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『復活への恐怖』(マタイ福音書28:1〜10)

2017.04.16(22:43) 343

『復活への恐怖』
(2017/4/16)
マタイによる福音書28:1~10

イースターの最近
 イースターはキリスト教会においては、理屈の上では、最大のお祭りである、とされる日であります。しかし、どちらかといえば、クリスマスの方が祝い事としては、大きな感じ、盛大な感じがしないでしょうか。それはただ単に、教会の中だけではなく、世の中の雰囲気の違いが影響しているでしょう。が、しかし、今年のイースターは何か、違う雰囲気を感じないでしょうか。
 というのは、大手スーパーや百貨店などでも、「イースター」として広告を打ったり、飾り付けをしていたりしているからです。私も先日、あるスーパーで買い物をしていたとき、印象的なコピー(宣伝文句)が聞こえてきました。だいたい、このようなものでした。
「「イースターおめでとう」雰囲気の曲をバックに、イースターの説明が始まった。
「春分の日の後の最初の満月から数えて、最初の日曜日」フムフム…。
「欧米ではこの時に、卵探しをしたり、ゆで卵などの卵料理を食べてお祝いします」フム…。
「春をお祝いする意味も込められていて、最近、日本でも拡がってきています♪」…ン?!」

 それだけでした。イエス様とか復活とかのみならず、キリスト教にも触れられず、イースターの宣伝のみです。どう、お感じになるでしょうか。で、これを私は、最近、いわゆるSNS、インターネットの世界で、書いてみたんです。一つは、Twitterで、そうしますと、いくつかのリツィートを得ました。そして、Facebookでも書いてみました。すると、「いいね!」という反応と同時に、具体的な意見やそれぞれの過去の行動などを紹介し合うこととなっていきました。
 しかし、私などは、イースターの意味がどうこうということは関係なく、興味がある人が自分で調べて、キリスト教のお祭りで、イエスが復活したことを記念した祭りなんだ、とか、さらに受難週というものがあるんだ、と自分で発見してくれたら、それはそれで良いのではないか、と。また、こんな想像もしていました。もしかしたら、イースターのキリスト教的な意味を言わないようになったのは、「特定の宗教の宣伝をして良いのか」と行った類いのクレームが入ったのではないだろうか、ということです。例えば、どうでしょうか。日本において、キリスト教はあくまで少数派の宗教ですが、多数派だったら、クレームは認められないだろうか、とか、イスラムだったらどうだろうか、他のまったく違う宗教を宣伝で、かなり問題がある類いの宗教や教えを持つものだったら、自分はどのような対応を取るだろうか、ということでした。そして、そうした言葉や意見の受け入れ方は、日本における宗教の自由度、信教の自由とどのような関係かなあ、とかいうことを考えてみました。
 そんなことを考えたのですが、振り返ってみて、キリスト教におけるイースターの意味とは何か、ということも、一言ではいかないのではないだろうか。いろいろな受け取り方、また理解度の違い、時系列的な変化もあるのではないか、ということを、今日は考えてみたい、と思います。

恐怖の一段階—弟子たちの行動—
 イースターはイエスの受難、十字架への道と別に考えることは出来ません。エルサレムへと上っていったイエスと弟子たち、弟子たちはイエスがエルサレムへ向かっていくことは、彼が玉座に座ることになると考えていました。それは、イエスが彼等にとって、メシア、油注がれた者であるという確信、期待、ある種の信仰に基づいたものでした。そして、そんな弟子たちやイエスを支持する群衆の思いの頂点がエルサレム入城の場面でした。
 しかし、弟子たちや群衆の期待は、あっという間に裏切られます。受難週という一週間の中で、エルサレム入場から十字架の時、弟子たちとすれば、天から地に突き落とされたような思いであったでしょう。群衆たちは、どうでしたでしょうか?彼らは、ある意味、イエスが神もメシアであるとか、キリスト(救い主)であるとか、どちらでも良かったのかもしれません。イエスが逮捕された後の裁判の場面、イエスかバラバか、という選択では自分たちの思いを裏切ったイエスを死刑にしろと叫び、エルサレム入城の場面での喜びの歓声、十字架への道の中では、イエスへの罵声へと変わりました。
 弟子たちはどうでしたでしょうか、イエスがゲッセマネで逮捕された時、ユダは裏切っており、十二弟子たちは皆、逃げ出してしまっていました。十字架刑の前夜、ペトロだけは、民衆に紛れて、イエスの近くにいようとしたのでしょうが、イエスの仲間ではないか、と疑われて、逃げ出します。そして、イエスは裁判にかけられ、十字架を背負わされて、ゴルゴダの丘への道を歩み、十字架上の死を遂げます。おそらく、そのような状況ですから、十二弟子たち男の弟子たちは、どこかに逃げていったか、隠れていたと考えられ、誰もイエスの十字架を見ることはなかったでしょう。そして、イエスの死後も、自分たちの危険を感じながら姿を隠し、イエスを裏切ってしまった後悔にさいなまれながら、この後、自分たちがどのような身の振り方をするのか、どのような道を歩んでいくのか、を考えていたでしょう。
 今日の箇所、マタイ福音書28章1節にはこのように記されています。
「28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」
 12弟子の誰でもなく、女性の弟子ともいえる「マグダラのマリアたち」女性だったのか。その理由をいろいろ想像することが出来ます。わたしが思うことは、男性の弟子たち、イエスに出会うことに対して、2重の恐れ、2つの恐れを持っていたのではないか、ということです。一つ目の恐れは、自分たちもイエスと同じように逮捕され、十字架にかけられてしまうのではないか、という恐れです。

恐怖の二段階 —イエスとの再会—
 そして、もう一つのイエスとの再会を恐れる理由。それはイエスとの出会い、そのものに対する恐れ、イエスを裏切ってしまったこと、また逮捕されることを恐れ、逃げ出してしまったことから生まれるイエスに対する後ろめたさ、恐怖からではないか、と感じるのです。マルコ福音書には、復活伝承かと思われるイエスと弟子たちの再会の場面を描く箇所が納められております。マルコによる福音書6章48節49節。(P.73)
「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」
 とても不思議な伝承、記述であり、この箇所に納められておりますが、実は空の墓の後、ガリラヤに行った弟子たちと復活したイエスのガリラヤにおける復活伝承であったのではないか、と考えられることのできる箇所です。なぜなら、イエスが亡くなっているという前提がなければ「幽霊だ」という叫びにはならないのではないでしょうか。そして、その死に対する後ろめたさが、弟子たちを恐怖させたのではないでしょうか。
 どうでしょうか。普通に考えて、自分をイエスのような導き手に従う弟子として考えてみてください。そして、その導き手である人が逮捕される場面、自分たちは逃げ出していってしまう。その前夜に、「たとえ、死ぬようなことがあっても裏切りません」と言っておきながら、逃げ出してしまったわけです。そして、裁判の場面、十字架への道の場面、十字架に掛かってしまってから、たとえ、助けることは出来なかったとしても、せめて顔を見るようなことぐらいは出来たかもしれません。でも、それも出来なかった。そして、そんな裏切りをしてしまった導き手、イエスが復活したという、どんな顔で再会すれば良いのでしょうか。

赦しとしての再会
 マタイ福音書28章7節をお読みします。
「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
 実は、この言葉、弟子たちが歩んだ道、原始教会が歩んだ歩みとは異なっています。教会の歴史は、ルカ福音書そして使徒言行録に記されていますように、エルサレムにおいて始まりました。ですから、「イエスにはガリラヤに会える」という言葉というのは、間違いではないか、と考えられるのです。そして、実際にガリラヤへ行けということではなく、イエスと弟子たちが歩んだ、ガリラヤからエルサレムへの道、イエスが共に歩み、イエスが教えを語り、イエスが様々な人を癒やし、イエスと共に様々な人々と触れ合ったあの旅の日々に立ち返りなさい、という指針、導きではないかという捉え方があります。
 今日の箇所には記されていませんが、イエスはペトロや他の弟子たちと一度ではなく、何度かにわけて、同時にではなく、再会を果たします。ここには、彼等がそれぞれどのような思いをもって、イエスと再会したのかが記されています。喜びに満ちたものであったとは、思われます。しかし、その恐れの記憶というのは、徐々に徐々に、喜びの記憶へと変わっていったのではないか、と思うのです。

希望の徴としての復活
 最初にイースターのキリスト教的な意味が伝えられない、という話をしました。イースターというのに、キリスト教やイエスとその復活に触れないスーパーの説明。しかし、キリスト教においても、ただ復活を喜ぶだけで、主なる神の愛の思い、御旨に触れたことになるのか、と言えば、そうではないでしょう。受難週、人の罪を背負って十字架への道を歩んだイエスの歩み、そうしたことを触れなければ、復活、イースターの意義を知ることにならないと言えます。しかし、最初はちょっとした切欠でも私は良いのではないか、と思うのです。なんかしらの興味を持って教会へ足を運んでくださるとか、聖書を開くことに繋がるかもしれないからです。また、私たちキリスト者の思いも時によって、そのイースターの年に置かれている自らの状況によって、受け取り方はずいぶん変わるのではないでしょうか。
 マタイ福音書28章10節をお読みします。
「28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」」
 イエスは、「恐れることはない」とおっしゃっています。おそらく多くの人の歩みは、だいたいの予想がつく道を歩むものではないでしょうか。ガリラヤへの促しは、もう一度新しい旅を始めようという勧めです。弟子たちにとってもは、二つの恐怖、恐れがあったと思います。一つは、イエスと再会することへ恐怖、そして、もう一つは、イエスがいないという状況の中で、キリストの群れであるエクレシア、教会を率いていかなければならないという責任に対する恐怖です。
 弟子たちにとっては、一度目の旅は、イエスと共になる旅でありました。しかし、二度目の旅はどうでしょうか。二度目の旅は、弟子たちが、使徒たちが、イエスがいない状況の中において、イエス、キリストが示した福音を実践する群れを率いて、歩んでいく旅でありました。そして、不安がありながらも、経験もしなかった歩みでありながらも、イエスが共にあることを信じて、歩んでいったのではないでしょうか。
 イースターという出来事は、弟子たちがイエス・キリストがいないながらも力強く、福音の担い手として歩み出したことを記念する時と言えます。そして、そのような歩みを歩むことがイエスを裏切ってしまったという受難週の後悔を乗り越える作業となったのではないでしょうか。そして同時に、イエスの復活という出来事を信じること、イエスが共にいるということを信じることに繋がるのではないでしょうか。「イエスが共にいる」ことは、キリスト者にとって常に希望であります。そうした意味で、イースターは私たちの希望なのです。イースターには希望の意味があること、イエスが共にいるという意味があることを、今日、改めて心に刻み、新しい歩みを歩み出しましょう。

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