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『イエスも出会いから学んだ』(マルコ福音書7:24〜30)

2016.10.02(19:01) 324

『イエスも出会いから学んだ』


2016/10/02


マルコによる福音書 7章24~30節

 

イエスという存在

 イエスは人であるのか、神であるのか。人としては、ナザレのイエスと呼ばれている2000年前のパレスチナを生き、様々な罪人として呼ばれた人たちの隣人として生き、当時の宗教家や政治家たちの恨みを買い、処刑されてしまいました。そして、神の子としては、どのような歩みであったでしょうか。旧約聖書(ユダヤ教聖書)に記されたアブラハム、イサク、ヤコブの神の不思議な働きによって、マリアというユダヤ人の女性の子として生まれ、私たちの罪をあがなうために十字架上の死を遂げ、復活しました。その教えと歩みは12使徒たちへと受け継がれ、教会の礎となりました。

 イエスは、いったい具体的にはどのような人であったのでしょうか?頭は良かったのか?たぶん、いろいろな議論で勝っているから、頭は良かったはずだろう。手先はどうだろう?体力は?大工の子だったのだから、手先は器用だっただろうし、体力もそれなりにあっただろう。しかしこれ以上のこととなるとどうでしょうか。例えば、食事の好みは?大酒飲み、大食漢だったのか?性格的には?あまり怒らなかった?それとも怒りやすかった?神さまの子どもだから、怒らなかった、という人もいるかもしれません。また、今日の箇所や神殿で商売をしていた人たちや他の人たちにも怒っているから、もしかして、怒りっぽかったかもしれない。いろいろ考えられます。

 しかし、どうでしょうか?現在の日本においても、様々な差別問題があります。民族差別や男女差別など、そうした課題に対して、イエスはどのような考え方、価値観を持っていたのでしょうか。今日の箇所は、そんなイエスの人間性についても議論となる箇所です。

 

神学的イエス

 今日の箇所において、イエスは、今まで活動していたガリラヤ、ユダヤ人たちが住んでいる地域を離れ、ティルスという場所に向かいます。地図で確認してみますと、ティルスはイスラエルの北、地中海に面した町でフェニキアという地域に属しております。フェニキアもガリラヤ・ユダヤと同じくローマ帝国領であります。

 24節に「誰にも知られたくないと思っておられた」と記されています。多くの注解書において、「疲れていた」といった説明がされています。が、噂はユダヤ人を超えて、ガリラヤ地方を超えて、ティルスにまで伝わっていたのでしょう。イエスという病を癒す奇蹟行為者が来ているという話を耳にして、この女性がイエスのところに来たことによって、話が始まります。

 女性はイエスの足下にひれ伏し、娘に取りついた悪霊を追い出すことを願います。イエスは答えます。727節をお読みします。

 「まず、子供たちに十分食べさせなければならない、子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

 「子供たち」とはイスラエルの民のことでありましょう。ユダヤ教聖書に記された神を自らの神としてイエスが「父」と呼びかける神を神としている人々であります。そして「子犬」とは異邦人のことを指しています。イエスは要約すると「まずイスラエルの民から救われるべきで、異邦人はその後だ。だから娘さんのことは我慢しなさい」と言っているわけであります。

 フェミニスト神学(女性神学)の立場などからは、大まかにこのような指摘がされます。イエスの福音書の伝承には、初代教会の有り様が反映している。初代教会は、男性中心的であり、ユダヤ人中心的であった。(『豚に真珠』〔マタイ〕、などの用例)そうしたことに対する批判として、異邦人であり、女性であるこのフェニキア出身の母親がイエスに対して、否と唱えているのだ、という説明です。しかし、この説明に問題があるなあ、と思うのは、イエスという人が一切出てこない、ということです。このお話は、まったくの作り話なのでしょうか。そうとも言えないのではないでしょうか。

 初代教会の考え方としては、イエスが伝えた「福音」もしくは「イエスがその教えと歩みと死と復活」を通して、自分たちに示してくれたことは、ユダヤ人から始まり、それから異邦人に伝わっていった、というのが教会の歴史であり、一般的な考え方でありました。


ユダヤ人イエス、貧農イエス

 また、ユダヤ人イエスという人格に引きつけて、イエスもユダヤ人としての限界があったという視点で読み解くこともあります。イエスも限界のあったユダヤ人であり、男性であった。ガリラヤにおける宣教活動で疲れきっていたイエスは休みを取るために、ティルスに行った。そのような状況の中では、助けを求める人、癒やしを求める人の気持ちに答える気にもならなかった。そして外国人、それも女性の願いであったので、つい癒やしを断ろうとして、あのような言葉を言ってしまった、という説明がなされます。また、イエス自身、自分はイスラエルの民から救うのが最初の役目、そしてその次に異邦人を救う、と考えていた、という説明もあります。

 また、この女性に注目してみると、かなり裕福であっただろうということが想像できます。「シリア・フェニキアの生まれ」(7:26)という説明があります。フェニキア人とは、大まかに触れますと紀元前15世紀ほどから地中海において貿易を広く行っていたとされています。そうしたことから事実としても裕福であったでしょうし、著者の意図としても、裕福な民族、家庭の母親とその子である、ということを示したかったのかもしれません。ティルスという町もローマ帝国からすれば、貿易港として、ユダヤ人地域の入り口として、豊かな町であったはずです。

 そうした設定としてお読みしますと、イエスは、ユダヤ人であるとかないとか、異邦人であるとかないとかではなく、貧しい者、小さくされた存在にこそ、神の恵み、神の業が下るべきである、と考えていた、ということになります。もしかして、福音書記者が伝えたかったことは、女性がどうとか、外国人がどうとか、ではなく、この点であった可能性も高いのではないでしょうか。

 

イエスという人の歩みから

 いろいろな可能性に触れてみました。しかし、人としてのイエスを考えた場合、これらのことは当たらないという可能性もあるのです。イエスはガリラヤのナザレという町で育ちました。そして、ナザレで大工の息子として、また一人前の大工として30歳ぐらいまでは生活していたはずです。ナザレのあるガリラヤは、エルサレムがある南側のユダ地方に比べれば、ローマに近く、多くの異邦人たちが生活しており、イエスも生活の中で様々な機会に異邦人たちと触れあっていたのではないか、と考えることができるのです。

 イエスがナザレに生きた時代、ナザレから北にわずか6.4kmの場所にセッフォリスという町がありました。紀元前2世紀にガリラヤの首都的な都市として建造され、最大の推定人口は、2万人。イエスの青年期には、大きな改修があり、ローマ風の町として建造されました。4000人が座れる劇場があり、公文書保管所、宝物庫、武器庫、銀行、学校、法廷、市場などもあったそうです。

 イエスが曲がりなりにも大工として生計を営んでいたのであれば、絶対に、この町の建設に関わったはずです。この町は、ユダヤ人の町ではありましたが、多くの異邦人たちもその町の機能から訪れていたはずで、建築に関わったイエスは、ユダヤ人だけではなく、異邦人とも触れ合っていたでしょう。そして、ローマ風の町ということでしたが、そこに住むユダヤ人たちもエルサレムのユダヤ人のような律法中心の生活ではなく、ローマの文化や風習で生活を営んでいたと想像することができます。

 

解釈に頼る私たち

 これらの背景から今日の箇所に戻って、考えてみたいと思います。イエスさまはなぜ、この女性の願いを断ったのでしょうか。現在の私なりの結論は、イエスがただ疲れていたから、つい断ってしまった、というところではないか、と思います。キリスト教からすれば、神学的な角度で見ることによって、教会の歴史として捉えることによって、イエスの間違った行動を神の計画として位置づけることによって心に納めようとする。また、イエスが限界を持った男としての側面も、教会の間違った伝統が現れた一側面として理解する。そして、どちらもイエスの神性、そして理想的な人間性を前提とした理解、また守ろうとする理解です。そして、どちらもイエスは失敗などしない、という思い、信仰が前提となっている、と言えないでしょうか。そうではない、読み方もあるべきだと思うのです。イエスも一人の人間であり、ちょっとした間違いも起こしてしまう、ということを素直に受け止めるべきではないでしょうか。

 そして、そうした姿勢は、イエスをメシアとして担ぎ上げようとしていた人々と同じ姿勢かもしれません。ローマ帝国の支配から救ってもらえると思っていたユダヤ人の群衆、新しいユダヤ人の王となると考えていた弟子たち、そうした人々の思いがイエスを十字架への道を歩ませることになった、と言えるのです。


女性の立場

 またユダヤ人社会においては、たしかに女性蔑視の視点が強かったでしょう。ですが、異邦人社会においては、かなりの部分において、女性と男性の地位の差は縮められていた、と考えられます。そうした現れとして、女性が財産を持つということも捉えられ、福音書にも財産を持っていながらも12年間も出血に悩んでいた女性や今日のシリア・フェニキアの女に登場する女性も捉えられるのではないでしょうか。注解の中には、「女性が男性に直接、癒やしを求めることなどあり得ない社会だった」といったものもありますが、そうした事実と整合性がとれないのではないでしょうか。そうした視点というのは、現代社会に広く広がっていた女性蔑視の視点を古代に適応させたもので、確かに平等であった、公平であったといえないでしょうが、今とは違う形のものであった、と言えるのではないか、と思うのです。

 

新しい出会いを通して

 物語の話に戻りますが、元来の核となっているお話は、イエスは疲れていた、そして「今は勘弁して欲しい」という思いで、ついまず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。7:27)と言ってしまった。しかし、それに対して、このフェニキア人の女性の「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(7:28)の言葉に、一本取られたと思い、いやしたのではないか、といったところではないか、と思います。ここから読み取るべきことは2つあります。1つは、強い影響力のある人は、ちょっとしたことでも特別なこととして捉えられることがあるから気をつけた方が良い、ということです。

 聖書に書かれて、2000年経っても、この行動にはどんな意味があるのだろうか、と議論されてしまう。ほんとにちょっとしたことであっても、人から見れば、あの人はあんなに良い人なのに、実は、人種差別主義者だった、とか、女性差別主義者だった、とか、最終的には自分のことばっかり考えている自己中心的な人だ、と受け取られてしまうという良い例と言えるのではないでしょうか。

 そして、もう一つは、疲れているときは自分の行動に気をつけよう、ということです。何かしら、自らは小さなことと思うようなことでも、とても大きな失敗に繋がることがあるからです。また、その助けの言葉は、その女性と子どもが上げる最後の声だとしたら、どうでしょうか?助けを求められる人、イエスにとっては、多くの助けの言葉の1つかもしれない。また、その「助けて」の言葉が、最後の言葉であったらどうでしょうか。助けを求めることとは、時に簡単なことではないことがあります。この女性は大きな決意と熱意と勇気をもってイエスのところへやってきて、癒やしを求めました。様々な注解書や様々な説教においても、そうしたことが強調されます。民族性を超えて、宗教を超えて、この人はイエスに助けを求めに来た、そのような姿勢に学ぶにきた、と。

 最後に致しますが、イエスは、この女性と出会ったことによって何かを学んだ、と思います。それは自らが望むか望まないかに関わらず、メシアとして、キリストとして、歩むときに気をつけるべきこと、心がまえみたいなものではないでしょうか。どんなに疲れていたとしても、助けを求める人にとっては、その時が決定的な時である場合もある。そして、何か重要な事柄であったとしても、人の存在を無視することはできない、ということ。もしかして、ここにおける経験が、「良きサマリア人のたとえ」へと繋がっているのかもしれません。


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