FC2ブログ

タイトル画像

『隣人愛のジレンマ』 ルカ福音書10:25~29

2017.02.12(17:37) 337

『隣人愛のジレンマ』
(2017/2/12)
ルカによる福音書 10章25~29節

愛には3種類ある
 キリスト教における愛の説明をするときにこのような言い方を耳にされたことがあるのではないでしょうか?新約聖書が書かれているギリシャ語において「愛」は三種類あります「エロス」と「フィレオー」と「アガペー」です。そして、「フィレオー」は一般的な人間の愛、「アガペー」が神の愛である、という説明です。ちなみに、「エロス」という単語は新約聖書には登場しません。このことについて興味深い指摘を聞いたことがあります。釜ヶ崎において活動されております本田哲郎神父の話を聞いた時でした。本田さんは釜が先において長年、野宿者の課題に関わってこられた方ですが、同時に聖書の翻訳にも関わっておられる学者さんでもあります。
 本田神父はキリスト教における愛について、このように説明されました。「愛には三種類があり、エロスが性愛、フィレオーが友愛、アガペーが神の愛、という説明がされていますが、その分け方は間違っている」と。そしてさらにこの様に説明してくれました。
「そうではなく、「エロス」は「家族の愛」(秩序)、「フィレオー」は「友人同士の愛」(友情)、「アガペー」は「人を一人の人として大切にすること」をしめしている」といった説明でした。
 その説明を聞いて、わたしはとても安心しました。なぜなら、イエスは「敵を愛せ」と言っていたけれども、それでは「敵」も家族のように愛せ、ということか、と受け取っていましたし、とても、それは出来ない、と考えていたからです。やっぱり自分を攻撃してくるような人のことを家族や恋人たちのように愛せと言われたら、不可能です。しかし、「大切にしろ」ということ、その人の意見や立場を「大切に、重んじろ」ぐらいだったら、出来るかなあ、と感じたからです。

良きサマリア人のたとえのテーマ
 今日の箇所、良きサマリア人のたとえに入る前の箇所に当たります。もう一度、その箇所をお読みしたい、と思います。ルカ福音書10章25節から29節。
「10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。」
 その答えとして、サマリア人の例えをイエスさまはこの律法の専門家に話します。結論的に言って、何を伝えたかったのでしょうか。この問題は、とても複雑なのですが、私なりには、二つの捉え方があると思っています。一つ目は、神さまへの愛と隣人愛は対立することがあるということ。そして、もう一つは、隣人とは誰か?ということです。

やさしさなどいらない
 なぜ、神さまへの愛と隣人愛が対立するのでしょうか。この例えにおいて、そのことを登場人物によって示そうとしています。追いはぎ(強盗)に襲われた1人のユダヤ人が、エリコからエルサレムへの道の途中で倒れています。そして、祭司、レビ人が通っていきましたが、その人を無視していきました。そして、この道は、エルサレムからエリコへの道です。祭司とレビ人が通るというのは、エルサレム神殿での祭儀(自らの仕事)のために移動しているわけで、祭司もレビ人もエルサレムから「下ってきている」ので、祭儀の仕事が終わった後であります。
 そしてケガをしている人を見つけた祭司とレビ人も、その人を無視してエリコへ帰ってしまう。聞き手である律法学者、ユダヤ人たちは、いろいろと想像を膨らませながら、この例えを聞いたでしょう。祭司やレビ人がけが人などを助けるはずがない。なぜなら、血に触れることは汚れを持つ可能性もある。また、もしかして、その人が亡くなっていたとしたら、もっと大きな汚れになる。しかし、エルサレムからの帰りだから、もしかしたら助けるかも、と。
 しかし、彼らは通り過ぎてしまいます。聞き手の人はどのように感じるでしょうか。その思いは、神さまへの信仰、神さまへの愛によるものでしょうか。クスッと笑ってしまっていたかもしれません。傷ついた人を助けることはあたり前のことです。しかし、神さまへの信仰が、人を助けることを躊躇させてしまう。みんな、そうだよねえ、と考えたでしょう。
 そして、サマリア人が通りかかります。どうでしょうか?イエスの例えを聞く人は、通り過ぎるだろう、と考えると思います。ユダヤ人たちは、サマリア人を汚れた存在として、敵対視していましたし、サマリア人の側もユダヤ人のことを敵対視していました。だから、サマリア人がユダヤ人のことを助けるはずがない、と。そして、もう一つの思いを聞き手の律法学者は持ったと思うのです。「通り過ぎてしまえ」と、さらに、もっと強く「頼むから通り過ぎてくれ」だったかもしれません。

隣人になったと思うか
 イエスさまは、良きサマリア人の例えの最後にこの律法学者に向かって、このような問いを投げかけています。ルカによる福音書10章36節。(P.127)
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は、「その人を助けた人です。」と答えています。しかし、イエスのこの問いと例えは、最初の律法の専門家の10章29節の質問である、「では、わたしの隣人とはだれですか」に、正確には答えていない、と言えるのです。
 おそらく律法の専門家は、「隣人」とは、ユダヤ人であり、律法に従って正しく生きている人であって、あなたもそうした人の仲間になりなさい、そして仲間同士で助け合って生きて行きなさい、と言ったような言葉を期待していたはずです。
 しかし、イエスさまは、その問いに対して、例えで返した。問いに対して、問いで答えたわけです。そして、さらに、「わたしの隣人は誰なのか」という問いであったのに、「あなたは誰の隣人になるのか」と微妙に論点をずらしているのです。わかりやすく整理するならば、イエスさまが言いたかったことはこういうことではないか、と思います。
 あなたにとっての隣人が誰かということは問題ではない、多くの人がこの世には生きているが、あなたが誰によって隣人と選ばれるかどうか、あなたが誰の隣人になるのか、それこそが問題だ、と言うことを述べているのではないでしょうか。

隣人愛のジレンマ
 最初に、本田神父による「愛」の分け方の話をしました。「エロス」とは「家族の愛」(秩序)、「フィレオー」は「友人同士の愛」(友情)、「アガペー」は「人を一人の人として大切にすること」をしめしている」といった説明でした。イエスの例えを聞いた律法の専門家にとっての愛とは、家族の愛であるエロス、友人同士の愛であるフィレオーしか頭になかったのではないでしょうか。神さまへの愛を謳っていながら、アガペーという神さまの愛の姿を忘れてしまっている。なぜ、こうしたことが起こるのか、と言えば、この人が考えている愛の形というものが、自らを愛する者のみへ向けられていた、自らと同じような立場や考え方の人たちへの愛、家族愛や友人愛に限られていたということではないでしょうか。
 イエスさまは、そうした愛の姿を厳しく批判していました。ルカによる福音書6章32節から35節。(P.113)
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」
 善きサマリア人のたとえは、カトリック教会とプロテスタント教会においては、その強調点が大きく異なるということが言われています。カトリック教会においては、隣人愛の勧め、善行(人助け)は、あらゆる障壁(人種、国家、立ち場などなど)を超えて行われるべきである、という教えとして受け取ることが多いと言います。そして、プロテスタント教会においては、「キリスト教的律法主義」への批判として、また「隣人とは誰か?」という問いとしての強調点が多いと言われます。たしかにその通りです。
 イエスがこの例えを語ったのは、2000年前の律法の専門家そしてパレスチナ地域に住むユダヤ人たちでした。しかし、この問いは、私たちにも投げかけられているのではないでしょうか。「あなたの隣人は誰ですか?」という問い、そして「あなたは誰の隣人になるのですか?」という問いです。私たちはこのイエスの問いに、どう答えることができるでしょうか。とても、単純な、シンプルな問いであります。しかし、世の中のあらゆる問題に通じる課題があるのではないでしょうか。

17021201.png
   白糸の滝(虹付き)

17021202.png
  朝霧高原からの富士山
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ↓ブログランキングに参加しています。
    よろしかったら、クリックして下さい。
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村哲学・思想ブログキリスト教へにほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 名古屋情報へ
にほんブログ村
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


スポンサーサイト


周縁自体


<<『キリストはどのような存在なのか』(マルコ福音書8:27~33) | ホームへ | 『脱自己中心的律法主義』(マルコ福音書7:14-23)>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nantaro3.blog119.fc2.com/tb.php/337-9b807194
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)