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『沈黙の声に聴く』(列王記上19:1-12)

2016.12.11(20:13) 332

『沈黙の声に聴く』
(2016/12/11)
列王記上 19章 1~12節

エリヤの問い
 エリヤは、イスラエル民族の王国が南北に分裂していた時代、紀元前570年から550年頃、北側の北イスラエル王国において活動しました。今日の箇所の前の部分、列王記上の18章には、預言者エリヤとバアル神との預言者の対決の場面が記されています。首都サマリアは、ひどい干ばつに襲われ、酷い飢饉に陥っていました。それをエリヤは王国全体のヤハウェ神への不信仰、異教崇拝によるものとして糾弾します。
 それにより、バアルの預言者たちとエリヤは、カルメル山において対決することになります。カルメル山というのはイスラエルとフェニキアの国境線にある山で、2つの神、主なる神への祭壇もバアル神への祭壇も置かれていたのでしょう。その場において、エリヤは主なる神に祈り、バアルの預言者たちはバアルの神に祈って、どちらが最初に神の力によって、薪(まき)に火を付けられるかどうか?という戦いをすることになります。
 最終的に、バアルの預言者たちの祈りは通じず、エリヤの祈りにより火はつき、バアルの預言者たちを皆殺しにした、というお話です。で、こんな「正義が勝つ」といった「勧善懲悪」なお話だけでしたら、神の力が証明されたお話として、あんまり面白くありません。しかし、ここにとても興味深いやり取りがひとつ含まれているのです。列王記上18章21節をお読みします。
「エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。」
 「民は一言も答えなかった」とあります。なぜでしょうか?エリヤの言葉に心からの反発があったからでしょうか。同意して、エリヤの言葉を受け入れたからでしょうか。痛い指摘を受けて、無視しようとしたのか、とか。いろいろ考えてみましたが、わたしなりにたどり着いたのは、民衆はエリヤの質問の意味が分からなかったのではないか、ということです。

エリヤという預言者
 エリヤという預言者。新約聖書においては、イエス・キリスト自らの言葉を通して、バプテスマのヨハネこそ再臨したエリヤである、と語られる預言者であります。新約聖書、マタイによる福音書11章13節から14節にはこのようにあります。(P.20)
「11:13−14 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」
 イエス・キリストがこの世に誕生する準備を果たすため、「道を準備する」(Mt11:10/Ml3:23)ためにヨハネが現れ、そのヨハネはエリヤの再臨である、とあります。エリヤもヨハネも確かな預言者でありながらも、不幸な歩み、困難な歩みを歩んだ預言者であるという点で共通しています。エリヤは活動期に自らの国、民族の王から命を狙われる状況の中で、身を隠しながら預言者としての活動を行いました。その時代の王アハブは、イスラエルの神と共に、異民族の神も信仰し、イスラエルの民にも勧めました。そして、それには、アハブの王妃であったイゼベルの影響がありました。王妃イゼベルは、もともとフェニキアのティルスの王の娘であり、王家同士の結婚は、同時に神同士の結婚、お互いの神が同一視されること、夫婦神として捉える道を開きました。当時のユダヤ人たちは、イスラエルの神ヤハウェもフェミニアの神バアルも自らの神と捉えていたのでしょう。そしてエリヤを迫害した王アハブは、列王記においてもっとも低い評価をされている王でありました。列王記上21章25節26節にはこのように記されています(P.571)。
「21:25-26 アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。彼は、主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリ人と全く同じように偶像に仕え、甚だしく忌まわしいことを行った。」

唯一神信仰の強さと弱さ
 冒頭に、バアルの預言者たちとエリヤの対決の場面、またその場面におけるエリヤの問いに触れました。なぜ、彼等は答えられなかったのでしょうか。おそらく答えられなかったのは、主(ヤハウェの神)とバアル神が、まったく一体化していた宗教的状況の中で、「主なる神か、バアルか」という問いの意味が理解されなかった、というのが原因と考えられます。預言者エリヤが求めたのは、あくまでヤハウェ神のみ、主なる神のみへの信仰です。しかし当時のイスラエルの状況においては、そうした姿勢を理解できる状況も人もいなかった。誰も彼もヤハウェとバアルを信仰していた状況であった。パンとスープを一緒に食べるのが当たり前かのように、ご飯と味噌汁を食べることが当たり前のように、パンとスープのどちらかを選べ、ご飯と味噌汁のどちらかを選べ、というのは、おかしな質問としか受け取られなかったのではないでしょうか。
 また、こんなことも言えるかもしれません。バアルは豊穣の神、確かに秋の恵みがなければ、食料がなければ生きていくことはできません。作物が豊かにとれることは誰もが当たり前に求めることです。雨季と乾季を繰り返すパレスチナ(レヴァント)において、雷は雨期の到来をもたらす神として信仰されていた、ということもヤハウェ神とバアル神の結びつきを示すことと捉えることも出来るのです。イスラエルの神には雷と雨を求め、バアル神には、実りを求め、穀物や果実などの豊作を求め、祈り、祭っていた。
 しかしエリヤがやってきて、バアルには祈るな、と批判する。時代が変わったとしても、私たちも主なる神に対して、健康や平和を求め、また生活の安定や豊かさを祈ります。バアル神への祈りは、そうした祈りと捉え方、価値観によっては、あまり違いが無いと言えるかもしれません。エリヤがこの場にいて、明日からそんな祈りはダメだ、間違っている、と言われたらどうでしょうか。それは違う神への祈りだ、主なる神への祈りとしてふさわしくない、と言われたらどうでしょうか。エリヤの行動にはおそらく、そんなぐらいの衝撃があったとのではないでしょうか。

静かにささやく声
 今日の箇所、列王記19章1節から12節は、エリヤは、王による迫害や民の無理解の中で、逃亡生活に陥っている状況を記しています。エリヤ自身、今日お読みした箇所は、逃げることに疲れ切って、神の山と呼ばれるホレブでの出来事を描いています。最後の箇所、列王記上19章11節12節をお読みします。
「19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」
 主なる神がエリヤの前に現れた場面、顕現した場面です。しかし神は「山や岩を裂くような風、地震、火」の中にはいませんでした。これは私たちが神に求めるであろう現象の中、また一般に人を超えた存在としての神を感じるであろう力の中に、神はいなかったということを示しています。しかし、その後に訪れた「静かにささやく声」に、神が現れたのです。
 実は、この言葉、翻訳がとても難しい言葉なのです。ヘブライ語の原典を忠実に訳しますと、「沈黙の声」、英語では「Sound of Silence」となります。言葉として矛盾しています。新共同訳では、「静かにささやく声」となっております。この箇所に続いて神の言葉が続くので、「沈黙の声」と訳せなかったのでしょう。また、ギリシャ語訳の旧約聖書(セプチェアギンタ)では、「かすかなそよ風の音」。日本語訳の中では、文語訳では「静かなる細微(ほそ)き聲(ごえ)ありき」。口語訳では、「静かな細い声」、カトリック教会が最近だした校訂口語訳では「かすかにささやく声」、フランス語の聖書では「さざめきのようなかすかな音」となっているようです。そして、名訳と呼ばれる関根正雄訳「火の後で、かすかな沈黙の声があった」と訳されていました。

神の意志とは?
 神の意志とはどのような形で現れるのでしょうか?エリヤが受けた迫害状況はあらゆる形で神の存在を否定しようとする動きにも繋がっていたでしょう。遠藤周作が記した有名な『沈黙』という作品があります。つい最近、映画化され、日本では来年1月に封切られるということで、(恥ずかしながら)初めて読んでみました。江戸時代の長崎、切支丹禁制、キリスト教が迫害されていた時代、オランダから来た二人のポルトガル人宣教師の物語です。その中にこのような一節があります。

「その時、私は、ふとガルペと山にかくれていた頃、時として夜、耳にした海鳴りの音を心に甦らせました。闇のなかで聞こえたあの暗い太鼓のような波の音。一晩中、意味もなく打ち寄せては引き、引いては打ち寄せたあの音。
その海の波はモキチとイチゾウの死体を無感動に洗いつづけ、呑みこみ、彼等の死のあとにも同じ表情をしてあそこに拡がっている。そして神はその海と同じように黙っている。黙りつづけている。
 そんなことはないのだ、と首をふりました。もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、その不気味な無感動を我慢することはできない筈だ。
(しかし、万一…もちろん、万一の話だが)胸のふかい一部分で別の声がその時囁きました。(万一神がいなかったならば…)
 これは恐ろしい想像でした。彼がいなかったならば、何という滑稽なことだ。もし、そうなら、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウの人生はなんと滑稽な劇だったのか。多くの海をわたり、三カ年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちはなんという滑稽な行為を行っているのか。」(『沈黙』 P.85)

 命からがら、日本へやってきた二人の宣教師、その一人ロドリゴが江戸幕府の役人の手から逃れて、山中をさまよっている時の記述です。困難な状況の中で、ロドリゴは祈り続けていました。しかし神は沈黙している。その沈黙は、神の存在さえも疑ってしまう思いをも生みだしてしまう。この宣教師が陥った状況は、今日の箇所のエリヤの思いにも重なるのでは無いか、と思うのです。宗教や文化が多様な状況とは、様々な神が一緒に併存しているというだけではなく、一方の神、一部の神が否定される状況。ロドリゴと同じように、エリヤも、そんな極限状態の中で、神の存在、神の力を求めていました。そして、そんな苦しい状態の果てに、神の声を聴いたのです。

沈黙の声に聴く
 エリヤは、この箇所において、神の声を聴いたことによって、再び力強く神の預言者として歩み出すことが出来ました。しかし、どのような声、言葉だったのでしょうか。わたしは不信仰かもしれませんが、こんな想像をしています。この箇所に続いて、聖書には、エリヤが神により具体的な導きを得たことを記しています。しかし、これは後の時代の書き加えではないか、と思われます。なぜなら、ここまでしっかりとした言葉を語られたのであれば、「沈黙の声を聞いた」とは記されないはずだからです。
 どうでしょうか?自らがエリヤのような体験をしたと想像してみてください。そして時を経て、自らの預言者の歩みを振り返り、弟子たちや他の人たちに自分の経験を語ろうとした時、説明しようとして、みんな興味津々で、いろいろ聴かれるわけです。
「洞窟の中で神さまの言葉を聴いたんですよね。どんな声ですか?」「男性っぽい声ですか、それとも女性のような声?」「やさしい声ですか、怒ったような声ですか」「ヘブライ語でしたか?アラム語でしたか?」「日本語ですか?英語?」…。エリヤは答えに困ったのでは無いでしょうか。
 「沈黙の声」。エリヤは、音とも言えない何か、を受け取ったのではないか、と思うのです。違う言い方をすれば、神の存在、主なる神の存在が共にあることを、はっきりと説明できない形で、人が持つ、聴覚とか、視覚とか、触覚とか、味覚とか、嗅覚とかいった五感においても、説明できないような何かを受け取った。そしてそれは、神さまが共にいてくださる、ということ確信、また、これからの道しるべ、何をなすべきかということをはっきりと受け取ったのではないでしょうか。そして、そんな複雑な思いを込めて、エリヤは、「私は沈黙の声を聞いた」という言葉に繋がり、それが私たちが触れる聖書の記述に残ったのではないでしょうか。
 遠藤周作の「沈黙」の最後に近い場面で、司祭ロドリゴは、役人たちに捕らえられ、ついに踏絵を踏んでしまいます。しかし、その場面において、それまで沈黙し続けていた神なるイエスの声を聞くのです。

「司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らか(きよらか)と信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、「踏むがいい」と銅版のあの人は司祭にむかって言った。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」(『沈黙』P.218)

共にいる主なる神
 「沈黙」において、ロドリゴはもっとも神から遠ざけられた瞬間、そして神に反しているという瞬間、これまで強く求め続けても、まったく与えられなかった神の声を聞きました。エリヤにしても、沈黙におけるロドリゴも、完全な孤独の中で、完全な絶望の中で、神の声を聞きました。主なる神は、彼らを「憐れむ」ため。「彼らを裁く」ために現れたのではありませんでした。主なる神、またイエス・キリストは、困難な状況にあった彼ら、苦しみのただ中にあった彼らと共に苦しむため、また、共に歩み出すために現れたのです。
 クリスマスを待つ時期を迎えています。クリスマスは、一年のもっとも暗い時期に祝われます。もっとも一日が短い時に祝われます。なぜこんな時期に祝うのでしょうか?こう考えることは出来ないでしょうか。もっとも一日が短い時期とは、これからは長くなることしかない時期、と考えることができます。共に喜びに向けて歩み出す時期、共に光に向けて歩み出す時期、と考えてみますと、これ以外の時期はないと言えるでしょう。主の誕生を祝うこの時期、あらためて主イエス・キリストが私たちと共にいてくださることを胸に刻んで、歩んでいきたい、と思います。


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