FC2ブログ

タイトル画像

『キリストはどのような存在なのか』(マルコ福音書8:27~33)

2017.02.19(21:38) 338

『キリストはどのような存在なのか』
(2017/2/19)
マルコによる福音書 8章27~33節

救い主とは何者か
 ここ何年か、追いかけている学者さんで、安冨歩(あゆみ)という方がおられます。最初に私が手に取った著書は『ハラスメントは連鎖する』というものでした。彼は東大の教授で、元々は経済学の専門家で、『満州国の経済』というテーマで経済学の関係の賞を取って、様々な著書を記すようになりました。ですが最近は、女性装をしている東大教授ということで注目され、テレビにも出るようになりました。それからも、ハラスメントの問題や、教育関係にも繋がるような著作を興味深く読んでいます。
 その安冨さんが行ったある講演の中で、アメリカの最も有名な歌手であるといえるマイケル・ジャクソンの話をしてくださいました。安冨さんは『マイケル・ジャクソンの思想』という本を記されたのですが、帯には、こんなコピー(言葉)が記してあります。
 「キング・オブ・ポップ”が名曲に託した魂のメッセージを東大教授が読み解く! MJは救世主である」
そして、さらに裏側には、このように書かれています。
「私は、彼が20世紀最大のエンターテイナー、芸術家、慈善活動家であるばかりではなく、最大の思想家の一人であるという結論に到達した。彼の作品は、その思想を厳密に表現するために、完璧に構成されている」
と。
 その中で、救世主とはどのような存在か、という話があったのですが、だいたいの内容は、このようなものでした。救世主とは、その人1人のことでは、その人の言葉や奇跡や誰かとのコミュニケーションだけでなく、その様々な要素が繋がっていくこと、繰り返していくこと、といったものでした。イエスの活動も、ただ単に1人の活動で終わらずに、彼が去った後も、使徒たち、その弟子たち、その後のキリスト者たちによってつなげられたからこそ、イエスは救世主として2000年近くの未来を生きる私たちも彼を知ることが出来、救世主として関わっているわけです。そうした存在は、宗教家であったり、政治家であったり、最近だったら、ミュージシャンでもあるわけです。たしかに世の中の動きの中で、救世主という存在も変わっていくかもしれません。

子どもの教育 —MJとヒトラー
 マイケル・ジャクソンが、救世主として、常に「子ども(の魂)を守れ」というメッセージを発信していたか、ということ触れられました。マイケル・ジャクソンは、グラミー賞の授賞式のとき、スピーチにおいて感謝や自らの楽曲のことではなく、ただ「子どもから子ども時代が奪われていることが問題のすべての原因」といったことを触れたそうです。子ども時代をどう生きるか、ということ、安冨さんのは他の著作で、ヒトラーの子ども時代の事を紹介していました。第二次大戦前の1910年代から30年代のドイツでは、子どもの教育に体罰がとても有効であると考えられていたそうです。そして、ヒトラーは子ども時代、何か悪いことや父親の意に沿わないことを言ったり、行ったりしたら、何度もおしりを鞭で打たれる、という罰をひたすら受け続けたそうです。
 そして、父親は鞭を打たれる数を一緒に数えさせたそうです。そして、いつか痛みも覚えずに、高らかに数を数えられるようになり、ナチスの指導者になってからも、そのことを自らの強さを示すエピソードとして紹介していたらしいのです。しかし、夜になると、父親が出てくる悪夢をみて非常におびえていたということもあった、と。

イエスという救い主
 イエスがその公生涯において、宣べ伝えたのは、「神の国(神の支配)が近づいている」ということ、そして、「人は誰でも神の救いを得ることが出来る(神に大切にされている・愛されている)」といったことです。しかしキリスト教においては、どちらかといえば、イエスがどのようなメッセージを宣べ伝えたか、ということよりは、イエスがどのような存在であるのか、キリスト(救い主)であるのかないのか、神の子であるのかないのか、そして、イエスの十字架刑によって、人の罪が贖われた、赦されたという点の方が強調されています。
 それをマイケル・ジャクソンで喩えれば、彼の歌や言葉、行動にではなく、彼の死に方に注目点が置かれている、ということと同じではないか、というように考えてしまいます。なぜ、こんなことが起こってしまっているのか、と言えば、キリスト教会が長い歴史の中で、こだわってきたこと、神の存在が真理であるかどうか、イエスが神の子、キリストであるということへのこだわりが生み出してしまった弊害とも言えるでしょう。
 長い間、正統と異端論争をしているうちに、信じる内容ではなく、信じ方を論じしているうちに、イエスが宣べ伝えたメッセージにあまり注目されなくなってしまった。イエスはどのような存在であるのか、そしてどのような存在として信じるべきなのか、ということの方がまるで大きな問題であるかのように勘違いしてしまった、と言えるのです。

メシア—ペトロの思い—
 今日の箇所は、前半と後半にわけることが出来ます。前半の27節から30節は、ペトロの信仰告白とイエスの応答、そして後半の31節から33節はイエスの受難予告であります。後半の部分にあたる受難予告から触れてみたいと思います。31節をお読みします。
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
 この部分は、イエスの十字架刑による死について予告しています。そして、それはイエスの予告であるということは、主なる神の計画であり、改めることは出来ないということです。しかし、一番弟子のペトロが続く箇所で、そういった発言をいさめようとし、それに対して、イエスは厳しく叱って言います。33節をお読みします。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 かなり強い調子での言葉であり、怒りの表現であります。そして「神のことを思わず、人間のことを思っている」というイエスの指摘。
 不思議と先ほどの議論、イエスが宣べ伝えた内容ではなく、イエスがどのような存在であるのか、に注目が集まっていったというところで重ならないでしょうか。ペトロも、イエスの教えや行動によって従ってきたはずなのに、いつの間にか、イエスがエルサレムにおいて新しい王として君臨することを期待するようになってしまっていた、ということです。ペトロはイエスが「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され」て、「殺され」ること。とても受け入れられなかった。「長老、祭司長、律法学者たち」というのは、ユダヤ人たちの最高法院を構成する人々です。そういった人々に排斥される、ということ。イエスがユダヤ人に救いをもたらす存在として、期待していたペトロには受け入れられる発言ではなかったでしょう。

メシアかキリストか
8章29節をお読みします。
「そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」」
ペトロの答えは「メシア」です、となっておりますが、実は、ギリシャ語においては「メシア」と訳されている部分、実はギリシャ語では「キリスト」となっています。
 ユダヤ人の考え方によりますと「メシア」とは「油注がれた者」であり、ユダヤ人を救いにもたらす存在としてとらえられております。そしてそのイメージは旧約聖書中随一のヒーローであるのがダビデであり、イエスが「ダビデの子であるのか」という問いは「あなたはメシアなのですか」という問いと同じなのです。ギリシャ語では、「キリスト」と記されていながら、ここで「メシア」と訳されているのは、ペトロを代表とする弟子たちの思いに合わせての翻訳であり、弟子たちの思いを組んでの翻訳であります。弟子たちは、この時点ではイエスに対して、ダビデの子としての「メシア」、「世」を救う者のイメージとして「メシア」としか求めていなかったからです。そして、言うなれば、この「メシア」とは人の側が求める救い主、神の子という存在であるといえます。

キリスト(救い主)とは?
 最初にマイケル・ジャクソンの話をしましたが、活動の後半、子どもを虐待したのではないか、ということで、ずいぶんとバッシングを受けていました。しかし、その背景には、彼の財産を狙った犠牲者とされた子どもの親がマイケルから多額の賠償金を狙ったものでした。また、その捜査のために、様々なひどい扱いを受けて、ずいぶん心を痛めたそうです。そうした心の痛みやビデオの撮影中に大きなやけどを受けたこと、また尋常性白斑(じんじょうせいはくはん)という病気を患っており、肌が斑になってしまうこと、やけどを隠すため、化粧をしていましたが、様々な憶測を生むこととなりました。
 そうして世間の目は彼の心を傷つけ、その結果として、死に至ることになったとも言えるのですが、その死後も彼のアルバムやDVDは売れ続けていて、今後も売れ続けるでしょう。そうしたことは一種のメシア現象(キリスト現象・宗教)とも言え、イエスの現象も2000年も続くキリスト現象と言えます。わたしたちはイエスがこの後、どのような道を歩み、十字架にかかったかを知っています。イエスを救い主、キリストとして信じるのは、彼の地上での言葉や行いと同時に、その死を至る道を知っているからです。そして、イエスの死をキリスト教神学的な理解で受け止めています。
 しかし、そのような弟子たちは知りません。弟子たちはイエスが十字架上の死を遂げた後、イエスの死の意味を探し求めました。旧約聖書のイザヤ書やマラキ書、詩編そうした書物の言葉からイエスの死を理解しました。そして、弟子たちは現在に続くキリスト教の基盤となりました。しかし、その前の段階にあった弟子たちの思いにこそ、キリスト教の真実の姿があるのではないでしょうか。
 弟子たちにとっては、イエスが神の子であるとか、メシアであるとかの前に、彼と過ごした時間に、ただならぬ希望を見出したのではないか、と思うのです。そして、イエスを中心とした場、時間が拡がれば良い、拡がって欲しい、そうした時を受け継ぐ人になりたい、という思い。キリスト教の始まり、そしてキリスト思想、イエスをキリストとした流れの源流に弟子たちのそのような思いがあったことに心を寄せたい、と思います。

17021901.png 17021902.png



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 名古屋情報へ
にほんブログ村
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
スポンサーサイト


周縁自体


<<『共感共苦共同体』(ローマ12:9-21) | ホームへ | 『隣人愛のジレンマ』 ルカ福音書10:25~29>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nantaro3.blog119.fc2.com/tb.php/338-8c79c990
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)