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『神の涙という矛盾』(ヨハネ福音書11:28-37)

2017.05.07(16:30) 345

『神の涙という矛盾』
(2017/5/7)
ヨハネによる福音書 11章28~37節

感情の連鎖
先日、SNS(Twitterやfacebook)にこのような文章を載せました。

「ちょっと前のお話。
仕事で、自動車の運転をすることが多い日々です。
道路には、いろいろなモノが落ちています。軍手、長靴、パイロン、ゴミ袋、言葉に出来ないモノ…など。
しかし先日、目にしたモノはいろいろと想像を膨らむものでした。
なんと、花束。
いわゆる、葬儀や結婚式などのお花ではなく、プレゼントとして、渡しそうなもの。
それが片側2車線の道路の真ん中に…。
何があったのだろうか。
誰かに贈られたものなのか?
それとも贈られる前だったのか?
それともそれ以外の理由だったのか。
純粋な落とし物だったのか。
それとも、あえて道路の真ん中という場所だったのか。
その花束、誰かを幸せにできたのか、どうかわかりません。
しかし、ボクは知的好奇心という幸せをもらいました。」


 これに対して、様々な反応がありました。皆さんだったら、どうでしょうか?道の真ん中に落ちていた「花束」から、皆さんはどのような背景を想像するでしょうか。私などの恋愛や色恋沙汰が背景にあったのではないか、という想像。人の事故つまりは死があったのではないか、という想像。またはゴミというのでしょうか、片付けなければならないモノ、人のイタズラといった想像。そして、それに対する「なっとらん」といった怒りの感情。またはそれ以外。いろいろ考えられると思います。
 そうした反応に正解はない、と思うのですが、ある程度は、それぞれの反応には、その人が置かれている状況、持っている感情などが反映しているのではないか、ということは考えられるでしょう。最近、世界中で、一国主義、ある種の国家主義、または民族主義が動きというものが様々な形で現れています。そして、その背景には、世界全体、地球全体に拡がっている「怒り」があるのではないか、ということが言われています。日本でも、誰もがなんとなくイライラしている風潮が以前より強くなっていると感じておられる人もおられるでしょう。私もそう感じています。(私自身もそうかもしれませんが…)
 感情の連鎖ということがありますが、同時に、感情の変換が起こる、と。怒りが哀しみに、哀しみが怒りに、笑いが怒りに、怒りが笑いに、と。しかし当たり前のことですが、そのことによって関係が良くなったり、悪くなったりすることがあります。そして、人と人、集団と集団、国家と国家の間において、そうしたことも起こり、時に穏やかではない話にもなってしまいます。
 そして、そのような社会の中において、キリスト教徒として、考えることの一つに、「イエスであったら、どうしただろうか?」「イエスであったら、このような状況、世界の中でどのように振る舞っただろうか?」というのは、常に大きな課題でしょう。

イエスの感情表現
 今日の箇所は、イエスが涙を流したことが記されている箇所ですが、イエスの感情表現と言えば、この涙を流した箇所と、いわゆる宮清め、神殿で商人たちや両替屋の舞台をひっくり返したとき、怒っていなかったわけはないでしょう。実は、イエスがはっきりと感情を表現したのはこの二つの場面しか記されていません。あとの感情表現に関しては、読み手が想像するしかないわけです。
 そして、イエスの感情表現については、キリスト教の歴史においては大きな問題となることもありました。『薔薇の名前』という映画があります。ウンベルト・エーコというイタリアの作家が1980年に発表した小説が原作であり、主人公は、ショーン・コネリーです。13世紀のイタリアとある修道院において、修道士たちが犠牲になる殺人事件が多発します。修道院の中のお話ですが、殺人事件が多発してしまった直接の原因は、「キリスト教における笑い」の問題でありました。その修道院には、大きな図書館があり、たくさんの書物が収められていたのですが、その中に、「笑い」に関して肯定的に記したものが納められています。しかし、ある修道士は「笑い」をとても否定的に捉えており、その書物の存在を隠そうと、公にならないために修道士が殺されていったのです。その殺人を犯した犯人にとっては、「笑い」とは人間を堕落させるもの、神の恵みを忘れさせるもの、神に対して罪を感じなくなるもの、という捉え方をしており、神の恵みを忘れさせないために殺人を起こしてしまっていたのです。そして、この修道士は、「イエスは笑わなかった」と信じていたと思われます。しかし、どうでしょうか。イエスが弟子たちと旅を続けていたその道すがら、様々な人々と共に食卓についていたとき、その場に、笑いはあったのでしょうか?なかったでしょうか?

イエスと人々との触れ合い
今日の箇所、イエスは以前から親しくしていたマリアとマルタの兄弟のラザロという友人が重い病気にかかっていることを聞き、彼らが住んでいるベタニアという町にやってきました。しかし、イエスたち一行がベタニアに到着した時には、ラザロは死後4日もたっており、墓に葬られていたという状況でした。マルタとマリアの姉妹は聖書には何度か登場しますが、ルカ福音書には、マルタは働き者で人の世話をする方、妹のマリアはどちらかと言えば、あんまり動かずにイエスのお話に耳を傾ける方として描かれます。(ルカ10:38-42)そんな逸話が福音書の中に記されていることからも、イエスとこの姉妹が親しかったことがうかがい知れますが、ラザロの死後に現れたイエスに対して、妹のマリアは、イエスにこう述べています。32節。
「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。」
 あなたさえここにいれば、弟のラザロは死ぬことはなかった。このマリアの言葉と態度や、周囲にいたユダヤ人たちの態度からか、イエスは涙を流します。

イエスは涙を流された
今日の箇所、イエス・キリストの物語が記された福音書の中では、二つの大きな特徴がある箇所です。一つは、11章の35節「イエスは涙を流された」という箇所。新約聖書の中には、四つの福音書が収められておりますが、この11章の35節は、イエスの物語が記された四つの福音書の中でもっとも短い箇所である、ということです。日本語では、「イエスは涙を流された」と記されていますが、英語では「Jesus wept」(ジーザス・ウェプトゥ)ギリシャ語では「εδακρυσεν ο ιησους」(エダクルーセン・ホ・イエスース)と二つの単語と一つの冠詞で構成された節で、聖書の中ではもっとも短い節として知られています。また、この箇所は、イエス・キリストが唯一、涙を流した箇所として知られています。福音書の中における、イエスの感情表現は少なく、「憤った」「憐れんだ」などは良く出て来る表現です。また神殿における宮清めで怒っていることや弟子たちへの戒めを述べる姿はあります。ですが、はっきりとした感情表現として、「涙を流した」とあるのは、この箇所のみなのです。

神の涙という矛盾
 しかし、一方で、神である存在が悲しみに暮れ、涙を流すのだろうか、という疑問もあります。神という存在は、全てをつかさどる存在です。特に今日のテキストであるヨハネ福音書の1章1節の冒頭は、「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とはじまります。そして、この「言(ことば)」とは、イエスのことを指しますが、続く2節3節では、このように続きます。「1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
「言」はこの世の創造の前から神と共にあり、「言」であるイエスによって、すべてのものが創造されたということです。ということは、イエスはすべてのものを知っているということです。ですから、わたしたち1人1人の誕生から終わりまで知っていることになる。とすると、今日の箇所。ラザロが亡くなることも、最初から知っていた、ということになります。たしかに、人の生き死やこの世の動き、そのすべてを、その最初から最後までを知っているとしたら、喜びも悲しみもなくなってしまうかもしれません。また、だとしたら、神の子、キリストであるイエスが、今日のように涙を流すというのは、おかしな話だ、ということにならないでしょうか。

涙に現されたもの
 ラザロの死、この事実に直面した時、イエスは涙を流します。このことからわたしたちはいったい何を知ることが出来るのでしょうか?人の死に直面して流す涙、自分の近しい存在を失ったときに流す涙。人間にとってはとても自然なことでしょう。人はそのことによって悲しみを無意識に和らげようとしている、とか、人の心にコップに喩えて、水をためたコップを揺らしたときにこぼれた水である、などとも表現されます。
 イエスが涙を流されまた、そのことを対して、周囲の人々から、二つの全く視点の異なった感想が語られています。一方は36節の言葉、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」。イエスの涙から知ることが出来るイエスの内面に視点を置いています。彼らはイエスの涙を目にして、同じく涙していたかもしれません。そしてもう一つは37節の言葉、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」。涙を流されたことから、生き返らせることは出来ないと受け取っての言葉でしょう。この言葉の語り手は、イエスの人としての感情よりも、イエスが持っている力、神として持っている奇跡に興味があって、述べられた言葉ではないでしょうか。
 そして、これら二つのイエスに対する反応は、それぞれイエスが持っている人としてのあり方、神としてのあり方に対応しています。主なる神は多くの奇跡を起こし、福音書におけるイエス・キリストも多くの病を癒し、時に人の命さえも生き返らせました。そのような力を人が手に入れたとしたら、誰も死に関して、悲しむこともなくなるでしょう。死や病いが無くなれば、というテーマは人間にとって不変なものであります。だからこそ、神に祈り、求めるという行動を行います。そして、もし自分がそのような力を手に入れたら、悲しむこともなくなる、という思いがあるのではないでしょうか。そして、もしイエスが悲しむとしたら、また神が悲しむとしたら、それはどうなのだろうか、という思いを持つのではないでしょうか。そして、このことは先に紹介した『薔薇の名前』に現れる「笑い」を憎む修道士に繋がるのではないでしょうか。おそらくあの修道士は、イエスさまは感情など動かされなかった、笑うこともなければ、悲しむこともなかったと信じていたのではないでしょうか。

神が共にある
 イエスが、貧しい人々、虐げられている人々とふれあうとき、食卓を囲むとき、そこには笑いがあふれていたのではないでしょうか。イエスは周囲の人々と触れ合い、敵対者たちの皮肉的な質問に対して、たくみな皮肉や喩えによって、やり返しています。そのような時、その場には笑いがあったのではないでしょうか。また、今日の箇所に記されているように、イエスは、様々な人の悲しみを共に哀しみ、また喜んだのではないでしょうか。そして、イエスさま自身も、悲しみを持ち、涙を流したのではないしょうか。
 イエス・キリストが泣きもせず、笑いもしない神さまだとしたら、どうでしょうか。わたしたちが絶対的な神の力を求めていたとしても、ここで何事も無かったかのように、イエスが人々の涙に対して、なんら心動かされること無く、神の力を持って、ラザロを甦られせた、としたら。ラザロの兄弟であるマリアやマルタのことに木にかけること無く、泣いている人々に対して、「私は人を甦らせる神の力を持っている」といって、ただ甦られせ、「さあ、神さまを信じなさい」と言ったとしたら。信仰を失うことは無いかも知れませんが、このイエスさまが私たちが信じている神さまなのだろうか、と疑問を持つのでは無いでしょうか。
 イエスは今日の箇所で万能の神の姿を帯びるのでは無く、人としての姿を帯びて涙を流しています。そして、時には笑い、共に肩をたたき合い、弟子たちや周囲にいた人々と同じ時を過ごし、ふれあったと私は感じています。イエスは神の奇跡行為者でありながら、人間を超越した存在でありながら、涙を流します。イエスがここで涙を流したのはある意味、本当に人間であった証明と言えます。人の苦しみ・悲しみに涙すること。とても自然なことです。そんなイエスだからこそ私たちの思い、祈りを聞き入れてくださるように思います。
 そして、神がわたしたちと「共にある」とは、奇跡的な力が私たちと共にあるということではなく、わたしたちの悲しみを聞き、共に喜び、共に涙を流してくださる、ということではないでしょうか。そして、教会にとって大事なことも、神が私たちと共にあるように、教会の中における隣人と共にあること、教会の外にいる隣人たちと共にあることを目指して歩み続けることではないか、と感じています。主なる神がこのときも、そして、これからも、それぞれと共にあって、わたしたちの歩みを導いてくださることを信じたい、と思います。


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