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『人と神それぞれの愛の形』(ルカ福音書6:27-36)

2017.01.22(14:54) 335

『人と神それぞれの愛の形』
(2017/1/22)
ルカによる福音書 6章27~36節

日本における愛の受容
 日本語における「愛」という言葉は、キリスト教が入って「愛」という言葉を広げる以前の「愛」は、男女間の愛、好色(色を好む)、「強い欲望」など、どちらかと言えば、否定的な感情として、捉えられてきました。しかし、キリスト教における「愛」の観念が入ってきますと、このように変わってきました。これは広辞苑における愛の説明の一箇所です。
愛「キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと」
また、ついでにアガペーという項目もありましたので、そこも紹介したいと思います。
アガペー「神の愛。神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵を与える自己犠牲的な行為で、キリストの愛として新約聖書に現われた思想」
 広辞苑において「愛」と「アガペー」に共通し、神の愛の特徴として、現われるのは、「一方的にあたられる」「見返りを求めない」「(自らを)犠牲として」ということです。これらのことがキリスト教で語られる「愛」である、と言えます。
 また言語、翻訳(聖書の翻訳)という角度から考えてみたい、と思います。『聖書の日本語』を本には、19世紀に入って日本に渡ってきた宣教師たちがラテン語や英語の聖書における基督教用語を、どのような日本語に訳すかで苦心していた様が記されています。例えば、最初の宣教師たちは、ラテン語そのまま(カタカナ)で伝えていました。そして次に、似たような意味内容の言葉を当てはめていくわけです。たとえば「GOD」(神)は、「デウス」「上帝」「大日」が用いられました。(中国語聖書の影響もあった)しかし、まったく知らない言葉であれば意味が伝わらない、しかし日本語にある言葉を使ってしまう(翻訳すれば)誤解されてしまう恐れがある。このようなジレンマがあったわけです。
 そして愛についてですが、キリスト教における「アガペー」英語の「LOVE」をどのように訳すのか、で宣教師たちが悩んだといたことが、その本には記されています。愛と訳しても良かったのですが、男女間の性愛のようなものと誤解される可能性が高かった。ですから、日本語ではない言葉そのままで使うのか、また現在ある日本語を採用するのかでみんな悩んでいました。そして様々な日本語訳聖書が生まれました。そして、そのような翻訳作業の中で、「愛」は、「おたいせつ」「めぐみ」「いつくしみ」などと訳されてきました。そして、だんだんとキリスト教の考え方が浸透していく中で、「愛」という言葉の意味が浸透していき、その結果ついに聖書でも「愛」という言葉が用いられるようになったと言えるのです。

エロス・フィレオー・アガペー
 また、キリスト教会における「愛」の捉え方について、考えてみたいと思います。キリスト教における愛の説明をするときにこのような言い方を耳にされたことがあるのではないでしょうか?新約聖書が書かれているギリシャ語において「愛」は三種類あります「エロス」と「フィレオー」と「アガペー」です。そして、「フィレオー」は一般的な人間の愛、「アガペー」が神の愛である、という説明です。ちなみに、「エロス」という単語は新約聖書には登場しません。このことについて興味深い指摘を聞いたことがあります。釜ヶ崎において活動されております本田哲郎神父の話を聞いた時でした。本田さんは釜が先において長年、野宿者の課題に関わってこられた方ですが、同時に聖書の翻訳にも関わっておられる学者さんでもあります。
 本田神父はキリスト教における愛について、このように説明されました。
「愛には三種類があり、エロスが性愛、フィレオーが友愛、アガペーが神の愛、という説明がされていますが、その分け方は間違っている。そうではなく、「エロス」は「家族の愛」(秩序)、「フィレオー」は「友人同士の愛」(友情)、「アガペー」は「人を一人の人として大切にすること」をしめしている」
といった説明でした。
 その説明を聞いて、わたしはとても安心しました。なぜなら、イエスは「敵を愛せ」と言っていたけれども、それでは「敵」も家族のように愛せ、ということか、と受け取っていましたし、とても、それは出来ない、と考えていたからです。やっぱり自分を攻撃してくるような人のことを家族や恋人たちのように愛せと言われたら、気味悪がられるでしょうし、とても不可能です。しかし、「大切にしろ」ということ、その人の意見や立場を「大切に、重んじろ」ぐらいだったら、出来るかなあ、と感じたからです。

理想的な愛の怖さ
 このような愛について課題は、日本における、いじめ問題に関しても、関係しているのではないでしょうか。「いじめ」に関して、日本社会では子どもの問題、遊びじゃないのか、とか、受け取り方の問題といった見方によって、学校現場、大人社会で問題が深刻さする傾向があります。そのように深刻化してしまうのは、また間違った見方、捉え方をしてしまうのには、日本における友だちの考え方に問題があるのではないか、という指摘を耳にしたことがありました。それは、日本では、「友だち100人出来るかな」という歌がありますが、「友だちは多ければ多いほど良い」また「どんな人でも努力すれば友だちになれる」といった考え方、理想があるからではないか、という指摘でした。どこかの国には、友だち関係について、このような言葉があるそうです。「好き嫌いがあるのは当たり前。しかし、どんなに嫌いな人でも生きる権利はある」といったような意味の言葉です。
 想像してみてください。「どんな人でも好きにならなければならない」によって、生きている人がいます。そして、好きの枠組みに入った時には、様々な段階、レベルがあって友人関係を広げていきます。しかし、嫌いとなると、その人が同じ痛みを感じる人であることも忘れているかのように攻撃してしまう。いじめの背景にはそうした考え方があるのではないでしょうか。
 逆に、「好き嫌いがあるのが当たり前」から初めてみたら、どうでしょうか。好きになった友人たちには、とても大切な存在として、より深く大切にするかもしれない。また、たとえ気が合わない人や気にくわない人がいたとしても、その人はその人、自分は自分で、いじめなど生まれないかもしれない。また、「誰でも友だちになれる」という考え方は、本来ならば、我慢してはならない「虐められている側」に対して、許すことを強要する空気、当人の側に問題があると思わせるような空気の元にもなっているのではないか、とも思います。

敵を愛せるだろうか
 今日の箇所は、小見出しに、「敵を愛しなさい」と付けられています。内容として確認しますと、27節から30節には、文字通り「敵を愛する」ことの内容が記されています。自分を攻撃する者に対して祝福を祈り、また抵抗するなということです。そして31節には、黄金律、「人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい」ということ。32節から34節には、いわゆる愛ではあるが、褒められるべきではない愛の例が出されて、35節36節は、「敵を愛しなさい」という戒めのモデル、理想として神の愛があることが記されています。
 35節36節をお読みします。「6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
 最後の言葉を聞いて、どのように感じるでしょうか。神が「情け深い」また「憐れみ深い」と書かれてはいますが、それにならって、人、キリスト者も神と同じようにしなさい、「敵を愛しなさい」というように受け取るのではないでしょうか。そして、そうでなければならない、と。しかし、このハードルはあまりにも高く、高い故に超えられることも出来ずに、くぐってしまうだけの、まったく意味のない教えとなってはいないでしょうか。いじめの問題における「みんな友だちの理想」にしても、キリスト教の愛にしても、そのハードルの高さゆえにまったく意味のないものになっていないでしょうか?また、宣教師たちは、神の愛を特別なものとして、伝えようとしました。しかし、それと人が持つ愛というのは、まったく違うものではないか、と考えることは出来ないでしょうか。

愛敵の勘違い
 イエスは、神の愛のあり方についてこのような言葉を述べております。マタイ福音書5章45節。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
 神の愛はどのような人であっても与えられるということです。この言葉も、マタイ福音書における「愛敵の教え」の文脈の中で語られています。またこの言葉をうがった見方で捉えてみますと、なんで神さまのなんか信じなければならないのか、という宗教的な問いにも繋がるのではないでしょうか。また、このような神さまを信じているのだから、それにならって「敵を愛しなさい」というもの、ハードルが高い要素になるのではないでしょうか。イエスは、本当にそのように考えていたのか、とも思います。
 また、愛するということの意味内容も議論になるかもしれません。愛するというのは、他者の行動をすべて受け入れる、ということでしょうか。様々な関係の中で考えられることです。自分の家族、パートナーや子ども、また親という他者に対して、その人の行動をすべて受け入れよう、ということでしょうか。友人との関係、それ以外の人との関係、の中でどうでしょうか。政治家たちの行動をすべて受け入れるのも愛でしょうか。違うと言わざるを得ませんし、イエス自身においても「愛」故に、宮清めの行動や敵対するファリサイ派などの人々の間違いを指摘したのではないでしょうか。「愛の反対語は、無関心」という言葉がありますが、まさにそのとおりでしょう。また、ドメスティックバイオレンスや様々なハラスメントの被害者が我慢してしまう温床にもなってしまう可能性さえ持っています。

神の愛と人が目指すべき愛
 今日の箇所は、イエスのマタイ福音書では、「山上の垂訓」の一部であり、ルカにおいては、平地の説教の一部となっている箇所です。倫理的な教えとして愛がどのようなものであるのか、というのは、とても大きなテーマです。愛について、考える時、ただ単に言葉の理解や、解釈ではなく、その人の歩みから考えること、捉えることが重要ではないか、と感じております。イエスを理解する時、今日の箇所においても「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」という言葉も、従順さではなく、反抗心をしめす行動ではなかろうか、という議論もあります。わたしたちの有り様も同じではないか、と思います。「愛」というものを様々な関係で示す時、それは一瞬の出来事で示すことが出来ることかもしれませんが、長い時間をかける中でこそ、理解されることかもしれません。イエスは、神の愛について「誰に対して注がれる愛」として伝えました。そして、それは人も目指す愛のあり方として、「愛敵の教え」との関係で理解されてきました。
 しかし、わたしたち人がそうした愛を目指すべきか、という課題があるのです。イエスの死と復活は、彼が人であるからこそ、なし得たことです。そして「その死と復活」によって、キリスト教は始まりました。キリスト教は「愛」の宗教とは言われますが、その最初に「自らの命を捨てるほどの愛」がありました。たしかに、それは「神の愛」がこの世に実現した一つの事件であったと言えます。しかし同時に、その愛の実現は、人には不可能であるという理解ができるのではないでしょうか。
 最後に、本田神父の言葉をもう一度振り返ってみたいと思います。「エロス」は「家族の愛」(秩序)、「フィレオー」は「友人同士の愛」(友情)、「アガペー」は「人を一人の人として大切にすること」という分け方」。キリスト者として、自分の家族、友人、同じ教会の人々、同じ信仰をもつ人々、それ以外の多くの人々、との関係の大きなヒントになるのではないでしょうか。神さまの愛、イエス様の愛、という時、また「愛敵の教え」に関しても、あまりにもハードルが高くて、自分の日常生活とは関係のないこと、そのハードルをくぐってばかりのことはないでしょうか。しかし、このような本田神父の指摘や神さまの愛やイエスさまの愛と人の愛は違うものと考えてみますと、身近なものとして、捉えることが出来ると同時に、より日常の実践に繋がるのではないでしょうか。愛の課題は、あらゆる他者との関係で考えるべき課題であると思います。なかなか理想的な愛の実践は難しい課題ですが、イエス様に与えられた道しるべの一つとして、あらためて心に刻んで歩んでいきたいと思います。

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