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『共感共苦共同体』(ローマ12:9-21)

2017.03.16(21:42) 339

『共感共苦共同体』
(2017/3/12)
ローマの信徒への手紙 12章9~21節

哀しみの記憶
 2011年3月11日に起こった東日本大震災から、昨日で、ちょうど6年の時が過ぎました。時の流れの中において、徐々に悲しみの記憶が薄れていくということ、また過ちの過去というものが薄れていくことが感じます。しかし、身近な人、家族を亡くした人などにとっては、なかなかその記憶が薄れる、ということはないでしょう。またその中で、震災遺構についてどうするのか、という課題があります。津波によって陸に打ち上げられた船や避難ビルといった震災遺構を、残すべきか、それとも消し去るべきだろうか。このような言葉を聞きます。「家族の死を思い出すので、無くして欲しい」。
また、こんな言葉もあります。「風化してしまうので、残して欲しい」。当然の言葉です。そこで考えてみたいのです。医療と言っていいのか、技術と言っていいのか、人間の記憶が、瞬時に消せるような医療行為や技術が開発されたらどうでしょうか。

理想的な支援とは?
 私は、6年前の2011年3月11日に起こった東日本大震災の後、大きな顔は出来ませんが、2度、被災地を訪ねました。一度目は震災から2ヶ月後の5月、まだ地震や津波の被害の傷跡が生々しく残っていたときでした。そして2度目は、それから半年ぐらい経った時期、釜石市と仙台市で支援のためのボランティア活動に関わってきました。そのときのボランティアリーダーや被災者の人々たちと話をしながら、感じたことがあります。それは、本当に辛い状況にあるときこそ、なかなかボランティアの団体や人に「手伝って欲しい」「助けて」と言えないのだ、ということでした。
 釜石市でのボランティア活動をしていたとき、津波の被害に遭った喫茶店の清掃を行ったことがありました。震災から半年が立っていましたが、まったくの手つかずの状態です。津波は2階の天上の高さまで来たそうです。家財道具全てがゴミと化してしまったものを、すべてを出さなければならない。2階の押し入れの中の衣装ケースには海水が残っていました。そうしたものをまる1日かけて、すべてのゴミを排出しました。また、こんなことがありました。最初、ボランティアとして働く前に、ボランティアコーディネーターより、なるべく遺族に家族の話は聞くべきではない、触れるべきではない、と。しかし、一緒に行ったあるボランティアの方が、喫茶店のマスターのパートナーの遺品をもらう、ということがありました。しかし、どうしても、ということで、コーディネーターと相談して受け取ることにしました。それから連絡先を交換して、その後も続く関係となりました。そんなときに判断する尺度となったのが、その時だけではなく、その後も繋がりを持つ、ということでした。(いろいろな考え方があると思いますが)

パウロの活動の三つの柱
 今日のテキストは、パウロの書簡を選びました。その中でも、わたしが特に心惹かれる言葉は、12章15節です。
「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」。
 パウロの活動は、三つの内容を持っていたということが出来ます。そして、それら三つは、この言葉の実現として捉えることが出来るのではないか、と感じています。一つ目は、主イエスを「救い主」として、「キリスト」を神の子と信ずる人々を広げること、つまり「宣教」「伝道」と言われる働き、その徴として、その実現の場として教会を建てることです。
 そして二つ目が、牧会と言われる行為、一つ一つの教会の中にある人々の悩みや課題に答えること、また様々な意見の違いや争いを正しい方向へ導いていくこと、そうしたこと心を砕いていました。そうした事柄に対する具体的なアドバイス、助言が私たちが知る聖書に収められている彼が記した手紙であります。
 そして最後、三つ目は、数多くの教会の間をつなげる活動であり、それは貧しい教会のために献金を集める活動であり、現代において当てはめれば、様々な献金活動、経済的な支援活動がそれに当てはまるでしょう。パウロは、具体的には、エルサレムにある教会を支えようとして多くの教会で献金を集める活動をしていました。エルサレムにある教会は、イエスの直接の弟子、ペトロなどの使徒がいた教会です。しかし、ユダヤ人社会の中における活動はとても厳しく、貧しい状況にあり、支援を必要としていました。
 そして、その支援の活動は、エルサレムを中心とした、1対1の関係だけを築くだけではありませんでした。横のつながり、様々な人の往来をさせること、弟子たちを派遣したりもしていますが、それらもそうした活動に一つでありますが、多くの都市に別々の存在していた教会を「一つの教会」にしていくこと、教会が、一つの「キリストの身体」であることを証していくための活動であったと言えます。

パウロの思い
 パウロは、コリント教会に送ったコリントの信徒の手紙Ⅰにおいても、同じような言葉を記しています。Ⅰコリント書12章26節。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
 第一コリント書は、パウロが教会の中に様々な違い(階級や宗教的信仰心)によって、分裂状態であったコリント教会の人々が和解へ向かうために記したものです。そして、この箇所自体は、教会とは、キリストの身体である、ということ。
そして、そこに集う人々は、いわば一つ一つの身体の部分である、ということをのべます。そして、その流れの中で、よく知られている愛に関する言葉は記されているのです。第一コリント13章13節。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 現在では、結婚式などで用いられる箇所であり、愛といえば、夫婦や恋人の間のこととして捉えられがちですが、実はパウロ自身は、教会の中における信徒同士、キリスト者同士の関係の中で、この言葉を記しているというのは興味深いことです。

共感共苦共同体
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉。これにはキリスト教会の中における教会と教会、また人と人の理想的な有り様が示されています。しかし、原点には、パウロが行った宣教、伝道の力、思いがあったと捉えることが出来るのです。この世に生きる人は、誰でも不安や心配があります。教会自身がそういう人の不安や心配に寄りそっているだろうか、ある種の答えを持っているだろうか、ということが宣教、そして伝道の指針であり、それを実現していくことが、宣教であり、伝道ではないでしょうか。
 そして、教会の理想的なあり方とは、外側に対して、共感共苦がなされているだろうか。内側においても、共感共苦が実行されているだろうか、ということが、教会の活動の一つの尺度になると言えるのではないしょうか。教会という場所は、キリスト教に基づいて立てられた場所であります。誰もがそれぞれのキリスト教信仰、またキリスト教、教会に対する思い、期待に基づいて人々は集っています。しかし、信仰心は現れ方が異なるように、1人1人、違いがあり、時に同じキリスト者であっても、クリスチャンであっても、同じ教会の仲間であっても、敵対してしまったり、憎み合ってしまったりすることがあります。
 憎み合う関係とは、敵対する関係というのは、どんな関係か、と言えば、パウロの言葉の逆になってしまうことです。その敵対者の「喜び」を憎み、その敵対者の「悲しみ」を喜ぶ関係のことではないでしょうか。また、「共感共苦」という言葉は、ただ人の思いに寄り添うだけでなく、共に苦しむ、という内容を含んでいます。喜んでいるときや楽しいときには、仲の良い友だちでも、苦しくなったときに、離れていってしまう友だちは本当の友人とは言えないでしょう。

最後に
 今日から教会暦でいえば、受難節に入りました。キリスト教信仰において、重要なイエスが受難の道を歩み、十字架刑によって命を落としたことに思いを寄せる期間です。イエスは、私たちの罪のため、罪を贖うため、私たちが負わなければならない罰を代わって、負って下さりました。
 子どもへのメッセージで、ロボットの話をしました。家族を失った哀しみにくれているロボットは、失った家族の記憶を消去、消すことを断りました。東日本大震災から6年、人類の技術が進んだからといって、誰も自らの家族が失われた記憶を消すことを選ぶでしょうか。そんなことはないでしょう。自らの哀しみを消すということは、自分自身を否定するということにもつながります。
 また、わたしたちは主なる神に対して、イエスさまに対して、震災の被害を被った時、家族を失った時など、どのように祈るでしょうか?消してください、とは祈らないでしょう。「癒やされるように」という祈りは、同時に、その人の隣人となって「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」ことではないでしょうか。その隣人の喜びを喜び、その隣人の悲しみを悲しむこと、そうした積み重ねの場が教会である、また教会の役割ではないでしょうか?
 そして、イエス自身もそのような人であったからこそ、私たちの罪を負って十字架への道を歩んだのではないでしょうか。受難節のこの日々、「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」宣教者であったパウロ、「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」神であった主イエス・キリストの十字架への歩みに思いを寄せて、歩みたい、と思います。

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