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「パンとパン種の違い」(マルコ福音書8:14〜21)

2017.01.09(21:08) 334

『パンとパン種の違い』
(2017/1/8)
マルコによる福音書 8章 14~21節

一つの船に乗る弟子たち
 今日の箇所の直前8章13節をお読みします。
「8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。」とあります。文脈から今日の箇所が置かれている状況を捉えてみたいと思います。8章1節から10節には、4000人に食べ物を分け与えたという箇所があります。「5000人の共食の記事」(マルコ6:30-44)がよく知られていますが、この箇所もほぼ同じ内容のこと、出来事が起こっています。そして続く11節から13節は、「人々はしるしを欲しがる」という小見出しが付けられています。この箇所においては、「天のしるし」を求める人が多いということ、要するに神の存在を示すような奇跡的な出来事を求めることを指している、と言えますが、そうした人々の有り様についてイエスが戒めている箇所があり、今日の箇所に続いています。
 構造的には、パンが増えるということが、神の存在のしるしと言えます。そして、そういうことは11節から13節においては、神のしるしを求める人ばかりいる、と嘆くイエスがいます。そして今日の14節からの箇所に繋がっていくわけです。13節において、舟に乗ったイエスと弟子たち、そして、パンを持ってくるのを忘れたことに気がつきます。「パンが一つしかない」。どのくらいの航海であったか、は分かりませんが、弟子たちは、明らかに少ない、12弟子とイエスだけだとしても、1つでは足りない、と。そんな姿をイエスは見て発言しています。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。
 ただ船に乗ってお腹がすいたときに食べるパンが無いだけの話なのに、イエスさまの発言はあまり穏やかではありません。こうした表現には、ただ出来事の事実関係を書き記すためではなく、ここからわたしたち信仰者が読み解くべき指針、メッセージがあると考えて良いと思います。そして、それは端的に言いますと、「状況が厳しいとき、苦難の中にあるときにファリサイ派の人々やヘロデ派の人々の考えに気をつけなさい」というメッセージです。

舟としての教会
 船は、キリスト教の伝統において「教会」や一つの「集団」、また、この「世界全体」を指します。一つの教会において、また一つの集団において、また世界において、パンが一つであったとき、どのようなことを考えるでしょうか。世界において、パンが一つしかない、ということはあり得ないことです。ですが、世界が置かれている状況を当てはめて考えることが出来るでしょう。限られた食料や資源、また世界で進んでいる環境破壊、限られた自然として捉えることが出来ます。そうした限られているものをどのように考えていくのか、ということです。一つの集団において、国や民族でも良いでしょう。また教会において、一つのパンを分け合おうとなったら、どうするでしょうか?様々な方法によって解決しようとするのでは無いでしょうか。
 この箇所においては、パンは一つ、12弟子とイエスというメンバーであれば、13等分にするという方法もあるでしょう。しかし、現実的には、そのうちの何人かが遠慮するとか、ジャンケンなどのゲームで決めるとか、そうした方法がとられるのでは無いでしょうか。しかし、この箇所において、イエスは間髪入れずに、ある警告を発しています。8章15節の言葉「「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」」と。

ファリサイ派とイエス
 ファリサイ派の人々、イエスの敵対者として何度も登場します。しかし実態はどうかといえば、いろいろな議論があります。イエスの活動にしても、ファリサイ派の活動にしても、ユダヤ教の革新運動という性格を持っていました。そして神殿を中心としたユダヤ教の時代を終えて、律法を中心として、またラビと呼ばれる律法の教師が中心となるユダヤ教(ラビ・ユダヤ教)がユダヤ教の中心となっていきます。そうした意味では、原始キリスト教とファリサイ派は似たような位置にありました。また律法を生活実態、人々の実態に合わせた形で変えていこうという立場も似ていると言えば似ています。そうしたことから、違いを際立たせるため、ライバルを貶めるため、近親憎悪的に福音書においてファリサイ派はひどく描かれているのではないか、という指摘もあるぐらいです。
 そして、イエスの教えを元にして生まれた原始キリスト教とファリサイ派の違いを指摘するとすれば、「分離主義」であります。「ファリサイ」とは、「分離」「隔絶」といったことを意味します。自分たちだけが神の前に正しい者だ、という意識をもっていた人たちでした。ただファリサイ派の人々は自分たちだけが「救われれば良い」と考えていたわけではなく、自分たちのような存在が、「主なる神」の教えを完全に守ることによって、この世は救われるだろう、そしてそのときには、自分たち以外の人々も救われるだろうから、ファリサイ派の教えを重んじなさい、という考え方でした。
 ファリサイ派の人々は、律法を完全に守ることを好みました。ファリサイ派の人々は、律法を完全に守っている人々とのみ食事をすることを好んでおり、「律法を守れない罪人と呼ばれた人々」や「異邦人」などと食事をすることを避けていました。そのような彼らの姿勢から「分離派/ファリサイ派」と呼ばれるようになっていたのです。福音書に登場するファリサイ派の人々は、イエスに議論を挑みますが、そのすべてが律法に関するものや食事に関するもの、誰とでも一緒に食事をしていいのか、といった種類のものだったことも彼らの考え方にしっかりと当てはまっています。

ヘロデ派の人々
 そして、そのファリサイ派と共にヘロデと出てきますが、これはヘロデ個人ではなく、「ヘロデ派」、イエスが生まれた頃から活動期までユダヤ王家を形成していたヘロデ王家の人々、それにつながる人々を指しています。一般に世界史の世界においては、イエスが言うまれ頃のヘロデは、ヘロデ大王と呼びます。そしてイエスがメシア、キリストとして活動していた時期、その息子ヘロデ・アンティパスが、ちょうどガリラヤ地方の領主として活動していました。マルコ福音書6章14節には、ヘロデがバプテスマのヨハネの首をはねたという記事がありますが、これは息子の方のヘロデであり、イエス自身の言葉として、ルカ福音書7章24~25節にはこのような言葉があります。
「7:24 ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 7:25 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。」
 「華やかな衣を着て、贅沢に暮らす人」として記されておりますが、ヘロデ・アンティパスであります。これらの人たちはユダヤ人でありながらも、ローマ帝国により強く従うことによって、より強くローマ帝国の言うことを聞くことによって、ユダヤ人たちを迫害することによって、王としての立場を与えられ君臨していました。父であるヘロデ大王にしても、子であるヘロデ・アンティパスにしても、ユダヤ人たちが大切にしていた神の教えの中心である神殿や律法などについて、あくまでユダヤ人たちを支配するための道具としてしか見ていなかったように考えられます。そういった意味では、ただ単に神ならぬ権威に頼っていた人々というよりも、自らの利益のため、自らの立場をまもるために、この世の権力に妥協的に物事を進めようとしていた人であり人々であったということが出来ます。

パン種に頼る者
 イエスはそうした「ファリサイ派の人々」や「ヘロデ派の人々」の「パン種」に気をつけろ、と言っているわけです。そして、ここで一つとても興味深いことがあります。それは、「パン種」を警戒せよと指摘する一方、一貫して、弟子たちへの持っているパンについては、「パン」で統一されていることです。8章17節から19節前半をお読みします。
「8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」
 「パン」と「パン種」が比較する中で浮かび上がってくることは、「パン」は一つのパンでしかありませんが、「パン種」は増えること、膨らむということです。律法において、パン種(酵母)は嫌われている存在です。神ならぬ力、自然ではない力で膨らむという捉え方からであり、神の捧げるパンは、種なしパンでなければならない、また特別なお祭りのときも、種なしパンを食べるように、と進められていました。(出エ12:15)
 そのような背景から、どのような意味が「パン種」には込められているのでしょうか。それは、おそらく「イデオロギー」や「宗教心」と言った、人と人の間で繋がっていく、ある種の考え方や心の持ちようを指しているのでは無いか、と捉えることができます。ファリサイ派にしても、ヘロデ派にしても、また宗教団体や政治団体にしても、人と人との繋がりは、その集団の活動での活躍や役割、立場によって評価されてしまうことが多くなります。そして、役に立たないと見れば、すぐに棄てられてしまう。そうした構造を持ってしまうことが少なくありません。調子の良い時、それらのつながりは、パン種が膨らむように、広く繋がっていくかもしれません。しかし、一方で、そうした勢いを失えば、パン種も小さくなるしか無く、人々も棄てられてしまったり、離れていくかしかない。とても不安定なものと言えます。この福音書が生まれた時代、すでにヘロデ派などはローマ帝国によってエルサレムが滅ぼされたことによって、崩壊していたと考えられ、そうした背景が影響しているかもしれません。

パンに頼る者
 そして、パンに頼るべきだ、というイエスの主張は、このように捉えられるのではないか、と思うのです。それは、まず一対一の人と人の関係を基盤にして生きていくことこそ、未来を開く道であるということです。今日の箇所最後にイエスは、このようにおっしゃっています。8章19節から21節。
「8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。」
 この言葉は、マルコ福音書6章30節において行われた5000人が満腹したといわれるパンと魚を増やした奇跡、またマルコ福音書8章1節において行われた4000人が満腹したといわれる奇跡を背景にして理解することができます。あの奇跡は、多くの人々がイエスの言葉を求めて集まったときに起こりました。そして、ただ単に人が多かったから、パンと魚が増えたというお話ではありませんでした。
 ただ単に、5000人の人々にパンが増えて与えられたという話ではなく、50人や100人のグループに分けられた中で、5つとパンと2匹の魚によって、不思議なことにみんなが満腹したというお話でした。これは私なりの解釈ですが、5000人というグループではなく、50人とか100人、また更に、小さな人のグループになったとき、隣に座る文字通り隣人を助けようという思い、分け合おうという思いが広がって、みんなが満腹した話ではないか、と感じています。

イエスの思い
 パンを配った後に5000人のときは、12つのカゴ、4000人のときは、7つのカゴが残ったとあります。とても象徴的な数ですが、ユダヤ人キリスト者の代表である十二弟子の数、異邦人キリスト者の代表者として7人を暗示する言葉であり、後の教会の付加、付け加えと考えられます。21節最後で、イエスさまに「まだ悟らないのか?」と弟子たちは問われています。これは同時に聖書の読み手一人一人に向かって投げかけられた問いでもあります。キリスト教の教えの中で、教会の中でも大切なものは何でしょうか。今日の「パン種」と「パン」の比較から捉えられることは、一人一人の人に向き合うことこそ、キリスト教の道であるということではないでしょうか。
 わたしたちは、ときに人に渡すべきパンを持たないものかもしれません。そして、時に弱さから「パン種」に頼りがちな心も持っています。しかし、イエスの言葉を胸に、一つのパンを分け合う物として、一つのパンを持つ者として、新しい一週間も、歩んでいきましょう。


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