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『自分の十字架を背負って』(マルコ福音書8:34〜9:1)

2017.04.09(18:29) 342

『自分の十字架を背負って』
(2017/4/9)
マルコによる福音書 8章34~9章1節

十字架とは何か
 十字架とは何なのか?キリスト教において、十字架とは、キリスト教そのものを現すシンボル、象徴であります。教会の中に飾られるものであり、プロテスタント教会においては、とてもシンプルな形のものであり、教派によって多少の違い、特徴はありますが、大きな違いがあるわけではありません。また、カトリック教会などでは、十字架だけではなく、イエスの像が刻まれている、ついている十字架がありますが、そうした違いから、こんな冗談が言われます。プロテスタント教会においては、イエスは復活しているけれども、カトリック教会では、イエス様は、まだ十字架上で苦しんでおられる、といったものです。
 また以前までは、カトリック教会における十字架のイエスは、苦しんでいる姿が多かったそうです。が、最近は、会衆を向かい入れるような、招くようなものが多くなってきたそうです。こうした違いも神学的な違いの現れ、十字架に対する考え方の変化の現れということができます。以前は、イエスの磔刑における贖罪、イエスの死、イエスの血によって、人々の罪が赦された、というところに強調点が置かれていたのではないか、と思います。それが最近は、神の招き、イエスの招きに強調点が変わってきた、ということの一つの現れではないか、と思われます。

「救い」なのか「痛み」なのか
 また、十字架とは何か、ということを聖書の記述の中で考えてみます。福音書とパウロにおいては、すでに違いがあります。今日の箇所において、十字架とはあくまで処刑の道具であり、イエスがゴルゴダの丘まで自らの命を奪う道具を背負って歩んだことが前提として記されています。マルコ福音書8章34節35節。
「8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
 この言葉を読んだキリスト者は、おそらくこのように受け取るのではないでしょうか。信仰を持って歩むという選択、生き方は、何らかの覚悟が必要である、そして、イエスが十字架を背負ったように、信仰を持つとは重い十字架を背負うことになるかもしれない決断が必要だ、といった捉え方です。だいたいがこのような捉え方をしているのでしょうか。基本的に、十字架とは処刑の道具なのですから、そうした重さが込められているのは、当然のことと言えるでしょう。
 しかし、時の流れと共に、その捉え方も変化していきます。十字架が処刑の道具ではなく、神の愛を示すものとして、変化してきたということです。そしてパウロは、十字架のもつ二面性(「救い」と「死」)が込められているような言葉があります。第一コリント1章18節です。(P.300)
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
またこんな言葉もあります。同じく第一コリント1章22節から24節。(P.300)
「(1:22) ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、(1:23) わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 (1:24) ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」
 パウロにおいては、十字架とは両義的なものという意識があります。そして同時に自らも「十字架につけられている」(G2:19)、とか「キリストを着ている」(G3:27)という表現もあり、十字架にかけられているイエスと自らを同一視している様子が見えてきます。

十字架の始まり〜佐藤研との指摘から〜
 また、話は変わりますが、ギリシア語の十字架を言葉、「スタウロス」を、十字架と翻訳するのは間違いではないか、という指摘もあります。佐藤研さんという聖書学者の方がおられます。その方が十字架を現す言葉「スタウロス」は、もともと「杭」という意味しか無かったのではないか、ということをおっしゃっています。『聖書を読む〜新約編〜』に納められている論文なのですが、このような記述があります。
「(十字架とは)「罪人の苦痛をできるだけサディスティックに長引かせる」残酷きわまりない処刑法/「ローマ帝国では重罪を犯した奴隷か、(ローマ人ではない)属州の反逆者に対してのみ執行された」/「美しいものには金輪際なりえない劣悪邪悪なもの」/さらに、イエスの時代、「十字」の形をしたstaurosは極めて希であったらしく(多くはT字またはただの柱だった)」
 そして、「杭殺刑」「杭殺柱」という訳語を提案しています。
 現代において、十字架というマーク、シンボルは、キリスト教のみならず、アクセサリーなどとしても、利用されているシンボルであり、これを変えることなど不可能であるでしょう。また、たしかにこの十字架、最初からキリスト教のシンボル、象徴として用いられていたわけではないのです。4世紀ぐらいから象徴として、重んじられるようになったそうで、それ以前はあまり重要視されていなかったそうです。
 たしかに単純に考えて、処刑の道具としては、十字架に日本の木材を綺麗に十字に組み合わせるのは、とても大変で、手間のかかる作業です。たしかに、本当は、1本の杭もしくは、一本の杭の上に横に角材もしくは丸太などの端を細くし、もう一方に、穴を開ける、ホゾを切るなどして組み合わせた「T字」型のものではないか、という説の方が、説得的であります。
 また伝説上、紀元2世紀を生きたローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世という人がいます。彼はローマ皇帝最初のクリスチャンとして知られています。それ以前、ローマ帝国の皇帝という存在は、キリスト教を迫害することはありましたが、キリスト者になるとは考えられなかったでしょう。しかし、彼はある戦争に向かう途中、十字架とギリシア語の「X」と「P」の幻を見、この徴を掲げれば戦争に勝てるという神意を経て、戦争にも勝ちました。それからローマ帝国の兵隊の盾には、十字架が刻まれることになったそうです。

『沈黙』から
 佐藤研さんの指摘、そしてコンスタンティヌス帝の十字架に関する伝説、これらのことから、十字架を指すギリシア語「スタウロス」は、もともと「杭」とか「木の棒」といった意味しかなかったという可能性が出てきます。また、今日の箇所において、弟子たちは、イエスが十字架刑、高殺刑によって最後「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という言葉を聞いたとき、純粋に処刑の道具として、イエスの言葉を聞いたはずです。どういったようにこの言葉を受け取ったのでしょうか。そしてそんなことを考える上で、2つの映画の話をしたいと思います。
 一つは、『最後の誘惑』という作品、もう一つは遠藤周作原作で今年の1月に封切られました『沈黙』であります。どちらも、マーティン・スコセッシ監督の作品です。20年以上前の作品である『最後の誘惑』は、当時のキリスト教界において大問題になった映画でした。ちなみに、問題になったというのは、イエスが十字架上においてサタンの誘惑に陥ってしまったという点でした。そこが言いたいのではなくて、わたしが興味をもったのは、その中に現れたイエスは大工として働いているのですが、最初の方で、処刑の道具である杭、スタウロス、つまり十字架を作る役割としている、という描写がありました。可能性は低いと思いますが、一つ感じたのは、イエスと弟子たちが「十字架」または「スタウロス」に関して、何らかの共通した記憶を持っていたとしたら、わたしたちには分からない意味があったことになります。
 また、もう一つの『沈黙』では、17世紀、江戸時代の長崎においてポルトガルから渡ってきた宣教師が主人公の映画ですが、その中で、日本のキリスト者、キリシタンが海の中に立てられた十字架にくくりつけられ、処刑されるという場面があります。その場面、原作からお読みしたいと思います。
「…十字架に組んだ二本の木が、波打ちぎわに立てられました。イチゾウとモキチはそれにくくりつけられるのです。夜になり、潮が満ちてくれば二人の体は顎のあたりまで海につかるでしょう。そして二人はすぐには絶命せず二日も三日もかかって肉体も心も疲れ果てて息を引き取らねばならないのです。…」
「…引き潮になったあと、二人の括られた杭だけがはるかにぽつんと突ったっていました。もう杭と人間との区別もつかない。まるでモキチもイチゾウも杭にへばりついて杭そのものになってしまったようでした。ただ、彼等が生きているということは、モキチらしい暗い呻き声が聞こえてくるからわかりました。」
…午後、ふたたび潮が少しずつ張りつめ、海がその黒い冷たい色を増し、杭はその中に沈んでいくようにみえます。白く泡だった波が時々、それを越えて浜辺に打ち寄せ、一羽の鳥がすれすれに海をかすめ、遠くに飛び去っていきました。これですべてが終わったのです。…」
「殉教でした。しかし何という殉教でしょう。私は長い間、聖人伝に書かれたような殉教を…たとえばその人たちの魂が天に帰る時、空に栄光の光がみち、天使が喇叭(らっぱ)を吹くような輝かしい殉教を夢みすぎました。だが、今、あなたにこうして報告している日本信徒の殉教はそのような輝かしいものではなく、こんなにみじめで、こんなに辛いものだったのです。ああ、雨は小やみなく海に降りつづく。そして、海は彼等を殺したあと、ただ不気味に押し黙っている。」

自分の十字架を背負う
 今日の箇所において、弟子たちはイエスの言葉をどのように聞いたでしょうか。おそらくは、その意味、真意を知ることは出来なかったでしょう。この箇所はイエスの最初の受難予告の後の箇所にあたります。最初の受難予告、8章31節の「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」との予告に対して、ペトロは「そんなことは言わないでくれ」とイエスをいさめ、イエスがそのペトロを「サタンよ、引き下がれ」(8:33)と怒った後の箇所に当たります。
 しかし、イエスが十字架への道を歩み、磔刑の死を遂げ、復活し、教会の歩みが始まってから、その真意を知ることになったのではないでしょうか。その時、弟子たちは、十字架という言葉、スタウロスという言葉にどのような思いを持ったでしょうか。おそらく、救いとか痛みとか、というものではなく、十字架という存在にイエスという存在のすべてを見たのではないでしょうか。
 イエスの磔刑、イエスが貼り付けられた姿を十二弟子たちが見たとは、とても思えません。なぜなら、そのような場に居合わせたら、自らも処刑されてしまったに違いないからです。そうした意味で言えば、弟子たちはせめて、イエスが杭、十字架を背負ってゴルゴダへの道を歩んだ姿を見るのがやっとだったでしょう。また、そのイエスの最後の姿を、その場に居合わすことが出来た女性の弟子を中心とした他の弟子たちから、聞いたのではないでしょうか。その時、イエスの言葉を思い出した。また、それから先においても、様々な状況において、十字架、杭を背負ったイエスの姿を思い起こしたのではないでしょうか。
 弟子たちは、当然、逃げてしまった申し訳なさ、裏切りへの後悔も持って十字架を思ったでしょう。しかし同時に、キリスト教会の営み、交わりの指導者として、歩んでいくことは、彼らの癒やしとなったのではないでしょうか。イエスの担った十字架を自らの十字架として歩んでいくこと、背負っていくことは、彼らがイエスと共に歩むことが出来なかった、その先の道を歩むことによって実現されたと感じたのではないでしょうか。
 今週は、受難週、来週は、イエスの復活を祝うイースターです。イエスが主なる神の支配の実現のために歩んだ道、十字架への道は、途切れてしまいました。しかし、教会の歩は、その道をつなげる歩みではないか、と感じています。この週、イエスの歩み、イエスと共に歩んだ十二弟子たちの歩みに思いを寄せ、歩んでいきたいと思います。


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