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『内面における黄金律』(ルカ福音書 6:37~42)

2017.03.20(14:30) 340

『内面における黄金律』
(2017/3/19)
ルカによる福音書 6章37~42節

イエスの黄金律の特徴
 今日の説教題、「黄金律」という言葉が含まれています。そして、キリスト教的には、イエスが語ったルカによる福音書6章31節の言葉、「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」が黄金律として知られている言葉であります。しかし、ただ単に黄金律といっても、イエスの言葉だけのことではない捉え方もあります。古くは紀元前20世紀のエジプトにも見いだされ、他の宗教や文化、またイエス以前のユダヤ人、聖書の中にも、黄金律は存在していました。いくつか紹介します。(Wikipediaより)
 続編(第二正典)に含まれているトビト書4:15にはこのような言葉があります。
「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」
 また、ユダヤ教のラビの言葉にも現れます。ファリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉。
「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」
 そして、他の宗教や文化でもあります。ヒンドゥー教の教え。(『マハーバーラタ』)
「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」
 イスラム(教)におけるムハンマドの言葉。(「ムハンマド遺言」)
「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」
 さらに孔子の論語にも存在します。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」
 イエスの言葉を含めて、これらすべて、黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれている教え、指針です。インターネット上の辞書、Wikipediaには、このように記されています。
「(おうごんりつ、英: Golden Rule)は、多くの宗教、道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明である。現代の欧米において「黄金律」という時、一般にイエス・キリストの「為せ」という能動的なルールを指す。」
 後半に記されていることですが、イエスの言葉以外の他の黄金律は、「〜するな」という形、否定的な形になっています。そしてイエスの言葉のみが、能動的な形(なせ)という形になっています。しかし、この違いは小さなものではなく、とても大きなことではないでしょうか。

黄金律の捉え方
 「自分がしてもらいたくないことは、他者にもするな」という否定形における黄金律。たしかに、そのこと自体は、とても納得できることであります。良いことと悪いこと、いわゆる倫理観というものは、様々な文化や風土などに影響に受けます。しかし、人と人の間のことですから、「自分がしてもらいたくないこと」を基本とすれば、事細かな法律なども必要なく、ある程度の考え方や文化の違いなどがあっても、共有できるルールとなるということがあります。そして、そのルールを破ってしまった罰として、有名なハンムラビ法典にもある「目には目を、歯には歯を」があって、その精神として、人に何らかの危害を加えたら、加害者にその危害と同等の罰を与えることができるというもの、黄金律に基づいた考え方ということが出来るのではないでしょうか。
 しかし、イエスの言葉でもある、「自分にしてもらいたいことを、人にもしなさい」という肯定形における黄金律というのは、そんなに単純な話にはならないのではないでしょうか。イエスの語った黄金律は、「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」(ルカ6:31)です。「人にしてもらいたいこと」とは、自分の価値観です。そして、一つの問いが出て来るわけです。ただ単に、自分の価値観だけで人にしてもらいたいことをやっていて、人に喜ばれるだろうか、ということです。自分の価値観でしてもらいたいことが、本当に自分ではない人、隣人にとってもしてもらいたいことなのだろうか、という問題です。「余計なお世話」とか「人に関わりたくない」とか感じる人がいるだろう。と、考えてしまうと、こうしたことをした方が良いだろうなあ、と思っても、迷惑がられたら、嫌がられたら、どうしよう、という気持ちから体が動かない、ということもあるでしょう。そんな風に考えてみますと、否定形の黄金律と肯定形の黄金律における違いは、小さくない、ということが見えてきます。

神の倫理と愛敵の教え
 そんな特徴を持つイエスが語った「肯定形の黄金律」。その言葉が持つ課題の大きさからなのか、イエスを信仰する人々、弟子たち、孫弟子たちなどの様々な伝承課程を経て、様々な捉え方がされてきたことが、マタイとルカの記述から知ることが出来ます。マタイ福音書7章9節から12節。(P.11)
「7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
 マタイにおいて、イエスの黄金律は、神の教える倫理として、キリスト者が実現すべき倫理として、捉えられています。更に、そのことは、黄金律の直後に「律法と預言者である」という言葉があること、これは旧約聖書全体のことを指す言葉であり、黄金律ひとつで(旧約)聖書全体に値する価値があるといっているのです。
 そして、ルカ福音書においては違う捉え方がされています。ルカ福音書6章27節から31節(P.113)
「6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
 ルカにおいては、愛敵の教えの実現として捉えられています。マタイが聖書全体をさすような重さとは少し違いますが、愛敵の教え自体、かなり広く理解できる教えですので、とても重んじられていると言えます。

黄金律をなす主体として
 前置きとして、長々とイエスが語った黄金律とその捉え方について触れてきました。今日の箇所は、イエスの黄金律が含まれていたルカにおける「愛敵の教え」に続く箇所であります。ルカ福音書6章37節をお読みします。
「「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」
 続く38節にも赦しに関する勧めがあり、それらは自分が神から赦されるためである、38節後半にある「自分の量る秤で量り返されるから」という理由が説明されています。
 ルカにおいて、人を赦すことは神から自らの罪を赦してもらうためであります。そして、マタイにおいては微妙に違うのですが、神が人の罪を赦してくれる方がからこそ、あなたも人を赦しなさい、という勧めになっています。そして、これらのことは、イエスが語ったメッセージ、神の国(支配)は始まっている、神はどのような人であっても愛を注いでくださる、人は誰でも神から赦されるというメッセージに重なります。

外側における黄金律の課題
 しかし、まだここに至っても、先ほども触れました難しい問題があります。それは「自分がしてもらいたいということは、本当に他の人もしてもらいたいだろうか」という問題です。現代社会においては、知らない人同士が具体的な人間的な触れ合いをするということは難しい社会です。私などの経験では電車に乗っている時、駅のホームにいる時など、人助けのために声をかけることもあります。が、だいたい断られたり、煙たがられたりする経験ばかりです。そういう社会になっているからでしょう。また、そのようなまったくの他人との関係でなくとも、身近な存在だからこそ、そうした働きかけが難しい関係があることもあります。親族や友人たちでも一度、関係が壊れてしまったり、切れてしまったりした関係の中においては、そうした働きかけは大きな困難を覚えることではないでしょうか。

内側における黄金律
 今日の箇所の後半部分をお読みします。ルカ6章41-42節。
「6:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
 人のことを評価するとき、良いか悪いかなど判断する時、まず自分はどうなんだ?ということを考えなさい、という勧めです。そして、たしかに、「人にしてもらいたい」と思われることを人にするには、そんな自分の姿、自分の有り様をまず考えなければならないのではないか、と考えさせられます。キリスト教文化圏では、富裕な人々が自らの財産、様々な慈善事業に用いる、ということが当たり前のように行われます。それらの行動も、現代社会における黄金律の実践として捉えられるでしょう。

イエスのもつ平等主義の根拠
 イエスは、なぜこのような教えを述べたのでしょうか?推察できるのは、徹底的な平等主義に立っているということではないか、と考えています。人としての彼の歩みを考えれば、こういうことでしょう。ユダヤ人として生まれ、ユダヤ的な教えに基づいて育ったイエスです。ですが、成長する過程の中で、ローマ人やサマリア人とも触れ合ったこともあったでしょう。そうしたとき、「否定形の黄金律」では、何か上手くいかないことがあったのではないでしょうか。また、キリストとして、律法の解釈者として考えれば、神への愛と隣人への愛を説きました。隣人への愛の究極の姿とは、利己的、自己中心的な愛の形ではなく、他者中心的な愛の形こそが、本当の意味での愛と言えるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、私たちに「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」と勧めました。しかし、他者への働きかけを勧めたはずのこの言葉は、まず自分たちへの問いかけとなるのではないでしょうか。また合わせて、その隣人との関係はどのような関係なのか、その隣人をどのように捉えているのか、受け取っているのか、ということが、問いとして浮かび上がってくるのではないでしょうか。

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