FC2ブログ

タイトル画像

『イエスの軛(くびき)を背負って』(マタイ福音書11:25〜30)

2017.06.13(20:23) 349

『イエスの軛を背負って』
(2017/6/11 名古屋堀川伝道所)
マタイによる福音書 11章 25~30節

身近な存在である神
 今日の箇所、マタイによる福音書11章25節26節をお読みします。
「11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」
 イエスは、「天地の主である父よ」と呼びかけています。イエスの祈りについて、斬新であり、また敵対者たちの怒りを買い、律法違反とも言えるであろうことは、この「父よ」という呼びかけでした。十戒には「あなたの神(かみ)、主(しゅ)の名(な)をみだりに唱(とな)えてはならない。」という戒めが記されておりますが、とても「父よ」といったような親しみを込めた表現は誰も用いませんでした。すると、こうした祈りとしての「父よ」という呼びかけも反対者たちにとっては、「自分は神の子である」という律法違反の主張とうつったでしょう。そしてそのことはイエスが逮捕され、裁判にかけられている場における、告発者たちがイエスに対して「神の子である」と言っていた、という主張にもつながります(マタイ26:63/マルコ14:61/ルカ22:70/ヨハネ19:7)。
 また、もう一つ、明らかにされていることは、イエスが語った神が、神殿にいる祭司や律法学者や王たちに、自らの存在を示したのではなく、25節の後半にあるように「知恵ある者や賢い者」ではなく「幼子のような者」に示し、それこそが「神の御心」だ、という点です。福音書に親しんできた人々にとっては、当たり前のことと言えますが、これも敵対者たちとなる律法学者や祭司たち、王族にとっては気に入らない主張でありましょう。そして、私たちもこのイエスの言葉、「幼子のような者」こそ、主なる神は招いている、という導きを完全に受け入れることが出来ているか、といえば、とても難しいことと言わざるを得ないのでは無いでしょうか。続く27節における「すべてのことは、父からわたしに任せられて」いる、という言葉にしても、後半の言葉にしても、同じような意味合いから、とらえることが可能でしょう。イエスことが主なる神を知る唯一の道しるべである、ということ、そして主なる神もイエスを通じてのみ、私たちにその意志を示して下さる、ということです。

律法の軛からイエスの軛へ
 さらに11章29-30節をお読みします。
「(29節)わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。…(30節)わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 「軛」とは、牛や馬の首につけて、鋤や鍬を引っ張らせて、田畑を耕すためのものです。ですから、軽いわけはありません。また、当時の律法中心のユダヤ社会には、「律法の軛」という言葉がありました。「軛」というのは、重いかもしれないけれども、それを付けていれば、間違えることはない、道を外れて進むことはない、「道しるべ」という意味を含んでおります。また『律法の垣根』という言葉もありました。これもただ単に言葉通りの「律法を守る」というのではなく、「この枠の中に生きていれば、律法に違反しない」という範囲のことを指し、決定的な間違いを犯さないための「生活の知恵」とも言えます。
 また今日の箇所でイエスが語る「わたしの軛」とは何か、「負いやすい軛」とは何か。軛とは普通、一頭の牛・家畜で付けるものではなく、二頭並べて、つけるものであります。そして、その間に鋤や鍬などを取り付けて、なるべくならば、まっすぐに土を起こして耕したり、ウネを切っていく、道具であります。イエスは「わたしの軛」とおっしゃっています。基本的には、主なる神の道を外れないように、自分たちの動きを制御してくれるためのものと捉えることが自然である、と思います。また、キリスト教的に言えば、「イエスが一緒の軛で、ともに歩んで下さっている、」という言い方もできるでしょう。

疲れた者、重荷を負う者は
 28節をお読みします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」ここで言われている疲れや重荷というのは、当然、日常の生活の中における「疲れや重荷」を指すのでしょうが、同時に「律法」や日常生活における重荷を指すものと思われます。マタイ福音書23章1節から4節をお読みします。
「23:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」

 ファリサイ派の人々や律法学者を批判する言葉であります。キリスト教の神のあり方として、共にある神、インマヌエルの神、という表現がなされることがありますが、共に「軛」を首に付けて、荷を背負う、ということにも繋がるでしょう。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、そのようなことはしなかった。上から目線というのでしょうか、そうした位置に立って、いろいろと口を出してくる、しかし、それだけで手を貸す事もしなかった。そんな有り様をこの言葉は示しています。

聖書と農業、人類と農業
 イエスは、喩えにおいて、農業に関する言葉を多く使っています。種まきをする農民と種、ぶどう園の労働者たち、など。農業とはどういったものでしょうか。現代においては、農業というのは、自然を大切にすること、エコ的なものとして捉えられがちです。しかし、本質的に言えば、自然に対する人間の直接的な介入であり、自然の破壊の一つとも言えます。そして、農業は人類における文明の発展において、重要な役割を果たしています。
 農業は、大まかに言って、紀元前10000年ぐらいに生まれたという様に考えられています。それ以前の人類は、動物を狩る狩猟や、自然にできている果実や穀物を取る採取という方法で食料を得ています。しかし、様々な形で、他の植物を排除し、土を耕し、種をまき、収穫するという形の農業が生まれてきます。その後、紀元前5000年ぐらいには、簡単な道具としての農機具が生まれてきました。
 農機具の発展には、金属の精製、精錬技術も関わってきます。イザヤ書、2章4節の言葉。「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」
「打ち直して」とあるので、金属の話であることを知る事ができます。そして、治水技術、水の管理ができるようになり、いわゆる文明が世界の各地に生まれるようになりました。そして農業の発展とは、収穫物を保管し管理するという作業を生みます。
創世記に記されているヤコブの息子ヨセフは、エジプトにおいて、エジプトの王であるファラオの夢を説いたことによって、エジプトの宰相、大臣のような立場を得て、干ばつによってもたらされた7年間の飢饉を乗り越えたとされています。そして、少し話はずるかもしれませんが、このような収穫物を保管する管理するということは、人類の安定した食糧自給を約束し、人口を大きく増やす要因となりましたが、同時に、そうした収穫物を奪い合う事、農地を奪い合う、戦争を生み出す原因ともなっていきました。戦争をするようになって、武器が必要になる、守るための城壁が必要になる、と。様々な技術が必要になる。そのようにして人間の文明は発展してきた、と言えます。

農業とイスラエルの民
 イスラエルの民族は、アブラハムの時代、町や都市、そして土地も持たない、半遊牧民族として、その歴史を刻んできました。土地を持たない事から、民族が亡くなった場合には、埋葬する土地の売買が大きな問題となるほどでした。しかし、エジプトに下り、奴隷として時期を過ごしてから、現在のパレスチナの地に帰ってきた時には、主なる神を頂点とした奴隷制度や王といった存在を持たない、平等主義的な民族のあり方を常に模索していたと言えます。
 しかし、周囲の強国(エジプト・アッシリア・バビロニアなど)に対抗するために、王という存在を作りました。また、民族的なアイデンティティ(ユダヤ教的生活習慣)を守るために、律法への厳しい服従や、民族的な血脈へのこだわりの強化などといった動きをその歴史の中で紡いできました。そして、イエスの時代は、そうしたあり方が、頂点に立っていた時代であったと言えます。そうした状況の中において、多くのユダヤ人たち、特に社会的な立場、地位、豊かさも持たない名も無き者たちは、生きづらい状況を生き、多くの重荷をその肩に、担ぎにくい軛を背負わされて、生きていたのではないでしょうか。

イエスの軛
 今日の箇所、マタイ福音書11章29節30節をお読みします。「11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 軛とは、家畜の動きを制御するものです。また同時に、こういうことも言えないでしょうか。人がその人として得るべきもの、与えられているものを得るための地図のようなもの、と。
 現代を生きる私たちはどうでしょうか。世界中の多くの人々が、恵まれない立場にいると考えています。日本でも、いわゆる税金の負担は少ない方と言われますが、いわゆる教育や福祉については、個人が負担しなければならない側面がどんどん大きくなっています。そうすると豊かな者はより与えられ、貧しい者はより失う形となっていく。しかし、あくまでそうした動きは、いつわりの「平等」や「公正」、「競争」また「自己責任」といったスローガンによって、進められていく。
 たしかに現代は、「豊か」で「便利」な世の中と言えます。しかし、それらの恩恵を受けることに、はっきりとした差があり、その狭間で多くの人と人との間が引き裂かれている状況、1人の人であっても引き裂かれている状況と言えないでしょうか。そして、誰もが「豊かさ」を求めて歩む中において、自分も「豊か」になりたい、という願いを持つ状況の中で、そうした差を批判をしなくなっていく。そして批判しやすい自分よりも「貧しい者」「持たざる者」に対する批判、「まじめにしていない」「努力が足りない」などの言葉が多くなり、また自らもそうした枠組みの中で評価するようになり、満足できなくなり、毎日が憂鬱になる。
 しかし、それにしっかりとした目安があるとすれば、誰もが自らの置かれている状況に納得して、それぞれの気持ちも安定して、住みやすい世の中になるのではないか。そのためには、誰もが得るものに満足することが大切ではないでしょうか。「イエスの軛」を、そのような目安として、地図として、考えることはできないでしょうか。他人に不当に荷を乗せられるのでもなく、勝手に収穫を減らされるのではなく、誰もが日常の生活に必要な糧を与えられる道具として、道しるべとして、イエスの軛はそれぞれの人に与えられているのではないでしょうか。

1706112.png 1706111.png


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 名古屋情報へ
にほんブログ村
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

スポンサーサイト


周縁自体


<<『罪の重さと愛の大きさ』(ルカによる福音書 7:36~50) | ホームへ | 『神を生かすも殺すも』(ルカによる福音書 7:18~35)>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nantaro3.blog119.fc2.com/tb.php/349-bdd09de0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)