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『いったい、どんな気分だい? 〜ボブ・ディランと山上の垂訓〜』

2016.11.08(22:23) 328

『いったい、どんな気分だい? 〜ボブ・ディランと山上の垂訓〜』
(2016/11/06)
ルカによる福音書 6:20~26

山上の垂訓と平地の説教
 今日のテキストに目を向けてみたい、と思います。ルカにおける「平地の説教」とマタイにおける「山上の垂訓」は、もともとイエスが語った言葉が、様々な伝承過程を経て、ルカ福音書とマタイ福音書を生んだ教会に違う形で伝えられました。その伝えられる過程において、様々な編集、手が加えられました。それらを、イエスが語った言葉を覆い隠すモノとして毛嫌いするような姿勢もありますが、少し積極的に捉えれば、イエスの言葉を伝えるための箱のようなものと考えることが出来ます。また、それらの言葉は同時に、イエスを信仰する遠き諸先輩や諸教会の信仰の証として捉えることが出来るでしょう。
 また、そうした学問上におけるイエスに関して、「史的イエス」という言い方がなされます。が、そのイエスというのは、あくまで架空のイエスの姿である、ということを確認しておきたい、と思います。なぜなら、あくまで「イエスはこのように語った、かもしれない」という結論だからです。ですから、私が「イエスはこのように語った可能性が高い」と言っても、それが必ずしも本来のイエスの言葉であるという保証はまったくありません。また、イエス自身もしかして聖書(福音書)の言葉をそのまま話していた、かもしれないという可能性もあることを忘れずにいてください。
 そんな長い前置きを語った上で、二つの言葉を比較する中でイエスの言葉、史的イエスの言葉に近づいていきたい、と思います。
1. ルカのものを読んでいきますが、20節から23節と24節から26節は、反対の意味内容になっています。ということは、24節から26節は、後から付加されたと考えることが出来ます。
2. 次にマタイ福音書を見てみます。ルカに合わせて、順番を変えています。下の方、5章5節から10節は、3節、6節、4節、11節、12節の意味を広げている、違う言葉を使って同じ内容のことと考えることが出来ます。また、それは同時に教会の中にいる人々を対象にした言葉であるので、教会向けに加えられた、と説明することが出来るので、後から加えられたと考えられます。
3. 次に、ルカ6章20節から23節とマタイ5章を比較します。それぞれ書き加えられた言葉が見られます。まず、ルカ6章20節の言葉、「貧しい人々は幸いである」は、マタイの5章3節の冒頭、「心の貧しい人々」となっており、「心の」という言葉、ギリシャ語では、「霊において」という言葉が見られません。また、二番目の言葉、6章21節、「今飢えている人々は、幸いである」は、マタイ5章6節においては、「義に」という言葉が加えられて、食べ物が足りないという具体的な課題が、精神的な課題、神への信仰への課題にされてしまっています。
4. 次に主語がルカとマタイでは異なっており、四角で囲んでいる部分に違いが見られます。ルカでは、「あなたがた」と二人称で、言葉が語られていますが、マタイにおいては、「その人たち」と三人称で、言葉が語られています。ルカ6章22節とマタイ5章12節では、それぞれ「この人々」と「あなたがた」と三人称と二人称にかえられているように思いますが、この違いは語られている人々以外の人たちを指す言葉であります。

理想と現実、日常と非日常
 このような違いから、私が考える学問的にイエスにもっとも近いと考えられる言葉、伝承として遡ることができる言葉の内容は、ルカ福音書の6章20節から23節の内容にかなり近いと考えられます。そして、要素として加えるのであれば、ルカ福音書という福音書は、経済的な課題、また献金に対して、非常に厳しい態度が貫かれているという特徴があります。そうした点も、書き加えられたであろう24節から26節に当てはまり、そうした捉え方を補うことになるでしょう。
 と、ここまで来たところで考えてみたいと思います。イエスは、この言葉を語られた人々は、どのような人々だったでしょうか?また、その人たちは、このような言葉を語られて、どんな気持ちだったでしょうか?私が想像するこの言葉をイエスから聞いた人々は、かなり貧しい人々であったと思います。しかし、「貧しさ」というのは、私たちが生きる現代社会にある「貧しさ」とは、まったく違う「貧しさ」であったと思います。誰も、毎月、給料をもらって生活しているわけではありません。毎日毎日、明日の食べ物をしれない、苦しい生活ながらも、上を見なければある程度は安定した生活であったと考えられます。
 しかし、夢も希望もない日常であり、何かしらの出来事、凶作や強盗にでも遭えば、今の状況より容易く悪くなってしまう。そしてより良い状況へ変化するということは考えられない社会です。身分によって、すべてが決められてします社会です。
 現在はお金さえあれば、地位さえも買うことが出来るので、自由といえば、自由ですが、多くの人がお金によって支配されている社会と言えます。2000年前のユダヤもそうですが、決められた身分によって手にするお金が決まっていたので今とは逆の社会と言えます。ですから、誰もが自分よりも上の人々の幸福を知っていながらも、手にすることは出来ないものであった。また、律法に支配され、様々な理想的な生活は知っていながらも、手にすることも出来ずに、誰もが下を向いて、肩を落として生活していたのではないか、と想像します。

1960年代のアメリカの状況から
 イエスは、貧しき人々に「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」と語りかけました。そして、その言葉が受け入れたのは、彼自身がそこにいることによって、ある種の「神の国」がまさにその時、その場所に現れていたからではないでしょうか。ルカ福音書17章20節21節をお読みします。
「17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」」
 1960年代のアメリカの歴史、音楽史から、いくつかの彼以前の曲、そしてボブ・ディランの曲を紹介しました。ボブ・ディラン、そしておおくのアメリカの青年たちがラジオを通して聞いたロックミュージックやフォークミュージックは、古き良きアメリカの姿と言えるのではないでしょうか。そうした良きアメリカの空気を吸って育った少年少女たちは、1960年代になり、青年となっていました。公民権運動、ソ連との冷戦の激化、核戦争への危機感、泥沼化するベトナム戦争というアメリカを取り巻く状況の中においても、古き良きアメリカの姿を繰り返し音楽を求める気持ちはあり、それが一つの波でした。
 そして、もう一つの波がありました。トピカルソング(反戦歌・メッセージを持った唄)です。そうしたアメリカの状況をなんとか変えようとする方向性をもった歌の波です。公民権運動、ソ連や共産主義陣営との冷戦構造、核戦争への漠然としていながらも具体的な危機感、そしてベトナム戦争に対して、はっきりと「否」を謳う歌の波。しかし、そうした波も理想と距離がありすぎて響かなかった、ということもあったのではないでしょうか。
そして、そうした歌のすべてが一人称もしくは三人称で歌われるものでありました。

いったい、どんな気分だい?
 ボブ・ディランの名曲、「ライク・ア・ローリング・ストーン」があれほどにアメリカの青年たちに受け入れられたのは、「二人称」で語りかける歌、「二人称」で語りかけられた歌だったからではないか、と思うのです。歌の登場する主人公は、昔は「綺麗に着飾って」「貧しい人に施しをする余裕のある」「幸せな」「お嬢さん」でした。しかし、今は、その日の食べ物にも苦労し、誰にも注目されない、転がっている石のような存在に落ちぶれてしまった女性です。
 聞いている人々は、自分たちの姿に重ね合わせたのでしょう。過去に想像した理想と今ある現実の違い。そして、自分自身だけではなく、アメリカ全体にも重ね合わせたのかもしれません。また歌には不思議な力があると思うのは、幸せな内容の歌詞よりも、不幸な現実、誰もが見たくもないような現実、誰もが目を背けたい現実を言葉にすることの方が本当の意味で力になる、という歌が「ライク・ア・ローリング・ストーン」だったのではないか、と思うのです。
 そして、奇しくも現在「山上の垂訓」「平地の説教」と呼ばれている言葉にも同じような力があったのではないか、と私は想像しているのです。ルカ福音書6章20節後半と21節をお読みします。
「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。 6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」
 二人称で正面から語りかけます。そこには条件や理想もありません。あの人たちでも、わたしでもなく、聞き手である「あなたたち」に直接に語られます。そして、こんな堅い言葉ではなく、次のような言葉、意味合いで、語りかけられなかったのではないでしょうか。

「よ、いったいどんな気分だい?貧乏も幸せかもよ、何にも無いけど、ここが神さまの国かもしれないよ。腹も減ったよな、でもその分、明日の飯は美味いかもよ。悲しいことばかりだよなあ、でも明日になったら笑えること絶対あるって。」

 そんなふうに、イエスは語りかけたのではないでしょうか?貧しい状況にある人々、しんどい思いにある人にこんなことを言えば、普通は怒られます。しかし、イエスだからこそ、持ち得た関係がそこにはあったのではないでしょうか。理想的なことばかりいうファリサイ派の人々、律法であるべき姿ばかりを語りかける律法学者たち、どちらの声も彼らには響かなかったでしょう。
 おそらく、誰も「貧しき人々」の心に響く言葉を持っていなかったのです。しかし、イエスだけは、言葉だけではなく、その働きと触れ合いにおいて、人々の心に染み渡る言葉を語り得たのではないでしょうか。そこにこそ、これらの言葉の本当の大切さが込められているのではないか、と感じています。

(実際の説教では、前半部分で1960年代アメリカの歴史の略年表や
オールディーズやフォーク、ボブ・ディランの曲を流したり、聖書の対照表を見ながら、
行いましたので、実際の内容と原稿で違いがあります)

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