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『キリストとメシアの同床異夢』(マルコ福音書7:31〜37)

2016.11.20(18:42) 330

『キリストとメシアの同床異夢』
(2016/11/20)
マルコによる福音書 7章31~37節

イエスは、メシアでありキリストである
 イエスは、キリスト教という文脈の中においては、三位一体の「子」としての神であります。そして同時に、新約聖書ならび福音書においては、ギリシャ語でいうところの「キリスト」この言葉は救い主を意味します。そして、ヘブライ語でいうところの「メシア」この言葉は、油注がれた者という意味ですが、「ダビデの子」「王となるべき存在」ということを意味し、この三つの言葉で呼ばれることがあります。また、それぞれ、わたしにとって、この人は、この存在は、「○○である」といった告白のような機能、役割を果たす言葉でもあります。
 そして、イエスについての称号について、実はイエスの時代から課題があったこと、ある意味では混乱があったことが聖書本文と翻訳からも見えてきます。マルコ福音書8章29節をお読みします。(P.77)
「そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」」
ペトロの答えは「メシア」です、となっております。しかし、この部分、ギリシャ語では、このように記されています。 「συ ει ο χριστος」(英語:You are the Chirst.)
 日本語で直訳すれば「あなたはキリストです。」となります。しかし、この新共同訳聖書は「メシア」となっている。でも一つ前の、口語訳聖書も「キリスト」と訳されていました。どちらが正解なのでしょうか。が、実は、ここに聖書解釈、信仰理解に関する課題が横たわっています。訳語としても使われる「キリスト」と「メシア」。何が一緒で、何が違うのでしょうか。今日、一緒に考えてみたいのがこうした課題であります。

異邦人にとっては救い主(キリスト)
 前回の箇所、7章24節からの箇所、シリア・フェニキアの女が出てくる箇所において、イエスは、今まで活動していたガリラヤ、ユダヤ人たちが住んでいる地域を離れ、ティルスという場所にいました。地図で確認してみますと、ティルスはイスラエルの北、地中海に面した町でフェニキアという地域に属しております。7章24節からイエスと弟子たちはこの地域に滞在しています。フェニキアもガリラヤ・ユダヤと同じくローマ帝国領でありますが、ユダヤ人たちからみれば、異邦人(ギリシャ的な文化圏の人々)が住む地域でありました。
 24節に「誰にも知られたくないと思っておられた」と記されています。癒やし手としての噂はユダヤ人たちが住む地域ガリラヤ地方を超えて、ティルスにまで伝わっていたのでしょう。そして31節の記述に従えば、イエスは、ティルスにおいて、フェニキア人であろう女性に子どもの癒やしを懇願され、興味深い、応対の後、癒やしを行ってから、ティルスを離れ、右回りに異邦人たちの居住地を回って、またガリラヤ湖にやってきたということです。

言葉ではない形の癒やし
 今回の癒やしの記事において、特徴的なのは、イエスが言葉だけではなく、接触によって、癒やしを行っているという点です。この癒やしを求めた人は、「耳が聞こえず舌の回ら」(7:32)なかったようです。イエスは、この人を癒やすために、7章33節において「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられ」(7:33)ました。今日のテキストの癒やしの記事は、場所としては、ガリラヤ湖周辺で起こっており、癒やされた人もガリラヤの人であるユダヤ人と考えられます。そして、癒やされた方法としては、イエスが直接触れることによって癒やされています。
 また箇所の冒頭には、イエスがここに至るまでの足取りが記されていますので、お読みします。
「7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」
 何かおかしな感じがしませんでしょうか。ガリラヤ湖を中心に右回りで回ってから、ガリラヤ湖へやってきている。多くの学者は、この記述から、マルコ福音書の著者は、ガリラヤ地方の知識が乏しい、という解説をしています。しかし、こうも言えるのではないか、と思うのです。実は、この歩み、この道筋には、イエスがメシアとして生きるのか、キリストとして生きるのか、という葛藤が現れたのだ、と言えないでしょうか。

メシアとしてのイエス
 最初にマルコ8章29節におけるペトロの信仰告白。「あなたはメシアです」のギリシャ語は、「「συ ει ο χριστος」(You are the Chirst.)」であるということに触れました。「メシア」という言葉は、旧約聖書で使われておりますヘブライ語では「油注がれた者(マーシュイーアッハ)」という意味があります。ユダヤ人の考え方によりますと「メシア」とは「油注がれた者」であり、ユダヤ人を救いにもたらす存在としてとらえられております。そしてそのイメージは旧約聖書中随一のヒーローであるのがダビデであり、イエスが「ダビデの子であるのか」という問いは、同時に「あなたはメシアなのですか」という問いであるのです。
 そして、ギリシャ語では、「キリスト」と記されていながら、ここで「メシア」と訳されているのは、ペトロを代表とする弟子たちの思いに合わせての翻訳であると言えます。口語訳聖書では、「あなたはキリストである」と訳されていました。教会的には、信仰的には都合の良い訳と言えます。しかし学問的に、歴史的考えたとき、文脈上、弟子たちは、イエスが「メシア」になることを期待していました。また、ギリシャ語における「キリスト」(救い主)という言葉自体も、その意味も知らなかったはずですから、「キリスト」と告白させるのは、おかしな話であり、「メシア」という翻訳がふさわしい、と言えます。

キリストとしてのイエス
 では、もう一方のキリストとはどのような存在でしょうか。キリストとは、ギリシャ語における「救い主」を指す言葉であります。そして、キリスト教は世界宗教であり、あらゆる民族に対して開かれていると理想を持っているので、全世界の、全人類の救い主、キリストであるということが言えます。でも、どうでしょうか?
 どうでしょうか。世界を救うという目的を持ち、最初に何かをしようとする時、人によって、その方法については、いろいろと出てくると思うのです。今日の箇所において、イエスは異邦人が住む地域からガリラヤ地方に戻ってきました。しかし、もしかしたら、そのままガリラヤ地方やユダ地方といったユダヤ人が住む地域ではなく、世界の救い主、キリストとなるのであれば、異邦人に向かうこと、極端に言えば、ローマ帝国の首都、ローマを目指しても良かったのではないか、と思うのです。これだけの癒やしの力があれば、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、信じる人は信じますし、救い主であるという人は、ユダヤ人には限らないのではないでしょうか。
 であるならば、ある意味では、ユダヤの王にしかなれないエルサレムではなく、より多くの人がいる場所であるローマを目指しても良いのではないでしょうか。しかし、イエスはローマではなく、エルサレムへと向かいました。キリスト的ではなく、メシア的であると言えるのではないでしょうか。より多くの人の救いを目的とするならば、やはりローマ帝国の首都、ローマへ行くことが一番の近道といえなのでしょうか。

キリストとメシアの同床異夢
 今日の箇所において、イエスは、「エッファタ(開け)」という言葉によって、病人を癒やしました。様々な癒やしの記事について、民族的視点や方法といった尺度で眺めたとき、見えてくるのは、あくまでイエスがその癒やしを求める人に応じた形で癒やしを行っているということです。そして、その歩みを決めるとき、こんな思いを持って、エルサレムへの道を選択したのではないでしょうか。
「私は、自分の生命に危機があったとしても、すべての人の救いのためには行かなければならない。そしてより厳しい状況の人から救わなければならない。そのためには、まずローマではなく、エルサレムへ行かなければ…。ローマに行けば、より多くの人を救えるかもしれない。しかし、より厳しい状況の人がまず救われなければ、それも意味がない」と。
 イエスはどこにいるのか?キリストは誰の隣人であるのか?信仰的なテーマとして、教会的なテーマとして、よく用いられる言葉であります。エルサレムへの歩みも、そんな問い、テーマの文脈で考えられるのではないでしょうか。イエスは、救い主としての生活の中で、メシアとして、キリストとしての姿が求められ続けた中で、何を考え、何をなそうとしたのか、今日は考えてみました。イエスは、ユダヤ人を救い存在としての「メシア」となるのか、異邦人を救う存在としての「キリスト」となるのか、ということを、異邦人の居住する地域を放浪する中で思い悩んでいたのではないでしょうか。しかしイエスは、再びガリラヤへ赴き、エルサレムへの道を歩みました。あらためて、多くの人の病いをいやしたイエスがどんな思いであったのか、またどのように考え、エルサレムに向かったのか、心に刻んで、新しい一週間を歩み出したいと思います。

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