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『不都合な癒しこそ本当の救い』(ルカ福音書6:6〜11)

2016.09.25(18:15) 322

『不都合な癒しこそ本当の救い』
(16/09/25)
ルカによる福音書 6:6~11

イエスとファリサイ派の人たち
福音書における律法に関する箇所は、マルコ福音書における物語の構成、順序に従っています。マルコ福音書において、イエスはまずバプテスマのヨハネから洗礼を受け(Mk1:1-11)、悪魔の誘惑を受け(Mk1:12-13)、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との言葉に基づき、伝道を開始します(Mk1:14-15)。それからペトロなど4人を弟子とし(1:16-20)、いくつかの癒やしを行うのですが、その後半部において律法の議論が加わるようになってきます。マタイ福音書とルカ福音書も、そのマルコ福音書に基づいて記されていますので、だいたいの順序は変わらず、今日の箇所が、癒やし物語の最後、律法議論の最後のテキスト、逸話となります。
 冒頭、あえて「ほかの安息日に」と、わざわざ直前のテキストとは違う日であることを強調しています。これは、単に事実として他の日であったこともあるでしょうが、こうしたようなイエスの行為が、様々な形で繰り返されていた、ということを示していると受け取ること出来ます。どのような仕事をしてはならない日、どのような働きも行ってはならない日であった安息日にイエスと弟子たちは、麦の穂を摘み、癒やしを行います。律法においては、禁じられている罪人と呼ばれる人と共に食卓につき(Lk5:27-32)、そして、安息日規定などの律法をあえて破り、癒やしを行っています。
 そうしたことが積み重なったから、ファリサイ派や律法学者たち、そしてヘロデ派などのイエスとは違う立場の人々はイエスの存在が邪魔になっていきます。今日の箇所の最後、6章11節には、「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」とあります。が、同じ箇所のマルコ福音書では、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」
 マルコにおいても、マタイ、ルカにおいても、この箇所の直後に、十二弟子を選ぶ記事、召命の記事があります。その前に配置されることから、二つのことを言えるでしょう。あくまでファリサイ派や律法学者のそれとは違うものとして、分離したものとしてイエスと弟子たちの活動が始まっていたのだ、ということ。またもう一面、その始まりから危険が伴うもの、敵対者たちの敵意からはじまった、といえるかもしれません。

パラリンピックと「感動ポルノ」
 8月5日から21日まで、ブラジルのリオデジャネイロにて、オリンピックが開かれました。開会式では、ヒロシマへの原爆投下をテーマにした場面があり、話題になりました。また、大会自体でも、日本人選手に限らず、大きな感動を呼ぶ場面がたくさんありました。また、閉会式では、ゲームのキャラクターにA首相が出てきて、なんじゃこりゃーと突っ込むと同時に、これがスポーツの政治利用という教科書的題材を提供してくれました。
 また続く形で、パラリンピックが、9月7日から18日の日程で行われました。競技をハイライトという形で放送されることが多かったように思います。これには様々な競技が、障がいの度合いによって分けられており、健常者のオリンピックよりも競技数が多いことも関係しているでしょう。私自身、あんまりオリンピックやパラリンピックは、あまり好きではないのですが、それなりに楽しみました。どこかひっかかってしまうのです。オリンピック、またスポーツというものは、基本的に競争するものです。努力し、記録を伸ばしていくこと、強くなっていくことを目指すものです。しかし、目指すことが出来ない人もいる、ということを思い、違和感を持ってしまいます。
 また特に、そんな強く持つ場面となったのが、パラリンピックの開会式の場面、階段がスロープにかわった場面です。一面的には、とても感動的な場面です。障がい者の苦労が技術の進歩によって美しく解決するという場面。しかし、こう思ってしまうのです、だったら最初からスロープにしておけば良い、と。階段である必要は無いでしょ、と。そうした場面、時々目にすることがあります。駅や様々な施設で。階段が正面にあって、スロープが端に追いやられていたり、エレベーターなどが不便な場所にある。であるのであれば、全部スロープにしても良いのでは?スロープを健常者の人たちはあがれないのでしょうか。そんなように少し違う視点から考えてみますと、あの開会式の演出は、障がい者が障がいを乗り越えていくというのではなく、健常者の自己満足に過ぎないのでは無いか、という思いがします。「感動ポルノ」という言葉があります。アメリカのTEDにステラ・ヤングさんという方が講演をしたときに紹介した言葉です。彼女は2014年に亡くなっていますが、その講演を紹介します。

「私はビクトリア州の田舎の、とても小さな町で育ちました。ごくふつうの、穏やかな家庭です。学校へ行き、友達と遊び、妹たちとケンカし、といった具合にとても「ふつう」でした。私が15歳になった時のことです。地元のコミュニティのメンバーが私の両親のところへ来て、私を地域の「達成賞」にノミネートしたいと言いました。そのとき、両親はこう言いました。「とてもありがたいお話ですが、ひとつ明らかな問題があると思います。彼女は何も『達成』していないと思うんですが。(笑)
…「数年後、私はメルボルン高校で2年目の教師生活を迎えていました。法律に関する11年生向けの授業で、20分くらい経った頃でしょうか。1人の男子生徒が手を挙げて、私に尋ねました。「先生、いつになったら講演を始めるんですか?」「何の講演?」と私は訊き返しました。名誉毀損について、20分ほど説明してきた後のことです。生徒は言いました。「何か、感動するようなスピーチですよ。車椅子の人が学校に来たら、ふつうは人を感動させるような話をするものでしょう?たいてい大きな講堂でだけど」(会場笑)
…(こんな言葉が語られます)「ネガティブな態度こそが、この世で唯一の障がいだ」「言い訳は通用しない」「諦める前に、やってみろ!」
これらはほんの一例に過ぎませんが、こういったイメージは世の中にあふれています。みなさんも、両手のない少女がペンを口にくわえて絵を描いている写真や、義足で走る子供の写真を見たことがあるのではないでしょうか。こういう画像はたくさんあり、私はそれらを「感動ものポルノ」と呼んでいます。(会場笑)
「ポルノ」という言葉をわざと使いました。なぜならこれらの写真は、ある特定のグループに属する人々を、ほかのグループの人々の利益のためにモノ扱いしているからです。障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしているわけです。
…私たち障害者は、それぞれの精神力と忍耐力をお互いに学びあっています。身体的特徴や病症に対してではなく、私たちに特別な業績を期待し、モノ扱いするこの社会に対抗するための知恵です。私たちが今までつき続けてきたこの嘘は、大いなる不正だと思っています。この嘘が、私たちの人生をつらいものにしているのです。「ネガティブな態度こそが、唯一の障害だ」というさきほどの言葉、あれは間違っているだけでなく、この社会における障害の捉え方なのです。
 どれほど笑顔を振りまいても、階段をスロープに変えることなどできません。決して。(会場拍手)
…私は、障害が例外としてではなく、ふつうのこととして扱われる世界で生きていきたいと望んでいます。部屋で『吸血ハンター 聖少女バフィー』を見ている15歳の女の子が、ただ座っているだけで何かを達成したと思われることのない世界に生きたいです。朝起きて名前を覚えているだけで喜ばれるような、程度の低い期待をされることのない世界。そしてメルボルン高校の11年生が、新しい先生が車椅子に乗っていてもまったく驚かない世界で生きていきたいのです。…」

(※引用テキストURL http://logmi.jp/34434)

罪について-的を外す
 律法は、文章としては多くの場合「してはならない」こと、またそのしてはならないことをしてしまったときの罰を規定しています。そして、それは時間であったり、場所であったり、人との関係であったり、物について何が浄く何が不浄であるか、そして食事について、何を食べて良いか悪いか、誰と一緒に食べて良いのかいけないのか、ということを規定しています。
 そうした尺度から、今日のテキストを捉えてみた場合、時、時間という尺度でいえば、安息日という癒やしを行ってはならない日に癒やしを行っています。そして場所という尺度でいえば、イエスはわざわざ、この人を真ん中に連れてきて癒やしを行っています。場所としても、望まれない場所で行っているといえます。エルサレムにある神殿には、男性が入れる場所、女性が入る場所、障害を持った人がいる場所が決まっていたと言われています。そうしたことから病人が会堂の中央に立つということ、また律法に違反するであろう行為をその場で行うというのは、かなり大きな違和感をもたれる行為であったことは、容易く想像することが出来ます。
 律法の話ではありますが、罪という言葉、ギリシャ語で「ハマルティア」と発音しますが、「的をはずす」「正しい道から離れる」という意味があります。イエスの敵対者であったファリサイ派や律法学者の人々からすれば、この癒やし行為は、まさしく場違いな行為、間の悪いの行為、「的を外す」行為であります。そうしたものの繰り返しによってイエスは敵意をもたれ、さらには、マルコ福音書にあるように、イエスに対して殺意を抱かせるようなことになっていったのでしょう。

不都合な癒やし
 今日の説教題は、「不都合な癒やしこそ本当の救い」としました。ファリサイ派などのイエスと敵対する人々にとって、イエスが行った数々の癒やしはあらゆる意味で不都合であったのではないか、と感じるのです。今日の箇所では、安息日で聖所ということは、時も場も都合が悪く、さらに右手の自由がきかないということは、ある意味、当人にとっては昨日、突然、不自由になったわけでもないのだから、わざわざ今日しなくても、聖所でしなくても、イエスの行動に好意的な人であったと考えたかもしれません。しかし、あえてイエスは癒やしを行います。
 そして、その癒やしの前にこのように言っています。6章9節。
「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
 ファリサイ派の人たちではなく、私たちにもこの言葉は向けられているかもしれません。「場違い」なこと、「間の悪い」こと、と日常生活の中で、様々な形で誰もが感じるはずです。イエスはそうしたちょっとした私たちの思いや行動に対して、否を唱えているのではないでしょうか。この右手が萎えた人の癒やしは、ファリサイ派や律法学者たちにとって、自分たちが大切にしている教えや言い伝えにとって、とても迷惑な出来事でありました。だからこそ、あえてイエスは、明日でも明後日も良いはずなのに、誰もがそろっている会堂にて、安息日に癒やしを行いました。ファリサイ派などのイエスの敵対者たちには挑発的な行為であったでしょう。ですが、同時に、そこにいた一般のユダヤ人たちにとっても、迷惑な行為であり、「不都合な癒やし」でありました。

本当の救い
 ステラ・ヤングさんの講演を紹介しました。ステラさんだったら、あのパラリンピックの開会式を見て、どのような感想をもたれるでしょうか。また、ステラさんは、どのようなパラリンピックが理想的だと思っておられた、と想像しますか。私が考えているのは、オリンピックとパラリンピックという区別もなくなされること、「健常である」ことも「障がいの一つ」として、競技がなされることではないか、と思います。そして、あらゆる施設が、バリアフリーになったら、とってもすばらしいのではないでしょうか。そんなことが実現すれば、2020年の東京オリンピックも(少しは)意味があるかな、とも思います。しかし、どれだけ革新が進んだとしても、完全に平等とか、差別がなくなるというのは、難しい、と私は思います。
 イエスは、あえて安息日において、会堂の中央において、癒やしを行いました。そして、さらに「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(6:9)といった発言で、ファリサイ派の人々や他の敵対者を挑発したのでしょうか。その根底の思いには、人の生命の重さ、人の存在の重さは、どのような状況においても、神が与えた律法よりも重い、と考えがあったからではないでしょうか。
 世の中は、様々な人の集まり、共同体、があり、何かを大切にしています。そして何かしらの序列、順番という物が必ず存在します。また技術の発展において、様々な形で人という存在、人の生命がないがしろにされるような状況が意図せずに貶められたり、危機にさらされたりすることがあります。そして特に、多くの場合、弱い立場の人へそうしたしわ寄せがいってしまいます。イエスさまは、そうしたすべて序列やしわ寄せに「否」を突きつけられるのではないでしょうか。そして、時にそうしたイエスの言葉や態度は、わたしたちにとっては、「不都合な」ものとして感じるものであるかもしれません。しかし、実は、そうした私たちやファリサイ派の人たちにとっては「不都合な癒やし」こそが、虐げられた人の「本当の救い」には繋がるものである、と言えるのではないでしょうか。

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平等と正義のイラスト                     自転車練習

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