります。
 そして、さらに今日お読みしました「たとえ」の大きな特徴と言えるのは、その譬えの解釈までが、その後に記されているという点でしょう。今日の箇所においては、8章11節~15節にあたります。お読みします。
「8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。/ 8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。/ 8:13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。/ 8:14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。/ 8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
 譬えの説明が記されているのは、この譬えぐらいであります。なんてやさしいのだ、と思います。また、教会における説教、礼拝におけるメッセージのことを「解き明かし」ということがあります。要するに、聖書の文章、テキストのわかりにくい部分を説明すること、補うことが求められているわけです。そして、そのために、牧師のような存在なり、他の人々、担当の人、誰でも良いんですが、専門的な知識を学ぶとか、準備をして、皆で共有するわけです。とすると、今日の箇所、説明があるわけですから、説教やメッセージをする必要などないんじゃないか、という話になる。しかし、そうとも言えない。
 というのは、説教やメッセージというのは、コンテキストという良い方をしたりしますが、私たちが生きている「生活の座」において、解き明かされなければ、意味がない、という考え方に基づいているわけです。「コンテキスト」「生活の座」という言葉を使いましたが、これは、要するに同じ言葉であったとしても、文脈や関係性、状況において、とらえ方は大きく変わります。そして、聖書の文章、福音書の文章にも、様々な「生活の座」をくぐっているわけです。最初にイエスが語った状況、言い伝えられた状況、ギリシャ語の言葉に記された状況、まとめられた状況、翻訳された状況、そして読み解かれる状況、私たちが様々な状況で受け取った状況などなど。これらのこと、すべてがある意味で「フィルター」なわけです。本当の意味で、イエスの言葉、真意に近づくためには、これらの「生活の座」を乗り越えていかなければならない。これらのフィルターを超えていく事が、解き明かしであり、真実を捉えようとする作業なのです。ですから、どんな簡単な箇所であったとしても、解き明かし、説教、メッセージは成り立つと言えるのです。
 では、改めて、故この譬えだけ説明が記されているのでしょうか。それは、私の想像ですが、原始教会において、この喩えの解釈を巡って、いろいろな議論が起こっていた証拠ではないか、と思うのです。そして、このように考えてみますと、この箇所、単に、イエスの解釈を読むよりも、違ったとらえ方に、どのようなものがあるのか、比較するという作業をして想像する方が、この喩えのメッセージにより近づく事ができるのではないか、と思うのです。

宣教者の落とし穴
 イエスの解釈とされている、11節から15節の喩えと異なる解釈。まず、種を蒔く人が、神ではなく、宣教者1人1人である、という可能性が浮かんでくると思います。種まき人の立場で、この喩えを受け取る場合、どのようなことが起こるでしょうか。宣教者として蒔く『種』は変わらない。しかし、受取り手である土、土壌の違うによって、成長の仕方が違うのだ、というとらえ方になります。
 批判的に言えば、宣教者の自己絶対化を生み出す事になるでしょう。教会の働きとしても、牧師や伝道者の働きとしても、「上手くいく」ことも、いかないこともあります。しかし、それは自分の問題、教会の問題ではない、伝道しようとする対象、宣教しようとする対象の問題だ、とするわけです。
 かなり皮肉を込めて、言っていますが、こうしたことは、かなり多いのではないか、と感じています。例えば、教会の課題であるのかどうか、平和、教育、地域社会の課題、個人の健康、悩み、など。それらの牧会者としてのあり方、教会としてのあり方、など。自分の側から、取捨選択していないだろうか、とか。端的に言って、自分のあり方としての「種」の問題には、目を向けなくなってしまうのではないでしょうか。

農業者として
 また、この喩えを農業者の視点に立って考えてみたらどうでしょうか。当時の農業の方法を調べてみました。まず種を蒔きます。それから土地を起こした、ようです。現代の日本の農業では田んぼも畑もまず土地を起こして、肥料を入れてから、種を蒔きます。しかし、当時のパレスティナの農業では、種を蒔いてから、土地を起こしていました。そして、そうした方法をとるのであれば、いわゆる「ばらまき」で、おそらく畝を起こすようなことはしなかったでしょう。
 しかし、「種」がふさわしい場所に蒔かれるというのは、プロのあり方として、どうなのだろうか、という感想を生まれないでしょうか。当時の収穫率は、蒔いた種に対する収穫量というのは、今のように多くはなかったでしょう。そうしますと、たとえ一粒であっても、という思いが生まれて、茨や石地や道に貴重な種を蒔いてしまうという事自体、間違いである、という考え方も出て来るのではないでしょうか。そんなことは、ごく少数のこと、また考えなくても良い例だ、というとらえ方です。あくまで種の話としたら、良いかもしれません。しかし、人の話として、このお話を捉えたら、ずいぶんと傲慢ではないか。この人は良い土壌、この人は石、この人は茨って誰が決めるのでしょうか。

誰もが受取り手
 また、キリスト者自ら、また宣教者自身を「種」として、捉えてみたら、どうでしょうか。神から蒔かれる「種」、またイエスから蒔かれる「種」として、自らを捉えたとき、どのような解釈が成り立つでしょうか。しかし、これも先ほどのような理解とあまり変わらないのではないか、と思うのです。あくまで、自分は神の側に立つ存在、イエスの側に立つ存在として、土地、土壌にその責任を委ねることになるのではないでしょうか。
 どうでしょうか、このような理解、私たちが受け取っているイエスの姿勢や神の意志にそぐわない何かを感じないでしょうか。このように、違う解釈の可能性を探ってみたとき、イエスが語っている解釈、福音書に記されている解釈に示されている方向性は、あくまで、主なる神のみが、種つまり福音の主体であり、それ以外の人は、弟子であろうとなかろうと、キリスト者、クリスチャンであろうとなかろうと、あくまで、神以外は、つまり人は、土地、土壌であり、受取り手でしか、あり得ない、というとらえ方であります。
 しかし、これはかなり厳しい指針とも言えます。どのような人であっても、神の前には、同じ価値しかないということは、非常にわかりやすい、とらえ方であります。しかし、どんなに信仰的な蓄積や働きを果たしたとしても、何も関わっていない人と同じである、ということはかなり厳しい方向性ではないでしょうか。神の支配、神の国に従うために、様々な行いもすべてどのような隣人とも、同じ位置に立つということ、ただ神のみが発信者であり、すべての人は受け手、受取り手であるということはかなり厳しいとらえ方ではないか、と思うのです。

イエスの姿勢
 しかし、イエスの場合を指針として、捉えてみたとき、こうしたとらえ方もスッと心に入ってくるのではないでしょうか。イエスが神の子と言われながら、キリストという存在でありながらも、神の御旨に従おうと祈った、ゲッセマネの祈り。ルカのテキストではこのように訳されています。ルカ福音書22章39節から42節。(P. 155)
「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」」
 ゲッセマネの祈りにおいて、イエスが人として、自らの意思の実現ではなく、「御心のままに行ってください」と祈った姿勢は、理想的なキリスト者の姿、神の前に立つ人の姿として、紹介されることであります。一方の弟子たちは、どうであったか。イエスは、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言っています。眠気の問題と捉えがちです。誰も眠気には勝てません。眠るべきときは、眠った方が良いと思います。が、そういった問題ではないのではないか。イエスが問題としていたのは、この夜が、普通の夜ではなく、特別な夜であること、唯一の導き手、師と仰いでいたイエスとの最後の夜であること、神がこの世に直接に介入して、神の愛を知らしめる時の始まりであることを覚えなさい、ということではないでしょうか。だから、眠いからとは言え、それはふさわしくない、といっているのです。神の意志とは、突然に人の眠気、状況によって動くのでなく、あくまで神の意志によって、時は動く、時は進むのだ、ということであります。

もう一度「種蒔き」
 最後に、9節10節に触れて、最後にしたいと思います。
「8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。/ 8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」」
 この「たとえ」は福音理解・教会理解の根幹に関わる議論となっていたのかもしれません。そうした背景を想像してみますと、教会はかなり初期の頃から、このような議論をしていたということが見えてきます。そして、それは自己絶対化の欲求であり、今現在もある誘惑に襲われていた、と言えるは無いでしょうか。
 『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』という言葉があります。私はとても、このような姿勢が大事だと思うのです。真実を知るのは、イエス、また主なる神のみ、私たちは常に神に近づこうとしている、また福音を生きようとしている、それを、隣人に分け与えたいと願っている、しかし、あくまで、真実をしる存在ではなく、私たちもあくまで、受取手である、ということが大事なのではないでしょうか。常に神に導きと救いを求め続ける存在として、種を求め、生かされる存在として歩むことを、「種まきのたとえ」は示そうとしているのではないでしょうか。

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