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『救いを得た者の歩み』(マルコによる福音書10:46−52)

2016.11.14(19:39) 329

『救いを得た者の歩み』
(2016/11/13)
マルコによる福音書 10:46~52

エルサレムへの道の途上で
 今日の箇所は、バルティマイという目の不自由な人が登場します。エリコという町。エルサレムからおおよそ20Kmの距離にある町です。そして、イエスと弟子たちがどのような状況の中にあったかと言えば、いよいよエルサレムに近づいていく中で、弟子たちの心はある思いで盛り上がっていた、と考えられます。同じ10章の少し前の箇所、マルコ福音書10章の32節から34節をお読みします。
「10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」」
 32節において、イエスが、「先頭に立って進んで行かれた」ことに関して、弟子たちは驚き恐れた、と記されています。弟子たちは、イエスを「ダビデの子」として従ってきました。そして、今の箇所の直後、今日の箇所との直後に記されています箇所(10:35-45)には、イエス様に対して、「栄光のときには、自分をその王座の右に座らせてくれ、左に座らせてくれ」と願うヤコブとヨハネ、そしてそれに嫉妬する弟子たちの姿が描かれています。イエスさまがいよいよエルサレムに行って、ダビデの子として、王となる、と思っている。また自分たちもその時には、イエス様が座る玉座の右や左に座るんだ、と考えているわけです。
 しかし、私たちが知っているように、イエスが歩んだのは、玉座への道ではなく、十字架への道でした。先ほどお読みしました箇所(10:33-34)にも、イエスの受難予告が記されています。そうした言葉を聞いていた弟子たち。他の箇所で、そうしたイエスの言葉を遮ろうとするペトロが厳しく戒められる箇所もあります。が、おそらく弟子たちは、皆、何か不安がありながらも、大きな期待を持って、イエス様の後を歩んでいたのでしょう。

バルティマイの登場
 そんな状況の中、今日の箇所イエスと弟子たちが町を出て行こうとした時、バルティマイとの出会いがありました。もしかしたら、すべての人ではないでしょうが、エルサレム入城の時に、住民は、まるで王を迎えるようであったことを知っていますが、そんな雰囲気も少しはあったかもしれない状況です。そして、おそらく町の入り口の広場の片隅にでも、バルティマイは座っていました。目が見えないわけですから、イエスが近くに来たことを、周囲の人々の態度や言葉から知ったのでしょう。イエスに声が届くように「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10:47)と叫びだしたのです。「ダビデの子イエスよ」という叫び声。
 周囲の人たちが、その声をとがめたというのは、イエスが話をしていたとか、癒やしを行っていたこともあったでしょうが、イエスがダビデの子として周囲の人たちの持ち上げられていく中で、盲目の物乞いの願いなど、イエスさまはもう聞いている暇はないんだ、という周囲の人たちの気持ちの表れとも考えられます。しかし、イエス様はバルティマイを呼んでくるよう言います。バルティマイは、わざわざ上着を脱ぎ捨てる必要は無いと思うのですが、気持ちが高まっていたのでしょう。願いが叶ってイエスに癒やされて、目が見られるようになります。そして最後の箇所10章52節をお読みします。
「10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」
 福音書には数多くの癒しの記事が記されておりますが、イエスがその後どのような言葉をかけているか、ということに注目してみると、ほとんどがその人がもともとの家族や地域社会へ帰って行くことを希望していることがわかります。「家に帰りなさい」とか「神殿に行って祭司に見せ、病気が治ったことを証明しなさい」という形が主流です。そして、今日の箇所のバルティマイに対しても、「行きなさい」と声を掛けています。
 一番単純に受け取れば、自らの家に帰ることを促しています。しかし、バルティマイはその声には従わずに、イエスの歩みに従って歩み出しました。なぜ彼は、イエスの後を追って歩んでいったのでしょうか。バルティマイはどのような思いだったのか。イエスに病を癒されましたこと。長い間、苦しんでいた「苦しみ」「痛み」から解放されました。イエスに癒された人々について、このような説明がされることが多いと思います。ユダヤ人社会においては、病から解放されたことは、罪ある状態から解放されることであり、周囲の人々から、また家族からも嫌われていた状態からも解放され、病気になる前の所属していた地域社会や家族のもとに戻ることができる資格を得たことであり、イエスさまは家に帰れと命令するのだ、と。
 しかし、本当にそうでしょうか。半分は当たっていると思いますが、半分は当てはまらないのではないでしょうか。イエス様に癒やされたとしても、その「病い」にかかる前の状態に、まるっきり戻ることになるでしょうか。完全に病であった自分を忘れて、生きていくということが出来るのでしょうか。わたしは、それは出来ないだろう、と思うのです。どうでしょうか、バルティマイのことを自分のこととして考えてみてください。目の病によって、律法によって汚れた人として見られ、罪人だと自分をないがしろにした家族や友人たち。いくら病気が治ったとしても、自分を捨てた家族や友人たちのもとに帰ろうと思うでしょうか。たとえ、病が癒されたとしても、そこにいる人は、前とは違う思いをもった人となるのではないでしょうか。そうした意味では、たとえイエスに癒された人であっても、完全の以前のその人に戻ることはない、と言えるのではないでしょうか。

救われた者の歩み
 こうしたバルティマイの姿、イエスに癒された人々の姿は、信仰を持ったキリスト者、クリスチャンにも重なるのではないでしょうか。キリスト教に出会うということ、初めて教会に行く、聖書を読むという時、誰しも何らかの心の傷や具体的な病いや喪失感など、教会の門を叩かせる理由があると思います。それを全体に「痛み」と呼ばせて頂きます。そして、その「痛み」を聖書や礼拝、また牧師のメッセージや他の信仰者の言葉や触れ合いをとおして、「癒される」「救われる」ということがあります。そして、イエスさまを自らの道しるべとして生きよう、という思いが信仰であり、その結果として洗礼を受ける、という決断に至るのではないでしょうか。
しかし、それによって、キリスト教にいたる教会にいたる動機となった「痛み」となった完全に失われるのでしょうか、ゼロになるということはあるのでしょうか。信仰を持つ、ということは、その「痛み」とされるようなことでさえも、イエスは受け入れてくださる、という思い。またマイナスの要素であった「痛み」が、プラスに変化する。今までの生き方とは根底から変化してしまう、ということが起こるのであって、ゼロになるということではない、と思うのです。改めてバルティマイはなぜイエスに従って歩んでいったのでしょうか。
 それは、自らの「痛み」が解決されたからといって、自分の喜びを自分だけのものとしておくのではなく、イエスに従って歩むことによって、その「痛み」から解放された喜びを自分ではない誰かと分かち合いたかったのではないか、またイエスさまの後に続くことによって、まだ見ぬ自分のような存在の力になりたい、またイエス様の助けとなりたい、と考えたのではないでしょうか。

痛みを担う神=イエス
 イエス・キリストは、十字架上の死を遂げた神であります。十字架の死は、イエス・キリストが私たちの「痛み」を担ってくださっている神であることをはっきりと示しており、また「弱さ」や「罪」を持つ人と共にある神であるということを示しています。バルティマイは、エルサレムへの向かうイエス・キリストの後についていきました。イエスさまはエルサレムで逮捕され、不当な裁判にかけられ、むごたらしい十字架の死を遂げました。バルティマイは、その癒やされた目によって、その十字架を仰いだのではないでしょうか。
 その後、彼はどのような歩みを歩んだのか、誰も知ることはできません。もしかして、その十字架を仰いだことによって、絶望して、家に帰っていったかもしれません。しかし、こうも考えられるのではないでしょうか。
 「ああ、やっぱりイエス様は、私の「病い」を癒やしてくださったイエス様、「弱さ」を担ってくださったイエス様は、確かに私の痛みを担ってくださる神であったのだ。私はこれからも、主なるイエスの言葉と思い出を胸に歩んでいこう」と、強く心に刻んだのではないでしょうか。そして新しい歩みを、それまでより更に力強い歩みを歩み出したのではないでしょうか。

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