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「モーセとエリヤ、そしてイエス」(マタイ福音書 17:1~13)

2017.03.26(17:04) 341

『モーセとエリヤ、そしてイエス』
(2017/3/26)
マタイによる福音書 17章 1~13節

イエスは○○である
 福音書は、イエスがどのようなことを行ったのか、どのような教えを述べたのか、どのような歩みを歩んで十字架への道を歩んだのか、を記しています。そして、イエス自身が、何者であるのか、どのような存在であるのか、を記している文書であります。イエスは、キリスト(救い主)であり、メシアであり、神の子であり、ダビデの子であります。これらの言葉は、「イエスは○○である」という形で、なされます。しかし、これらの言葉は、イエスに基づく場合もありますが、人の言葉を通じて、弟子たちは一般の人を通じての言葉であります。信仰の告白、疑問に対する答え、宣言などの形になりますが、それらはすべて人の言葉であります。ですから、間違っている場合もある、確認が取れないわけです。それにくらべて、今日の箇所の言葉は、神によって、そのことが述べられている。その点において、特別な箇所ということができます。
 マタイ福音書17章5節をお読みします。
「17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。」
 そして実は、神がこの言葉を語ったのは、マタイ福音書において、二度目になります。そして一度目は、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受ける場面です。(マタイ3:16-17)
 今日の場面、モーセとエリヤという預言者が現れ、神の声が聞こえ、イエスが天に浮いた、というのですから、とても神秘的な場面ということができます。そして、こうした場面のことを、聖書学の世界では、神顕現の場面と言います。そして、その現れ方、現象によって、どのような性格を持つ神なのか、ということが示されています。そして今日は、なぜ、モーセとエリヤなのか、ということを考えてみたい、と思います。

ユダヤ教の立場から
 今日の箇所でイエスと共に、二人の預言者が現れました。一人はモーセ、一人はエリヤであります。「何故、この二人なのか?」という問いがあります。例えば、マタイ福音書などでは、ダビデから始まる系図から福音書は始まりますから、「イエスはメシアであったダビデの血を引く者」で「イエスもメシアである」という面が強調されていると思われます。ですから、ダビデでも良いではないのかなあ、と思うのですが、ダビデはありません。なぜダビデではないのか。推察するに、王というのは、あくまで人の側の立場にたつ存在で神の側には立っていない、ということではなかろうか、と思います。その上で、なぜ、モーセとエリヤだったのか、私としてヒントになるのは、ユダヤ教的な聖書(旧約聖書)の捉え方ではないか、と考えています。
 キリスト教的な立場で言えば、新約聖書と旧約聖書があり、新約聖書はイエスによって示された新しい契約を著すもの、旧約聖書は古い契約を著すものとして捉えられています。しかし、ユダヤ教にとっては、旧約聖書(聖書)しかないわけですから、「古い」と呼ぶことはありません。また、そうしたユダヤ教的な立場から考えてみますと、キリスト教の側が、一方的に「古い」と呼ぶことは、とても失礼な話ではないか、と聖書学者などの間では、それぞれユダヤ教聖書、ギリシア語聖書と呼ぶべきである、という意見もあります。
 そのような議論があるのですが、ユダヤ教では、ヘブライ語聖書のことを、「タナハ」と呼びます。これは、三つの頭文字をとった呼び方であります。「タ」というのは、「トーラー」(律法)で、モーセ五書〔創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記〕、を指します。そして2番目の「ナ」は、「ネイビーム」(預言)〔ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記/三大預言者+十二小預言者〕、そして、3番目の「ハ」は、「ケトゥビーム」(諸書)〔それ以外〕であります。そして、価値としては、1番目、2番目、3番目の順序、モーセ五書、預言、諸書の順序で重んじられています。モーセ五書に一番の価値があり、それらの補助する役割として、他の文書がある、という捉え方です。
 キリスト教ではどうでしょうか?ユダヤ教聖書(旧約聖書)のみの話ですが、おそらく多くの人が、旧約聖書というものは、歴史の順序に従って、時系列によって、まとめられている、と捉えていると思われます。そして、その現れとしてユダヤ教のヘブライ語聖書とキリスト教の旧約聖書では順序が微妙に違います。

モーセとエリヤという存在から
 モーセは、キリスト教的には言えば、十戒そして律法を受け取った存在です。また、旧約聖書の最初の五書が、「モーセ五書」と呼ばれているのは、最初の五書が、モーセによって記された、と考えられているからです。しかし、モーセ五書の最後の最後、申命記の最後には、モーセ自身が亡くなった場面が記されているのですが、そのようにユダヤ教の伝統の中では、捉えられており、最初の預言者であり、最大の預言者として捉えられているのです。
 エリヤはなかなか日本のキリスト者の中にも割と使われることの多い有名な預言者の一人です。そして、なぜそれほど知られているか、と言えば、イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネがその生まれ変わり、再来と捉えられているからです。そして、その根拠となっているのは、エリヤはその最後に死んではおらず、天に昇っていったと記されていること(列王記下2:1-14)、そして、もう一つ、旧約聖書の最後にあるマラキ書という文書で、エリヤが天から降りてくると預言されていることに基づいています(Ml3:1-3/19-24)。

エリヤとイエスの近さと歴史意識
 またエリヤとイエスではいくつか似ている点があります。一つは、「時の権力者から命を狙われていること」です。エリヤが活動した時代、間違った政治を行っていた王に対して、預言者は「あなた達の言葉と行動は間違っている」「神の意志はこうだ」と声を上げているわけです。しかし、力は王の方が当然強い、そして預言者たちの多くは無力であり、命を狙われたりする状況におかれたりもします。そして、そのようなエリヤの再来を望むということは、ユダヤ人社会において、いつの時代においても、変化を望む人々の信仰、希望となっていきました。
 今日の箇所、マタイ福音書17章10節には、イエスに対して、ある質問がなされています。
「17:10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。」
 これも、ただ単に預言の実現を待っているのではなく、期待している、イエスの時代において、ローマ帝国に支配されている状況を変えて欲しい、ヘロデ大王などユダヤ人でありながらもローマの支配を善しとしてユダヤ人の伝統を大切にしようとしない、支配層を変えて欲しい、と言った思いが込められていると考えられるのです。

イエスとは何者なのか
 最後に、モーセとエリヤ、そしてイエスという流れからこの箇所を捉えてみたいと思います。イエスの敵対者であったファリサイ派の人々から見たら、実は、彼らとしては、モーセとエリヤというのは、最高の選択肢だったのではないかなあ、と思うのです。自分たちこそ、モーセとエリヤの正しい伝承者であるという実感があったでしょう。しかし、律法学者やサドカイ派(祭司階級)の人々は、違ったはずです。モーセ、モーセ五書の権威は認めていたはずなので、モーセまでは納得できるでしょう。しかし、エリヤという人は、時の王たちと対立した預言者です。そして、律法学者にしても、サドカイ派にしても、新しい預言者という存在を認めませんでした。ですから、エリヤということは受け入れなかったでしょう。
 そして、宗教は変わってしまいますが、イスラム(教)ですとどうなるか。イスラムにおいて、ユダヤ教聖書は、第二正典とも言える文書であり、モーセもエリヤ、そしてイエスも預言者としての地位を与えられています。イスラムにとって、聖書に登場する特別な存在と言えば、アブラハムになります。なぜならイスラムの人々にとって、アブラハムは自らの神の信仰の始祖であります。さらにアブラハムの子、イシュマエルを自らの民族の始まりとしていることも影響しているでしょう。そして、イスラムにおいて、信仰を告白する言葉というのは、キリスト教のように長くなく、議論も生まれないのではないか、と思うほどシンプル、単純で二つのことを宣言するだけです。
「アッラーフ(神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。」
 この宣言の説明を読んでみますと、前半の神の部分は、ユダヤ教、キリスト教が共有している唯一の神への信仰の宣言です。そして、後半は、ムハンマドのみが、使徒(神の使い)ということではなく、最後の預言者、使徒ということを指している、ということでした。キリスト教やユダヤ教に対して言うなれば、同じ神さまを信じているけど、捉え方が違うのよ、アブラハム、モーセ、エリヤ、イエスもいるけれど、ムハンマドが最後で最高の預言者だからね、という考え方なのです。

そしてイエス
 キリスト教にとって、イエス・キリストは絶対の存在であります。しかし、モーセとエリヤは絶対に必要か言えば、そうでもないとも言えるでしょう。ペトロの言葉として、それぞれに「仮小屋を建てます」という言葉があります。これは、モーセが奴隷状態にあったユダヤ人を主なる神の力によってエジプトを脱出したとき、昼間は雲の柱として、夜は火の柱となった神に従って歩んだ出エジプトの歴史を思ってのことでしょう。
 しかし最後に、私の最大の疑問を、ここで披露したいと思います。それは、ペトロや他の弟子たち、モーセとエリヤのことをなぜ一目見て、分かったのだろうなあ、という疑問です。写真もない時代、さらに絵画(肖像画)などもない時代、ユダヤ教においては、絵を描くことさえも禁じられていた時代、一目見て、「モーセだ、エリヤだ」とはいかないはずなのです。しかし、モーセとエリヤを見たというのは、それ以外には考えられなかった弟子たちの思いがあったということが出来るのではないでしょうか。
 聖書の記述を読むとき、主なる神の関する事実、イエス・キリストに関する事実を知ることも重要ですが、そうさせた人の信仰の姿を受け取ることも重要なのではないでしょうか。エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちを導きだし、十戒を中心とした律法を託されたモーセ、そして、神の思いから離れてしまったユダヤ民族、王を正しい道へと導こうとし、命を狙われながらも、神の言葉を預かる預言者としての道を歩んだエリヤ。イエスを中心として、2人の人が現れたとき、それ以外の人は思い浮かばなかったのでしょう。
 そんな歩みをイエスは歩んでいた、そして弟子たちもそんなイエスだからこそ、従ってきたということが言えるのではないでしょうか。受難節の時です。十字架への道を歩むイエスの姿を思い、歩んでいきたいと思います。

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