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『癒やしにつながる祈り』(マルコ福音書9:14〜29)

2017.07.03(09:03) 351

『癒やしにつながる祈り』
(2017/7/2)
マルコによる福音書 9章 14~29節

律法学者と弟子たちの議論
 14節最初に「一同」とありますが、先の9章2~13節には、イエスとペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちが山に登って、イエスの姿が変わる記事がありましたが、その続きとして読ませるためにマルコが記した編集句でありましょう。14節をお読みします。
「一同がほかの弟子たちの所に来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」
 何を議論していたのか、それは17~18節の弟子たちの言葉から想像する事ができます。
「「群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」」
 ここで議論をしていることは何でしょうか?14節で弟子たちと律法学者が「議論していた」とありますので、一面的には、弟子たちが、「自分たちが人を癒やすことが出来る力(権能)を与えられたのに何故癒やすことが出来ないのだろう」と議論していたと考える事ができます。そして、癒やすことが出来なかった。それだけで、もう一つ、想像する事が出来ます。それは、律法学者の人々も癒やす事ができなかったという要素であります。
 イエスの敵対者であった、祭司や律法学者、そしてファリサイ派にしても、当時のユダヤ社会においては、知識人であり、ただ単に律法的(トーラー的)に正しいか、正しくないか、義人か罪人であるか、を判断するだけではなく、病気の治療方法、治し方なども指導していたと考えられます。ですから、たしかにイエスの弟子たちが、この「霊に取り憑かれている」とされていた子どもを癒やすことも当然、試みていたのでしょう。そして、できなかった。さらにイエスの弟子たちもできなかったという状況であったと思われます。

「何と信仰のない時代なのか」
 イエスは、そんな状況の場に現れ、19節のように語ります。19節のイエスの言葉。
「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
 イエスがいう「あなたがた」は誰を指しているのか。弟子たちであることは確かです。しかし、弟子たちのみではなく、律法学者たち、そしておそらく、その周囲にいた群衆、名も無きユダヤ人たちに対しても、「あなたがた」と語りかけたのではないでしょうか。そして、何に対して、憤っていたかといえば、弟子たちにしても、律法学者にしても、また更に、この父親にしても、信仰の強さを問題にする姿勢に対して、嫌気がさしていたのではないでしょうか。信仰の強さというのは、つまり人の力にもつながります。そうした姿勢に対して、イエスは嘆いていたのではないでしょうか。
 
信仰とは?
 信仰とは、いったいどのようなものでしょうか?また信仰は、心の中のこと、とするのであれば、どのような形で、実際の生活や日々のあり方に現れるのでしょうか。マタイ福音書17章20節には、このような言葉があります。(P.33)
「「イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」」
 からし種というタネは、イエスの喩えの中に、何度か出てきますが、他の植物のタネに比べても、もっとも小さいタネであり、成長したからし種という木は大きくなったとしても、人の身長ほどのものです。そうしたことから、ここに込められているのは、信仰とは大きさや強弱ではなく、有無、あるなしだ、ということと理解する事ができます。また言い換えますと、方向性の問題であると表現する事ができると思います。神に近づこうとするのか、そうではないのか、人としての高みを目指すのか、それとも低く下っていくのか、といった視点ではない、ということです。あくまであるかないか、有無だ、というのです。
 またパウロにおいて、信仰という言葉は、いくつかの福音書における記事のようにあるかないかと言ったもの、大きさといったものではなく、律法の対比で語られたり、神との関係、神への従順さにおいて語られます。

神への信頼という信仰
 そして、キリスト教会においては、多くの場合、信仰とは祈りにつながることということと理解されることが多くあります。しかし、これらの有り様というのは、それぞれのキリスト教会の歩んできた歩み、教会として、民族や国家としてのある方、文脈に関係しているでしょう。それぞれの教会が負っている歴史、政治や社会との関わり方の課題であると言えます。
 また、釜が崎の本田哲朗神父の翻訳をひいてみましたら、今日の箇所はこのように訳されておりました。
「イエスはこのことについて弟子たちに言った。「ああ、信頼してあゆみを起こそうとしない人たちだ。いつまであなたたちのところにいればいいのか。いつまでわたしは、あなたたちを支えなければならないのか。その子をここに連れて来なさい」
 信仰とは「ピスティス」というギリシャ語であり、本来は「真実」「信じる」「信頼」などの感情を表す言葉であります。それを「信仰」という宗教用語にしてしまいますと、なんとなく堅い感じ、感情の中で信じる、という意味になってしまいます。が、本来は「神に従う中で信じ行動すること」そこまでを含めたこと、として捉えられます。現在の「信仰」という言葉に押しつけられている前後の意志や行動から切り離された「ピスティス」(信じる)のとらえ方は、やはりずれているのではないか、という問題提起にもなります。
 またもしくは「信頼」と訳した方がすっきりするのではないかな、と思います。神への「信頼」が足りないから、律法学者と弟子たちの間で議論になってしまっている、と。そして、その「病に悩む子供」だけでなく、自分たちの正しさだけに興味が行き、神さえも彼らには映っていない、と。

祈りという信仰の形
 そのようなイエスのため息の後、イエスの癒やしが始まります。21~23節をお読みします。
「『イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」』」
「信じる者には何でも出来る」よく聞く言葉であります。信仰とは有る無しなのか、また他の箇所では信仰さえあれば、山さえも動く(マタイ17:20)という箇所までありました。信仰は「ピスティス」という言葉ですが、癒やされる当事者ではなく、その近親者の信仰によって「癒やし」が行われるのは、屋根をはがした4人の友人や12歳の娘の父親と同じパターンであります。そして23節でイエスは「信じる者には何でも出来る」と答えておりますが、これは父親だけに向けられた言葉ではなく、弟子たちにも向けられている言葉として理解することであると理解する事ができます。
 そして最後の部分、イエスは、この子を癒やした後、弟子たち「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」とイエスに問います。それに対して、イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ないのだ」と答えます。ここで言われている「祈り」とはどんな祈りなのか、ということです。様々なとらえ方ができます。しかし、そのとらえ方の材料、要素を、今日のお話とするのであれば、奇跡行為、いやし行為を自らの正しさのため、弟子たちや律法学者そして父親も含めて、自分の信仰の力によって何かをなそうとする姿勢は間違っている、ということではないでしょうか。

祈りとは?
 「信仰によって山が動く」ように「祈りによって人が癒やされる」ということは実際にはなかなか起こることではありません。また、これは面白い例なのですが、紀元3世紀のある写本では「祈り」だけでなく、「断食」という言葉が付加されて、「祈りと断食によらなければ…」というかたちにされているものもあるのです。これも当時の教会の状況がそうさせた不可でありましょう。どうしても「祈り」だけでは、「病い」を癒やすことが出来ない、という状況がある中、で、「断食が足りないのだ」と自分たちで「答え」「ハードル」をそこに掲げることによって安心したのではないかな、と思います。
 祈りとは何か?私なりの答えでもありますが、私たちの行動すべてが祈りのようなモノではないか、と考えています。たしかに礼拝や1人、心静かに神さま、イエスさまに祈るということも祈りであります。しかし日常の中における、様々な出来事や自らの他者や自分に対する働きかけ、こうなりたい、このようになって欲しい、ということ、何らかの働きかけや努力があったとしても、叶わないこともあります。勉強したら、とか、苦労したら、幸せになれる、お金持ちになれる。また病気であっても、何らかの治療を受けたり、とか、薬を飲んだり、とか。いろいろなことをします。しかし、叶わないこともある。そうしたこと含めて、祈りと言えないでしょうか。また芸術家やスポーツ選手ではどうでしょうか、努力だけでは、どうしようもないこともある。祈りに近いものもある。
 「祈り」とは、神さまとの対話ということがあります。「願い」を神に捧げる、というだけではなく、「感謝」を捧げる、そして最終的には、「神に委ねる」という行為が祈りではないでしょうか。今日の箇所で、イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ないのだ」とおっしゃいました。人の力では何ともならないことがある、その先にあることは、神に委ねること、そうした祈りによってこそ、癒やしが実現する、また新しい希望が与えられる、と受け取ることが赦されているのではないでしょうか。


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