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「時の徴を見極める」(マタイ福音書24:36-44)

2016.11.28(22:56) 331

「時の徴を見極める」
(2016/11/27)
マタイによる福音書 24章 36~44節

ノアと裁きの関係
 今日の最初の箇所、マタイ福音書24章36節をお読みします。(P.48)
「 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」」
 裁きの時は、誰にもわからず、ただ神のみが知っているということです。またこの裁きがいつ来るのかという課題、様々な捉え方がされています。例えば、パウロは、様々な手紙を記していますが、初期に記された手紙では、世の終わりがかなり早い段階で来ると考えていた、と思われる記述があります。
 次の箇所、37節にはノアの名前が出てきます。
「24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」
 ノアの洪水と知られる洪水は、神の裁きとして起こりました。その裁きには、どのような背景があったのかを振り返ります。創世記6章3節から7節。(P.8)
「「6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。 6:4 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。6:7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」」
 ここで神は裁きの理由として、二つあげています。一つは、神と人の混血の存在、「ネフィリム」という存在が増えてきた、ということ。そして、もう一つは、「人の悪が増し」てきたことがあげられています。また、神が人のようになること、ネフィリムという神と人の間の存在が増えていくことを恐れたこと、人が神に近づくことを恐れた、ということです。そして二つ目に、悪が広がっていった、とあります。実は、聖書自体には、どのような悪であったのか、は具体的に記されておりません。
しかし様々な映画や漫画などの描き方ではおおよそ、神の戒めを無視する人々の姿、欲望のままに、自然や他の生き物を好きなようにしていた姿が描写されています。

義人ノア
 そしてノアという人物の捉え方からも、その悪について考えることが出来ます。旧約聖書において、ノアは、ヨブとダニエルとならんで、「義人、良い人」として広く旧約聖書、またユダヤ人に知られている存在であります。そして、いくつかの箇所で3名の名前をあげて、三人のように神に対して「正しい人」「義人」であるべきだ、ということが述べられています(エゼ14:14/20/ヤコ5:11)。そして、なぜ彼らは義人と呼ばれているのか。それは、この三人が強く神への信仰を様々な逆境の中で保っていたからです。
 ノアは神が命じられた方舟の建造を多くの人の嘲笑を浴びながら、その作業を進めました。ダニエルは、異国の地において、異教徒や異邦人といった敵対者たちの陰謀にさらされながらも、その王の信頼を勝ち取っていきました。そしてヨブは、多くの災いを神から試み(テスト)として受けます。そして、その様々な災いをもたらした原因はヨブにある、という友人たちの主張に反論し続けます。そうした様々な逆境の中においても、変わらず神への信仰を保つ姿が、「義人」「正しい人」としてのモデルとして、ユダヤ人の間で尊敬されていたのです。
 そして、このような「試み」を受ける状況は、イエスが生きた当時のユダヤ人たちにも重なることでありましょう。イエスが生きた当時にユダヤ人は、ローマ帝国に支配されていました。ある国がある国を。ある民族がある民族を支配するということは、それぞれが信じる神の力の問題と考えられていました。ローマ神話の神に対して、ユダヤの神は負けていると考えられていました。そんな状況ですから、ユダヤ人であろうと伝統的なユダヤ的な神信仰やユダヤ的な文化から離れる人々が、少なからずいたのです。

人による人の支配への警告として
 人が神のように振る舞うこと、人が人を支配することはイエスの時代、大きな問題となっていました。ローマ帝国によるユダヤ人の支配とは、当然、人が人を支配することにもつながったでしょう。また、そうした民族的な違いだけではなく、ユダヤ人同士の中においても、人に対する支配が行われていた、と言えます。イエスの敵対者として登場するファリサイ派の人々や律法学者の人々が行っていた律法を用いた人への裁き。どれも恣意的な解釈、利己的な解釈によっており、律法の名を借りた、また主なる神の名を借りた、人の支配ともいえる行為とも言えるでしょう。
 現代にも通じることですが、本来の法治主義とは、法の前においては、どのような人であろうと平等でなければなりません。しかし、一方的に立場の強い人が神の名を借りて、人を裁くというのは、現代においても、間違っている行為であります。ファリサイ派や律法学者の人々の行為は、そのように法の前の平等を犯している、と言えます。また不当に神の立場にたって人を裁いていると言えるのではないでしょうか。
 イエスが生きた当時のユダヤ人たちは、ダビデにはじまるダビデ王朝への回顧、強い憧れがありました。しかし実は旧約聖書の伝統、ユダヤ人の伝統において、人を支配してはいけない、という教えは、王においてもあてはまることであり、王による支配については、とても批判的でした。しかしエジプトによる支配と出エジプトや他の強国の圧力の中で、しかたなく王を立てるという形で、王制度が取られたのです。預言者サムエルの働きによって、最初の王としてサウルが立てられました。しかし、王を立てるに当たってとても強い警告を預言者サムエルは、述べているのです。おおよそこのようなものです。(サムエル記上8章)
 王を立てることとは、あなたたちの息子を兵隊にし、自分の土地を持たない小作人にし、武器の制作者にし、あなたたちの娘たちを「香料作り、料理女、パン焼き女」にし、土地を取り上げ、奴隷たちにしてしまう等、ろくな事はない。そして、最後にこの様な言葉がしるされています。(サムエル記上8:11-15/P.438)8章17節後半と18節。
「8:17 …こうして、あなたたちは王の奴隷となる。8:18 その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」」

どのような形で裁きが来るのか
 マタイ福音書に話を戻します。今日の箇所の後半部にあたる40節から44節では、裁きの対象として、畑に男性が二人いれば、そのうちの一人が、連れて行かれる、つまり裁かれるということ。また臼を引いている二人の女性、要するに家事をしている女性と言うことですが、がいれば、その一人が連れて行かれる、裁かれると記されています。そして、そうしたことが起こらないように、
警告として「目を覚ましていなさい。」(24:42)と記されています。そうした裁きがいつ来るのか、分からない、と。要するに、常に気をつけていなさい、ということです。何に気をつければ良いのでしょうか。常に、神さまに祈っていなさい、ということでしょうか。常にイエスさまの言葉に胸に生きていかなければならない、ということでしょうか。私は、そうした捉え方は少し違うのではないか、と思います。
 ここまで振り返ってきましたように、キリスト教において、旧約聖書において、通底している価値観に、人を支配すべき存在は、神のみであって、人が支配するべきではない、という強い思いがあります。それはイエスにも受け継がれています。今日の箇所の前が納められている箇所の近くにも、それに当てはまる箇所があります。24章15節16節。(P.47)
「「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、 24:16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」
神ならぬ存在が神となること、偶像崇拝への批判とも言えます。そして同時に、人による人の支配に対する警告と言えるのではないでしょうか。

時の徴を見極める
 この課題を、現代の問題に引きつけて、考えてみたい、と思います。11月の初めに行われましたアメリカの大統領選挙の結果には、かなり驚かされました。また、その結果から、時代の変化というものを感じた人もいたでしょう。今までの想像では起こりえないことが起こっている、と。現在社会において、多くの国家や社会において、いわゆる選挙において国の代表者が選ばれており、それが民主的な政治である、ということが語られます。しかし、歴史を振り返ったとき、20世紀初頭におこり、ヨーロッパや我が国に起こったファシズム、全体主義といわれる政治体制は、第二次世界大戦における戦線の拡大や多くの犠牲を生む要因となりました。
 現在の日本も、アメリカも、そしてヨーロッパ、世界中の国々が、自らの苦しみからの解放を願い、どちらかと言えば、保守主義的な政治家、排外主義的な政治家たちへ希望を持って、自らの票を投じたり、不安的な情勢の国家においては、銃を取ったり、石を持ったり、するでしょう。しかし、そこから選ばれている政治家たちや、戦争や混乱が、そうした人々の思いに答えられているでしょうか。また、現代社会に問われているのは、民主主義というシステムが、人々に、幸福や平和をもたらすことが出来るだろうか、ということかもしれません。また政治的な解決に、人がより多くの期待をかけようとする思い、すべての解決を求めようとするところに、ファシズムや全体主義が生まれるのかもしれません。そして、まさにそうしたあり方は、神ならぬ存在が神になること、と言えるのではないでしょうか。
 先に「目を覚ましていなさい」という言葉がありました。キリスト者として、気をつけるべきこと、イエスに従いたいと願うこと、聖書に記されている戒めに従いたいと願うとき、何に気をつけるべきか、何に見極めていなければならないか、というのは、人と人の関係の中において、またある人が神のように振る舞い有り様について、気をつけていなさい、ということではないでしょうか。そして、まず自らの身の回りにある声に耳を傾けることからこそ、本当の救いがもたらされるのだ、というのがイエスが身をもって示した希望ではないか、と思うのです。

最後に
 イエスが生きた時代のユダヤの人々、ローマ帝国の支配にあえぎ、解放されたい、と願っていました。そしてだからこそ、神の子であるイエスに対して、ダビデの子として、ユダヤの新しい王として即位して、ローマ帝国の支配から解放されたい、と願っていました。しかし、その期待が叶わないと分かると、十字架につけろ、という叫びを上げるようになりました。これらのユダヤ人たちの有り様、イエスをメシアに持ち上げようとした思いも、十字架にかけろという叫びも、現代的な社会システムの中では、ファシズムや全体主義といえるものかもしれません。
 イエスは、今日の箇所、マタイ24章37節「人の子が来るのはノアの時と同じだからである」とおっしゃっています。それぞれの時代の中で、何を見て、今がどのような時であるのか、と考えること、人によって違いがあると思います。世の力をある人が誰になるのか、ということで時の変化、時代のありようを感じることもあります。しかし、そうではない形で世の有り様を見るべきではないか、と思います。それは最も小さな存在の姿、また大きな遠くの希望ではなく身近な存在の姿にこそ、世の中に本当の姿が現れている、という視点ではないでしょうか。
 今日からアドヴェントに入りました。イエスは、この世に何も持たない、何の立場もない「最も小さき者」として、この世に現れました。その弱さに私たちは神の創造の力強さと愛を見ます。赤子はもっとも弱い存在として、生まれます。そのようなもっとも弱い存在がどのような場に生まれているのか、どのような境遇にあるのか、そういうところにこそ、注目すべきではないでしょうか。一年で一番、日が短い時期を迎えます。そのような時、より小さき存在に目を向けて、世界を眺めることが求められているのかもしれません。主なる神の導きを信じて、今週も歩み出したい、と思います。

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