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『ヨセフにとってのクリスマス』(マタイ福音書1:18-25)

2016.12.19(19:53) 333

『ヨセフにとってのクリスマス』
(2016/12/18)
マタイによる福音書 1章 18~25節

正しい人ヨセフ
 「ヨセフにとってのクリスマス」という説教題を付けました。今日は、ヨセフの視点に立ってイエスの誕生、父ヨセフにとってに子イエスついて考えてみたい、と思います。今日お読みしましたマタイ福音書において、イエスはヨセフというダビデの家系の者を父として生まれたということが強調されています。ヨセフは、マリアが結婚前であったのにも関わらず、イエスを身ごもっていたことを知り、19節において「正しい人」であったので、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろう」としたと記されております。
現代の日本を生きる私たちの価値観からすれば、「離縁」しようとしたのは、ヨセフと婚約していたマリアが妊娠したのは、ヨセフを裏切り、他の男性と関係を持ったから、というのが自然な捉え方ではないでしょうか。ヨセフの立場からすれば、婚約していたのに裏切られた、という感情です。そして、誕生物語について言えば、そのように読んだとしても、違和感なく読めること、また子どもたちに説明するにあたっても、わかりやすい説明であること、から、そのように説明されるのではないでしょうか。

律法的に正しいヨセフ
 しかし、ある注解書には、まったく違う捉え方が記されていました。「(この箇所で)ヨセフが「正しい人」と言われているが、「(それは)律法的に正しい、という意味であり、律法に従えば離縁することが正しく、その場合、マリアは死罪になる。」〔新共〕と説明がありました。当時の律法の解釈によれば、結婚前に妊娠したことが明らかになったら、マリアは死刑になってしまう。それよりは結婚しないことにしたら、マリアは様々な非難を受けるかもしれないが、死刑になることからは免れる、命は助かるという思いからだった、という説明です。たしかにヨセフの正しさというものが、「律法的な」正しさであり、律法の滑稽さを示すためには良い説明かもしれません。
 さらに19節には「ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。離縁すること、その原因が、マリアの妊娠であり、それが「表ざたに」なれば、マリアは死刑になる、と。だから、マリアと事を荒立てないように分かれよう、と。その場合、どちらかが遠い町に行くとか、そういった選択になるのでしょうが、マリアと別れようとしていた。たしかに、ヨセフは安易に結婚という道を選ばずに、深い愛の故にマリアを助けた、ということになるでしょう。

家父長制における長男
 そして、もう一つの可能性があると言えます。それはイエスがダビデの家系に生まれた、ということにこだわるマタイ福音書の意図にも関わることです。イエスは「ダビデの家」に生まれた、ということにマタイ福音書はこだわっています。だからこそ、冒頭においてダビデからヨセフに至る家系図を記しているわけです。しかし、イエスがヨセフの養子であるとすれば、妊娠が神の意志であるとかないとかに関係なく、ヨセフの実子でなければ、ダビデの家、ダビデの家系の者と言えるだろうか、という問いが出てきます。
 現在でも日本は、養子などを好まない風潮が強い国、強い民族性を持っている国であります。そしてユダヤ人たちも同じような価値観を持っていたとすれば、同じ気持ちであったかもしれません。ヨセフもマリアは愛していたとしても、自分の子でない子どもを育てなければならないことになります。家父長制の価値観においては、受け入れられることなのでしょうか。また、どうでしょうか?自分が育てようとしている子どもが「神の子」である、としたら、どのように接するでしょうか? どのように育てて良いのか、神への尊敬が大きければ大きいほど、躊躇する感情も出てくるのではないでしょうか。

長男としてのイエス
 また、イエスがどのように育ってきたかを考える上で、ヨセフとマリアの家族構成に触れようと思います。マルコによる福音書6章1節から3節(P.71)。
「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。」
 短い箇所ですが、ヨセフとマリアの家族のあり方を知ることが出来る箇所です。イエスには弟や妹がいたこと、さらに兄弟は4人、妹たちも複数形なので、2人以上いたことがわかります。イエスは7人以上の兄弟の長男であったということです。そして、イエスが大工であったということ、ヨセフが大工であったことは知られていますが、イエスも一人前の大工であったことを知ることが出来ます。もう一つ重要なことがあります。それは6章3節冒頭、イエスが「マリアの息子」と呼ばれていることです。このことから、佐藤研さんは、このようなことを記しています。
「ところで、このイエスは「大工」であった(マコ6:3)。この職業は、当時いわば木材(あるいは石材)を使った加工業一般とでも言うべきものであり、家屋の柱、椅子や机、寝床、農具その他がその製作対象で、労働形態としては短期契約か日雇い労働的だったはずである。事実マタイは、イエスを「大工の子」(13:55)としている。また当時の父親は、息子が数歳になると、「職業訓練」を開始するのが常であった。それは息子が「成人」する頃まで続く。古代ユダヤでは、男の子は13歳「バル・ミツヴァ」つまり「成人」となる。つまり、イエスが父親と同じ「大工」の職業にまともに就いていたとすると、その一応の職業訓練が終結する「13歳」までは、父親が生きていてイエスを訓練した可能性が高いということである。ということは、イエスが活動を始める「33から34歳」頃から約20年ぐらい時を遡った時点までは、父親ヨセフは生きていたであろうと推定される。」(『イエスの父はいつ死んだか』/P.51)
 また、イエスの下に兄弟が少なくとも6人いたことは、イエスが10歳ぐらいになるまでは生きていたことの根拠になるでしょう。そして、「マリアの子」と呼ばれていたことは、ヨセフが亡くなってからかなりの時間が経っているということの根拠となります。これらのことから、おそらくヨセフは、イエスが13歳から15歳といった10代前半で、亡くなっていただろうと想定することができます。

ティーンエイジャーのイエス
 イエスは10代前半で父ヨセフを失ったと考えられることが出来ます。家族としては、母親と幼い子どもたちがいるわけです。長男としては、ユダヤ人における成人である13歳を超えて、まだまだ経験は少ないかもしれませんが大工ではある。一心不乱に働いて、家族を支えたのでは無いか、と思うのです。母親のマリアは幼い妹や弟たちの面倒で一杯一杯だったでしょう。
 そんなことからも家族の運命はイエス1人の肩に重くのしかかったかもしれません。そんな背景を考えて上で、触れてみたい箇所があります。マルコ福音書3章31節から35節。(P.66)
「3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」」
 弟子たちを集め、神の国運動、神の子としての活動に突き進んでいたイエスを家に連れ戻そうとしているマリアと兄弟たち。聖母マリアとしてあがめられるマリアの姿とはまったく重ならない姿です。しかし、だからこそ実際のマリアの姿、イエスの家族の姿であると言えます。そして、興味深いのは後半部分、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」というイエスの自問するような問いと最後の言葉です。34節後半と35節。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」イエスの言葉には、父親が現れてこないのです。イエスさまは神の子なのだから、神さまを「父」と呼ぶのは当たり前だ、と言う人もいるでしょう。しかしここにはヨセフとの関係が大きく関わっている可能性があるのではないでしょうか。

インマヌエルという名
 聖書の箇所の話に戻りますが、マタイ福音書1章23節には、「インマヌエル」という名、その意味は「神は我々と共におられる」という意味であると説明されています。しかし、これは神学的な意味でイエスの名前であります。福音書にはこのように書かれていますが、「イエス」という名前と「インマヌエル」という名前はまったく関係がないのです。
イザヤ書の7章14節に「7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」とあるから、イエスを神の預言の結果、誕生した存在であるという説明するため、と言えます。そして神学的に言えば、神であるはずのイエスが、人として誕生して、私たち人と「共にある」ことを実現したのだ、わたしたちの神は「共にいる」という性格を持っているのだ、ということをあらわそうとした名前であり、イエスの名前はあくまでギリシャ語で記せば「イエス」、ヘブライ語でいうところの「ヨシュア」であります。

ヨシュアという名 —父ヨセフの思い—
 最後の箇所マタイ福音書1章24節25節をお読みします。
「1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
 この記述からイエスという名前は、父親であるヨセフがつけたものと受け取ることが出来ます。イエスという名は、旧約聖書に現れるモーセの跡継ぎとしてユダヤ人を率いたヨシュアの名前であります。そして「神は救い」という意味があり、ユダヤ人の間ではよくある名前でした。ヨセフが、自分の子どもにヨシュアとつけたのは、普通に成長して普通のユダヤ人として育てようとした思いが込められているのではと思うのです。もし「インマヌエル」と付ければ、やはり「救い主」として育てようとしたと捉えることが出来るでしょう。
 そして当たり前の父親としてイエスと接していた。そしてイエス自身、ヨセフのことをかなり慕っていたのではないか、と思うのです。なぜなら、イエスは、神に対して、「父よ」と祈っていました。父親の事が嫌いだったり、亡くなった後も何らかの好ましくない思いがあったりしたら、父を早く亡くした状況であっても、たとえ神であっても「父よ」とは祈らないのではないでしょうか。
 また、ルカ福音書には、12歳のイエスが祭司たちと対話をして、賢さに驚いている場面、またイエス自身の言葉として、神殿を指して「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2:49)と発言している場面があります。これも一つの聖人伝のようなものですが、私はイエス自身、神に対して「父よ」と祈る行為、それ以外の行動から同じような思いを持っていた、そしてそれにはヨセフの存在が大きく影響していたのではないでしょうか。
 ヨセフは、大工としての仕事以外にも、イエスに対して律法の教育、自ら教えたり、聖所などに連れて行ったりもしていたのではないかと感じています。そうした意味でいえば、イエスの律法に関する知識の基盤はヨセフが与えたものと言えるかもしれません。
 ヨセフはイエスは普通のユダヤ人の父として、当たり前の父親としてイエスに接したのではないか、と思います。そしてイエスもその愛情に答えるようにヨセフを慕ったのではないでしょうか。しかし不幸ながら、若くしてヨセフは亡くなりました。しかし、その愛は、子であるイエスの心に深く刻まれていたのではないでしょうか。それが神に対する父という呼びかけに現れたのではないでしょうか。
 最後にしますが、クリスマスにおいて、ヨセフはなかなか前面に出てくることはありません。あえてアドヴェントの第4週、父ヨセフが持っていた子イエスへの思いについて考えてみたいと思いました。そして、現代社会は幼子が当たり前の愛情を注がれずに育たざるを得ない状況があります。誰もが当たり前の愛情を注がれるような社会になることを願って、アドヴェントの時期を過ごしたいと思います。

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