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『キリスト教的過去・現在・未来』(マルコ福音書9:2−13)

2017.05.14(19:13) 346

『キリスト教的過去・現在・未来』
(2017/5/14)
マルコによる福音書 9章 2~13節

イエスは何者か
 福音書は、イエス自身が、何者であるのか、どのような存在であるのか、を記している文書であります。イエスは、キリスト(救い主)であり、メシアであり、神の子であり、ダビデの子であります。これらの言葉は、「イエスは○○である」という形で、なされます。しかし、これらの言葉は、イエスに基づく場合もありますが、人の言葉を通じて、弟子たちは一般の人を通じての言葉であります。信仰の告白、疑問に対する答え、宣言などの形になりますが、それらはすべて人の言葉であります。ですから、間違っている場合もある、確認が取れないわけです。それにくらべて、今日の箇所の言葉は、神によって、そのことが述べられている。その点において、特別な箇所ということができます。
 マルコ福音書9章7節をお読みします。
「9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」」
 そして実は、神がこの言葉を語ったのは、マルコ福音書において、二度目になります。そして一度目は、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受ける場面であります。マルコ福音書1章9節から11節。(P.61)
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」
 二度目に神の声が天から現れた今日の箇所、モーセとエリヤという預言者が現れ、イエスが天に浮いた、というのですから、とても神秘的な場面ということができます。そして、こうした場面のことを「神顕現」の場面と言います。直接的に神がこの世に働きかけた、姿を現した場面のことを指します。そして今日は、なぜ、モーセとエリヤなのか、ということ、また説教題にも込めました、キリスト教における時間の捉え方を考えてみたい、と思います。

ユダヤ教の立場から
 今日の箇所でイエスと共に、二人の預言者が現れました。一人はモーセ、一人はエリヤであります。「何故、この二人なのか?」という問いがあります。また私の最大の疑問は、ペトロや他の弟子たち、モーセとエリヤのことをなぜ一目見て、分かったのだろうなあ、という疑問です。写真もない時代、さらに絵画(肖像画)などもない時代、ユダヤ教においては、絵を描くことさえも禁じられていた時代、一目見て、「モーセだ、エリヤだ」とはいかないはずなのです。しかし、モーセとエリヤを見たというのは、それ以外には考えられなかった弟子たちの思いがあったということが出来るのではないでしょうか。
 例えば、マタイ福音書などでは、ダビデから始まる系図から福音書は始まりますから、「イエスはメシアであったダビデの血を引く者」で「イエスもメシアである」という面が強調されていると思われます。ですから、ダビデでも良いではないのか、またもう一人はアブラハムでも良いのでは、と思うのですがその2人ではありません。なぜか?こんなことが言えると思います。ダビデは預言者や神の子ではなく、王という立場です。王という立場のは、あくまで人の側の立場にたつ存在で神の側には立っていない、ということではなかろうか、と思います。その上で、なぜ、モーセとエリヤだったのか、私としての答えとして言うなれば、この二人を選んでいるのは、ユダヤ教的な聖書(旧約聖書)の捉え方と言えます。そして、今もなお、ユダヤ教徒の人々にとっては、「メシア」と言う存在は現れていませんし、終末も来ていないという捉え方で、メシアを待ち続けている、終末(神の裁き)を待ち続けている状態と言えます。
 キリスト教的な立場でいえば、新約聖書と旧約聖書があり、新約聖書はイエスによって示された新しい契約を著すもの、旧約聖書は古い契約を著すものとして捉えられています。しかし、ユダヤ教にとっては、旧約聖書(聖書)しかないわけですから、「古い」と呼ぶことはありません。また、そうしたユダヤ教的な立場から考えてみますと、キリスト教の側が、一方的に「古い」と呼ぶことは、とても失礼な話ではないか、という発言が聖書学者などの間では見られ、それぞれユダヤ教聖書、ギリシア語聖書と呼ぶべきである、という意見もあります。
 またユダヤ教の聖書への視点から考えてみたい、と思います。現代でもユダヤ教では、ヘブライ語聖書のことを、「タナハ」と呼びます。これは、三つの頭文字をとった呼び方であります。「タ」というのは、「トーラー」(律法)で、モーセ五書〔創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記〕、を指します。そして2番目の「ナ」は、「ネイビーム」(預言)〔ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記〕、そして、3番目の「ハ」は、「ケトゥビーム」(諸書)〔それ以外〕であります。そして、価値としては、それぞれ1番目、2番目、3番目の順序、モーセ五書、預言、諸書の順序で重んじられています。モーセ五書に一番の価値があり、それらの補助する役割として、他の文書がある、という捉え方です。
 またこうも表現できます。モーセ五書が、絶対のもの、神の言葉であり、預言書は歴史であり、注解、神の言葉の実践編といった捉え方で、この順番が入れ替わることはないのです。キリスト教ではどうでしょうか?ユダヤ教聖書(旧約聖書)のみの話ですが、おそらく多くの人が、旧約聖書というものは、歴史の順序に従って、時系列によって、まとめられている、と捉えていると思われます。そして、ユダヤ教のヘブライ語聖書とキリスト教の旧約聖書では順序が微妙に違います。

啓示宗教という宗教の時間軸
 また、キリスト教やユダヤ教のみならず、イスラム教の視点からこの課題を考えてみたいと思います。イスラム(教)ですとどうなるか、ということにも触れてみます。イスラムにおいて、ユダヤ教聖書は、第二正典とも言える文書であり、モーセもエリヤ、そしてイエスも預言者としての地位を与えられています。イスラムにとって、聖書に登場する特別な存在と言えば、アブラハムになります。なぜならイスラムの人々にとって、アブラハムは自らの神の信仰の始祖であります。さらにアブラハムの子、イシュマエルを自らの民族の始まりとしていることも影響しているでしょう。
 そして、イスラムにおいて、信仰を告白する言葉というのは、キリスト教のように長くなく、議論も生まれないのではないか、と思うほどシンプル、単純で二つのことを宣言するだけです。一つは、「アッラーフ(神)の他に神はなし。」。もう一つは、「ムハンマドはアッラーフの使徒である。」であります。
 この宣言の説明に現されていることはこのようなことです。前半の神の部分は、ユダヤ教、キリスト教が共有している唯一の神への信仰の宣言です。そして後半、ムハンマドのみが、使徒(神の使い)ということではなく、最後の預言者、使徒ということを指している、ということでした。キリスト教やユダヤ教に対して言うなれば、同じ神さまを信じているけど、捉え方が違うのよ、アブラハム、モーセ、エリヤ、イエスもいるけれど、ムハンマドが最後で最高の預言者だからね、という考え方なのです。

アジア的宗教との比較
 そして、説教題にもしました「時間軸」のことで考えてみたいと思います。そのことを考える上で、キリスト教、ユダヤ教、イスラム(教)とは異なる宗教、アジア的な宗教、仏教やアジア的な家族観と比較するとその特徴が見えてきます。どうでしょうか?キリスト教などの西洋的な宗教と仏教などアジアの宗教の時間の捉え方を、ざっくりと比較する時、キリスト教などの西洋宗教の直線的、始まりがあって終わりがある、という時間の捉え方。そして仏教などは、円環的な捉え方、輪廻転生などの捉え方をしている、という違いがあるというような言葉を聞いたことはないでしょうか。そして、それは私も当たっていると思います。しかし、厳密に考えてみますと、少し違いがあるなあ、ということも思います。
 仏教やアジアの時間の捉え方は、命にしても、モノにしても、はかないもの、永遠のものなど無く、変わり続けるモノ、そして繰り返していくモノ、という価値観があると言えます。そして、正確に言うと、円環ではあるのですが、繰り返しているようで少しずつ変化している、円環ではなく、いわば螺旋のような時間観と言えるのではないか、と思います。話が少し離れますが、こうした考え方が自然などへの万能観へと繋がると思うのですが、人間のエゴイズム、あまりに自分勝手に開発や技術をワガママに利用してきた結果の行き着く先が、原子力発電所の事故、放射能汚染があると思うのですが、それも円環的に無くなるもの、リセット出来るもの、というように繋がっているのではないか、と思います。

自分はどんな時を生きているのか
 そして一方、西洋的な時間観は直線という話ですが、たしかにその通りかもしれませんが、キリスト教もユダヤ教もイスラム教も啓示宗教である、という点から考えてみますと、少し違った見方が出来ると思います。たしかに直線なのかもしれませんが、もしかしたら、言わば、「点」と行っても良い時間の捉え方があるのでは無いでしょうか。
 啓示宗教というのは、極端に言えば、神と自分自身の関係のみのものです。神から受けたものに対して、自分がどのように答えていくのか、それの連続であり、その繋がりが「直線」になっていく、という捉え方ができるのではないでしょうか。また、自分が生きる時間において、どのように振る舞うのかが課題なので、自分以前とか以後とかも関係ない、そういう意味で、始まりと終わりがある「直線」といえるのではないか、と思います。

時間について
 時間ということで考えてみたいのは「時計」のことです。時計は11世紀頃には、生まれていたのと言われますが、爆発的に多くの人が時計を持つようになったのは、鉄道が発達してからだ、と言われています。今でも電車の運転手や車掌さんは懐中時計を持って、お仕事をしていますが、あれは時計と鉄道の歴史的関係の名残と言えるでしょう。
 それ以前は、朝昼晩ぐらいの時間感覚で良かったのが、鉄道が生活の中に浸透する中で、時計が発展してきた。そして日本人というのはずいぶん鉄道の時間にこだわるのも民族性かと思います。しかし、数字の時間ばかりに目が言って、世代のこと、後の世代に対する視点というのは、政治の世界にしても、一般の人々にしても、あまりに無関心ではないか、と感じることがあります。
 そして、もっとも時間軸として、単位が大きいのが、家族の関係ではないか、と思うのです。韓国人の友人に韓国人の名前の付け方を聞いた時、子どもが生まれたら既に、名前が決まっているという話を聞いたことがあります。生まれた両親や祖父母の名前から取るので自動的に決まる、というのです。そして同じようなことが台湾の先住民の友人からも聞いたことがあります。こうしたあり方、一つの時計とも言えるのでは、と。そういった単位で時間が流れている、と輪廻転生、螺旋の時間軸というのもしっくり来るなあ、と。そしてそうした円環の一部なんだ、という意識にも繋がっていく。また、そうした捉え方が命や自然にも繋がっていく、と。

自分とは何者なのか
 聖書の話に戻ります。エリヤとイエスではいくつか似ている点があります。一つは、「時の権力者から命を狙われていること」です。エリヤが活動した時代、間違った政治を行っていた王に対して、預言者は「あなた達の言葉と行動は間違っている」「神の意志はこうだ」と声を上げているわけです。しかし、力は王の方が当然強い、そして預言者たちの多くは無力であり、命を狙われたりする状況におかれたりもします。そして、そのようなエリヤの再来を望むということは、ユダヤ人社会において、いつの時代においても、変化を望む人々の信仰、希望となっていきました。
 今日の箇所、マルコ福音書9章11節には、イエスに対して、ある質問がなされています。
「9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。」
 これも、ただ単に預言の実現を待っているのではなく、期待している、イエスの時代において、ローマ帝国に支配されている状況を変えて欲しい、ヘロデ大王などユダヤ人でありながらもローマの支配を善しとしてユダヤ人の伝統を大切にしようとしない、支配層を変えて欲しい、と言った思いが込められていると考えられるのです。
 ユダヤ人たちは、何世代にもわたって、メシアの到来を期待していました。ここで大切なのは、何百年にも渡ってです。そうした思いは、直線かもしれませんが、人と人の繋がりで考えてみますと、螺旋的な時間軸とも言えるのではないでしょうか。歴史の中で似たような間違いや平和が繰り返されてきた、喜びの時代や哀しみの時代をくぐってきたでしょう。直線かもしれませんが、螺旋とも表現できるのではないでしょうか。

イエス・神との関係に基づいて
 キリスト教にとって、イエス・キリストは絶対の存在です。またキリスト者、信仰者にとっては、そのキリストや神に対して、どのように答えるのか、ということが常に問われている、その点の連続が直線、そして螺旋へと繋がっていると言えます。モーセにしても、エリヤにしても、そうした点であり、直線であったと言えます。エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちを導きだし、十戒を中心とした律法を託されたモーセ、そして、神の思いから離れてしまったユダヤ民族、王を正しい道へと導こうとし、命を狙われながらも、神の言葉を預かる預言者としての道を歩んだエリヤ。イエスを中心として、2人の人が現れたとき、それ以外の人は思い浮かばなかったのでしょう。
 また、私たち一人一人の一つの「点」であり、「直線」であるといえます。そうした点や直線が集まって螺旋となっていきます。小さな点であり、短い直線かもしれませんが、イエスの導きに従い、主なる神に喜ばれる時間を重ねていきたいと思っています。


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 教会での昼食と神戸森林植物園でのフォト

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