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『律法の垣根を越えた信仰』(ルカ福音書 7:1-10)

2017.04.23(21:26) 344

『律法の垣根を越えた信仰』
(2017/4/23)
ルカによる福音書  7:1~10

ユダヤにおけるローマ帝国軍
 福音書にはどのような異邦人が登場するでしょうか。確認できる人を上げてみたいと思います。シリア・フェニキアの女(Mk7:24-30/Mt15:21-28)、ローマ総督だったピラト、そして、この百人隊長に代表されるローマ帝国の兵士たちであります。ローマ兵という存在。一般のユダヤ人にとっては、もっとも身近な異邦人であったでしょう。そして、ユダヤ人にとって、ローマ兵とは自分たちを支配する存在であります。「暴力装置」という言葉があります。軍隊や基地という存在は、実際に戦闘をしなくても、戦争状態にならなくとも、そこに存在するだけで、圧力を加える、という効果があるわけです。
 そしてある集団や民族を支配している状況の中で、極端に言えば、暴力を行使した瞬間に軍隊がいる意味がなくなるとも言えます。なぜなら、具体的に暴力を加えた瞬間、被支配集団や被支配民族に反乱の名目を与えることになるからです。(ミサイルや空母も一緒)
 ですから、ユダヤ人にとって、ローマ兵とは目の前にある力なのです。おそらく日常的に、武器や防具を身につけていたでしょう。また、そうでなければ、まったく軍隊という意味がないわけです。兵隊がそこにいるだけでユダヤ人たちが反乱を起こさせないようにする効果をもたらすわけであります。また、聖書の中に登場するローマ兵として、今日の箇所にも現れる百人隊長が登場します。文字通り、百人ほどの軍隊の隊長です。
 福音書の中に、豚の大群の霊に取り憑かれた男が登場する箇所があります。そこで、その男は、イエスに対し、「名はレギオン。大勢だから」と答える箇所があります(Mk5:1-20)。そして、霊がその男から追い出されると2000頭の豚が湖に落ちて死んでしまったというお話です。このレギオン、軍隊の単位であり、1レギオンは、百人隊が、60集まった軍隊、つまり6000人ほどの軍団を指す、と言われています。
 そして、おそらくユダヤ属州に、1レギオン、6000人ほどの軍隊がいたと想像することが出来ます。(もしかしたら、2000人ぐらいかも)そして、全体で2000人から6000人とすると、一つの居留地、町に、100人ぐらいが適当ではないでしょうか。そんな、想像をしてみますと、福音書に登場する百人隊長とは、その町の中で、一番偉い存在ではないか、と考えることができます。

ユダヤに好意的な百人隊長
 すると、相当に偉い人であり、一般のユダヤ人にとっては、恐れの対象と言って間違いないでしょう。しかし、ここに登場する百人隊長は、ユダヤ人たちの信頼を勝ち取っていたのでしょう。今日の箇所、ルカによる福音書7章3〜5節をお読みします。
「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」」
 2節で、「百人隊長に重んじられている兵士」と触れられていますが、ただ単に軍隊的に役に立つとかそういう意味ではなく、「かけがえのない」とも訳される言葉で、仕事だけではなく、個人的も繋がりの強かった兵士ということを示しています。つまり、百人隊長にとってかけがえのない友人が死にかかっていました。そして、イエスさまの癒しの力の話を聞き、助けてもらおうと思ったのでしょう。
 そして、この百人隊長はイエスを呼びつけて、高圧的に、治せというやり方をせず、さらに自分で足を運んで頼む、という方法も取らず、ユダヤ人の長老たちを使いにやるという方法をとりました。捉え方によれば、ユダヤ人の中の最も尊敬を集める存在を使いっ走りにするというのは、褒められた行動ではありません。しかし、ある注解書によれば、ユダヤ人たちをただ使い走りに使ったのではなく、ユダヤ人の文化、ユダヤ人が大事にしている風習を大事にするがゆえの行動だったということでした。この百人隊長は、ユダヤ人たちのための会堂、ユダヤ人がユダヤ人の神である主を礼拝するための会堂を建てます。彼は、ユダヤ人たちの信仰心に敬意を払っていただけではなく、とても好意的な感情を抱いていたのでしょう。そのような心から、深い造詣をもって、このように振る舞ったと理解できるのです。

権威に仕える者
 そして、伝言を聞いて、百人隊長の家に向かっていたイエスに対しても、使いをやって、答えとなる伝言を伝えます。7章6節後半から8節の言葉。
「「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」」

 イエスは「これほどの信仰を見たことはない」と言っています。まさにただ神の権威、力に信頼する姿として理想的な態度と言えます。最初に軍隊の話をしましたが、軍隊の存在、軍事力の存在によって、攻撃されないようにすること、「抑止力」という言い方をします。百人隊長は「権威」という言葉を使っています。神の権威を恐れる、ということも、目に見えないものを恐れる、目に見えないものを重んじるということで近い思いと言えます。また、百人隊長はあくまでローマ人であるながら、ユダヤ人の神の存在を重んじている、ということになります。おそらく、ユダヤ人は唯一神信仰ですから、ローマの神々を重んじるということはなかったでしょう。しかし、ローマ人は、多神教ですから、ユダヤ人の神も、いくつか信仰する神の一つとして捉えていた、というように考えることができます。そして、それは同時に、ユダヤ人の価値観や文化を重んじることに通じ、そうしたことから、この百人隊長は、ユダヤ人たちから信頼を得ていたのでしょう。

罪の問題
 そして、この奇跡伝承の一つの特徴について考えてみたい、と思います。それは他の癒やし物語の登場人物が、ユダヤ人であり、このお話が、ローマ人、つまり異邦人であるなら当たり前といえば、当たり前のことです。何か?この奇跡物語には「罪」という要素がまったく出てこないということであります。そして、それは当たり前のことと言えば、当たり前です。福音書の中における罪という概念は、あくまでユダヤ人に関係することであり、百人隊長などの異邦人たちには、まったく関係がないこととして捉えていたのでしょう。
 またこういうことも言えます。ユダヤ人たちにとって、また律法において、善悪の問題、罪の課題は、すべて明文化されたものであり、また神との関係の問題でした。罪がある状態とは、神の教えから離れてしまったこととなります。そして、興味深いことにヘブライ語における罪を指す言葉「ハーター」にしても、ギリシャ語において罪を指す言葉「はまるティア」のどちらも、語源は「的を外す」という言葉なのです。言い換えますと、罪ある状態とは、神に指し示した「的」「道しるべ」を外すこと、神から神の教えから離れることであります。

律法の垣根を越えて
 しかし、異邦人たちは、例外、律法のおける罪とは何の関係もありません。あくまで、「律法」は、ユダヤ人(イスラエルの民)に与えられてものであり、ユダヤ人以外の人が守ろうと守らないとしても、関係ないというのがユダヤ人の考え方です。(関係ある場合は、異邦人からユダヤ教の改宗すること、つまりユダヤ人になること)ですから、イエスも異邦人たちには、「罪」があるとかないとか、といった言葉を述べないわけです。つまり、ユダヤ人、律法における「罪」の課題は、異邦人には、まったく関係がないことであり、百人隊長のようなローマ人「罪が赦された」というのは、まったく的外れな言葉となってしまいます。
 今日の箇所では、「信仰」に基づいて、癒やしが行われています。今日の箇所ルカ福音書7章9節をお読みします。
「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」。
 この言葉、小さな言葉ではありますが、とても大きな意味を持つ言葉と言えます。つまり、イエスが語っている神の御旨、主なる神は、その対象をユダヤ人に限らない、すべての人に対しても、信仰する存在には、恵みを与える神なのだ、ということを示しているのです。「律法の垣根」と言う言葉を、説教題に用いました。この言葉の意味は、正確に言えば、ユダヤ人たちが、律法を守るために、教えの一段階広めに教えを守ろうとする枠のことを指します。
 40回の鞭打ちであったら、39回までにしておくとか、異邦人との食事の禁止や、履き物のチリを払う行為も異邦人的なものを口に入れないようにするための「律法の垣根」と言うことが出来ます。そしてこんなことをしていますと、垣根はどんどん大きくなっていき、それと共に、人はどんどん生きにくくなってしまう。誰も彼も罪人になってしまう、ということが起きてしまいます。しかし、イエスは、そうした垣根を取り払おうとしたのではないでしょうか。そうした垣根を小さくしていき、ユダヤ人のみならず、あらゆる人々を神の支配、神の国に招いておられた、ということが言えるのではないでしょうか。

あらゆる垣根を越えて
 ルカ福音書にも、他の福音書にも、もう一人、ローマ帝国の百人隊長が登場し、イエスに対して、信仰を告白をしております。それはイエスさまが十字架に架けられ、絶命したとき、命を落としたときのことです。ルカによる福音書23章44節から47節をお読みします。(P.159)
「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。」
 マルコでは、「正しい人」ではなく、「神の子であった」となっています。この百人隊長が、イエスさまの処刑の作業を取り仕切った者ですが、「正しい人だった」また「本当に、この人は神の子だった」というのは、神の子であることを受け入れていて、このような発言を述べています。
 この百人隊長の態度にしても、今日のルカ福音書において、自分の大切な友人ともいえる部下を癒してもらった百人隊長にしても、異邦人でありながら、ローマ帝国の兵士でありながらも、イエスを神として受け入れて、そのことを違う形で告白している、と言えます。そして、共通点は、その内心、心の中については、まったく計ることが出来ませんが、二人の百人隊長も、言葉を発するだけで、その信仰を大きく評価されている、という点です。
 この百人隊長の信仰から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。常に新しい気持ちの信仰、そして常に神の前に無力な自分として立つ勇気ではないか、と思います。経験にしても、知識にしても、わたしたちは鎧のように、自分を着飾ろうとする、よく見せようとします。しかし、そうした姿が、人と差を付けることであり、ユダヤ人であれば律法で人を裁くことに繋がるのではないでしょうか。だからこそ、イエスはユダヤ人ではない、この異邦人である百人隊長の権威に対して、忠実な、純粋な信仰を重んじたのではないでしょうか。わたしたちも常に力を求め、外側を着飾ることを求めがちです。イエスの態度、また百人隊長の有り様から、信仰者としてどうあるべきか、という問いを忘れない存在でありたい、と思います。

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