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『脱自己中心的律法主義』(マルコ福音書7:14-23)

2017.01.29(15:42) 336

『脱自己中心的律法主義』
(2017/1/29)
マルコによる福音書 7章 14~23節

初めに
 子どもたちと「わたしが絶対に勝つジャンケン」をしました。律法にしても、他のどのような法律にしても、ジャンケンでも、自分なりのルールや捉え方を加えると、「なんでもあり」になりますよね。でも、実際に、私たちは、キリスト教徒としても、世の中の法律とは言わずに、良識や常識にしても、自分なりの解釈なり捉え方を加えて、生きています。それはとても、あたり前のことなんです。
 例えば、「父母を大切にしなさい」という教え(戒め)は、十戒にも含められている、大切な教えです。福音書で、ファリサイ派の人々は責められています。しかし日常的に触れ合うことが出来ないような距離があるとき、どのようにして、父母を大切にすれば良いのか、実践すれば良いのか、と。神殿や聖所において、その思いを表そうとするという行為、攻められるでしょうか。
 キリスト教会においても、献金というものは、ただ教会の維持、信仰生活の維持に使われるだけではなく、隣人愛や社会正義の実践に使用されることがあります(無い教会もあるでしょうが…)。そうしたあり方も否定されるということでしょうか。そういったあり方を受け入れるのであれば、あらゆる福祉や社会正義は体を動かして、その場に行って、実践しなければ、神さまは喜ばれない、ということになるのでしょうか。そうではないでしょう。そうした意味で言えば、私たちのある種の「神の勧め」「神の戒め」の変換、変更を行っていることになるのではないでしょうか。そうすると、ファリサイ派や律法学者たちを批判する資格があるだろうか、ということにもなります。

口伝律法と神の意志
 ファリサイ派の人々は、こう考えていました。ユダヤの歴史を振り返ってみたとき、間違いばかり犯してきた。だから、こんなにもユダヤの民は苦しんできた、様々な帝国、民族に支配されてきた、そして今はローマ帝国に支配されている。その状況を変えたい、そのためには、今まで以上に律法を守らなければならない、実践しなければならない。そのためになすべきこととして、主なる神の教えである「律法」をよりよく実践するためには、どのような生活をなすべきか、どのようなことに気をつけて、毎日を過ごせば良いのだろうか。このような思いを持った人々でありました。
 想像してみてください。いろいろと難しい問題があります。聖書に書かれている事柄、今の時代を生きる私たちにとっては、同じように遠い昔の話であります。しかし、イエスの時代とモーセの時代、シナイ山にて、石版に十戒が記された時代、律法(トーラー)が表された時代から、1000年以上は経っています。どうでしょうか?そのような時代の隔たりの中で、当然に同じ律法、戒めとしても細かくは変わっていくのではないでしょうか。そうした状況の変化に基づいて、過去に対する反省に基づいて、口伝律法は深められてきた、と言えます。

律法の解釈という作業
 また、律法を守るという行為は、何のためになされるのか、ということも、課題になるでしょう。半年ぐらい前に、NHKスペシャルで、『天使か悪魔か羽生善治(はぶよしはる) 人工知能を探る』という番組がやっていました。最近の人工知能の進化と課題についてまとめられていました。その中で、インターネットの検索エンジンで知られているGoogleが開発した「アルファ碁」という囲碁のソフトに触れていました。チェスや将棋はすでにプロに対して、コンピューターが勝利しています。が、囲碁だけは、まだまだ年月がかかるのでは、と考えられていました。が最近、ついに囲碁の世界チャンピオンも、パソコン、人工知能に負けてしまうということがありました。
 また、イギリスにあります「人類未来研究所」というところがあり、その所長が、人類滅亡の12のリスクとして、気候変動や核戦争と共に、新たな危険として「人工知能」を上げていました。その所長が、そのことに触れて、インタビューでこう答えていました。
「人工知能の本当の恐ろしさは、人間を敵視することではなく、人間に関心がないことです。」
 最近は、自動車の運転が自動になる、コンピューター制御になるということが実証実験段階になりニュースにもなっています。しかしそのコンピューターが、人の生命の選択に立たされた時、生命の数なのか、歩行者か運転者なのか、どのような判断をするのか、ということも問題になるかもしれません。

あくまで律法の議論として読んでみる
 今日の箇所でイエスは、手を洗わなければ律法的に汚れてしまうというファリサイ派の人々に対し、7章14節15節において、このような言葉を語ります。
「…「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」」
 『ユダヤ教の福音書』という本を読んでいたとき、この箇所が用例として出てきました。そして、この箇所について、このような記述がありました。「この箇所は、解釈上、一冊の本が出来るほど難しい」と。そして興味深く読んだのは、現代のユダヤ教のラビが「イエスは、あくまで律法の議論として、ファリサイ派の人々と相対して可能性が高い」という解釈をしているという記述です。
 そして、このような解説がされていました。このイエスの言葉を聞いた時、いわゆるキリスト教徒でもユダヤ教徒でもない、一般の人々は、人の中から出て来るもの、とは、いわゆる排泄物を指す、と受け取るでしょう。そしてキリスト教徒は、7章21節からの部分にかいてあるように、「悪い感情」「悪徳」が人を汚すのだ、と捉えるだろう、と。しかしユダヤ教徒は違う、と。あくまで食べ物の議論として受け取る、と。食べられるものと食べられないものに関して、きちんとまもっていれば、手を洗うかどうかなど関係ない、という理解です。そして、イエスもそのように考えていた可能性が非常に高いということでした。
 ユダヤ人たちは、律法を破らないために、その教えに、更に大きな枠、塀で守るということを行っていました。入ってはいけない場所があるとすれば、大きめに柵を作るといったような感覚です。例えば、律法にはむち打ちの刑において、40回以上、人を打ってはいけない、という教えがあります。(申命記25:2-3)しかし、もしかして鞭がしなったり、跳ね返ったりして、もう一度あたる可能性もあったので、ユダヤ人たちは、鞭打ちを39回で終えていたそうです。

自己中心的律法主義
 ファリサイ派の人々は、手を洗うことと同様に、食器を洗うことなども重んじていました。なぜ、そのようなことを重んじたか。それは、間違って律法で汚れた物質を口にしないためでありました。7章の4節などに記されているように、チリやゴミや異邦人の触れたものを間違って口にしないため、「律法の垣根」を築くため、と言えるでしょう。そして、もう一つ理由があると言えないでしょうか。それは自分たちはそのような律法の解釈、自分たちが考えた律法を守る行動を実行しやすい立場にいたからです。例えば、羊飼い、漁師、大工、どうでしょうか?食事を取るとき、わざわざ手を洗うだろうか、食器を流水で洗うことが出来るだろうか。
 ようするに、ファリサイ派の人々は、自分たちが守りやすいルールを作って、自分たちを正しい者として捉えようとしていたわけです。そして同時に、それを実行できない人を「不義とする」「悪とする」わけです。イエスは、こうした有り様を批判していたのではないでしょうか。パウロが語ったことの一つに「信仰義認」があります。神は律法によって人を義とするのではなく、神への信仰によって義とする、という言葉です。ファリサイ派の人々の姿勢を、この言葉にかけて言うのであれば、「自己義認」であり、「自己中心的律法主義」であるといえないでしょうか。

自己中心的律法主義
 ファリサイ派の人々の律法理解を、「自己中心的律法主義」であるという指摘をしました。しかし私たちにも、そんな落とし穴があるように思います。自分は、「自己中心ではないよ〜」という人がいたとします。「他者中心である」と言っても、自分の思いによっての実行であれば、単なる押しつけであり、自己中心的です。
 また、自分や他者だけでなく、集団中心の可能性もあります。家族、教会、キリスト教中心と言ったとき、それは本当の意味で律法を守ること、神の意志を守ることになるだろうか。イエスは、どうであったでしょうか。おそらくイエスはあくまで「神中心的な律法主義」でなければならない、という思いを持っていたのではないか、と思います。イエスは自然に対しても、人に対しても、神の被造物として重んじていました。

イエスの視点(神中心的律法主義)
 イエスのこうした姿勢は、神中心的律法主義ということが出来ると、私は考えています。私たちはパウロの言葉などから、律法は否定されるべきもの、福音の前には必要のないもの、という理解をしてしまうことがあります。しかし、神が望む捉え方、神が望む実行の仕方を求めていくことは出来るのではないでしょうか。誰もが、神に義とされること、またより自分を良く評価されることを求めています。イエスの姿勢は、あくまで神中心な義のあり方、神中心の律法主義に基づいて相対したのではないでしょうか。
 神の導きを求める人、イエスの導きを求める人は、自らが正しいかどうか、また自らが神に近いかどうか、ということを自分の尺度、自分の思いで計ります。まさに自分でしか考えることしか出来ないわけです。考えてみますと、どのような人であっても、イエスの前においては、神の前においては、1人の人にしかすぎません。本当の正しさは、主なる神のみにこそ、またイエス・キリストにこそ委ねられている。そんな思いをもって、あらゆる人と向き合い、また神とも向き合っていくべきではないでしょうか。

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