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『共感共苦共同体』(コリントの信徒への手紙一 12:21〜26)

2016.09.13(20:20) 321

『共感共苦共同体』
(2016/9/11)
コリント人の信徒への手紙 一  12章21~26節

あるロボットのエピソード
  『プルートウ』(浦沢直樹著)というマンガがあります。誰もが知っている漫画家の手塚治虫さんの作品「鉄腕アトム」を元にしたマンガです。マンガの舞台は近未来、その世界ではアトムのように、ロボットがたくさん人間と一緒に生活をしております。ロボットらしいロボットもいますが、人間とは変わらない外見を持つロボットが生活をしています。登場するロボットたちは、仕事を持ち、夫や妻といった家族を持ち、感情があり、どうやら疲れもたまる、そして過去の経験の痛みを持ち、悩んだりもしている。悩みが深まると体の調子が悪くなり、お医者さんではなく、技師さんのところへ行き、治療ではなく、メンテナンスや修理をしてもらっている。心の悩みなどもお医者さんではなくエンジニア(技師)さんのところへ相談に行ったりします。
 そんな中で、ある夫婦のロボットの夫の側が不慮の事故で亡くなって(壊れて)しまいました。遺体(部品)はバラバラに処理されてしまいました。仕事の同僚であったロボットがその死(破壊)をその妻のロボットに知らせに行きました。夫を亡くした妻の側のロボットが悲しみに暮れていました。そんなとき、その妻のロボットに夫の同僚だったロボットがこんな提案をしました。「(だんなさんのロボットの)記憶、データを消去しましょうか」。

「感情」の様々な連鎖
 2011年3月11日に起こった東日本大震災から、ちょうど5年半の時が過ぎました。時の流れの中において、徐々に悲しみの記憶が薄れていくということ、また過ちの過去というものが薄れていくことが感じます。しかし、身近な人、家族を亡くした人などにとっては、なかなかその記憶が薄れる、ということはないでしょう。またその中で、震災遺構についてどうするのか、という課題があります。津波によって陸に打ち上げられた船や避難ビルといった震災遺構を、残すべきか、それとも消し去るべきだろうか。このような言葉を聞きます。「家族の死を思い出すので、無くして欲しい」。また、こんな言葉もあります。 「風化してしまうので、残して欲しい」。当然の言葉です。そこで考えてみたいのです。医療と言っていいのか、技術と言っていいのか、人間の記憶が、瞬時に消せるような医療行為や技術が開発されたらどうでしょうか。
 また、9月11日といえば、2001年にニューヨークの世界貿易センタービルへ航空機が突っ込んだことで知られる同時多発テロが起こった日でもあります。イスラム原理主義集団「アルカイーダ」と、その指導者ウサマ・ビン・ラディンによってなされたとされました。その直後10月7日に、そのアルカイーダを倒すという名目でアメリカ軍はアフガニスタンへと進行しました。さらに2003年、アメリカ軍はイラクへと侵攻し、イラク戦争として知られる戦争が始まりまってしまいました。そして現在、イラク戦争の結果生まれた「イスラム国」という集団によって世界中が混乱状態に陥ってしまっています。

コリントという都市の中における教会
 今日の箇所は、パウロの教会の理想について、語っている箇所です。パウロは、教会、信仰を持って集う人々は、主なるイエス・キリストの体として一体である、という思いをもっていました。この箇所、「一つの体、多くの部分」と小見出しがついております。この手紙の受取手であるコリントの教会では、人種や文化など多くの違いなどから、教会内において、様々な争いがありました。パウロはそのような状況に関して、この手紙により、様々な状況に対して、具体的なアドバイスを送っており、様々な違いがありながらも、一致すべきだ、という強い思いを持っていました。コリントという都市は大都市であり、様々な文化、宗教が乱立する国際都市であり、様々な文化が入り交じっていました。
 そうした人々は、ユダヤ教やキリスト教が持つある種の生真面目さから改宗したということがあった、と言われています。ですが、そうした生真面目さ、信仰的な強さというものは、時に他者、隣人に対する厳しさへとも繋がります。コリントという都市様々な文化や宗教を背景とした人々が生活する都市でした。そしてそうした有り様はある立場の人々から文化的宗教的な乱れと捉えられる人もいたでしょう。また、そうした乱れを嫌って、キリスト教会が持っていた生真面目さから教会に足を運び、信仰を深め、強い信仰者となった人もいたでしょう。しかし、そうした「強さ」が時に、自分とは同じようには出来ない「弱さ」を持つ人々への厳しさへと繋がるということが起こっていた。そして時に、これは現代の教会の課題であると思います。そして、一般社会においても、自分とは違う存在とどのように共に生きるのか、ということ。また何か、争いが起こったとき、戦争が起こったとき、自らの家族に殺されたときなど、どのように和解すべきか、どのように共に生きるか、ということにも繋がるのではないでしょうか。

「弱さ」からつながりへ
 アメリカで起こった911同時多発テロ事件の犠牲となった方の遺族たちから、「ピースフルトゥモローズ」という活動が生まれました。テロという出来事に対して、加害者対犠牲者という枠組ではなく、同じ子どもを失った遺族として繋がっています。また、フランスのパリで昨年11月13日に起こった劇場やサッカー場、店舗などで同時に起こった銃撃や爆弾によって起こったテロ事件。被害者の遺族の方々の怒りも聞かれましたが、同時にある遺族のこのような言葉があることを報道で知りました。
「金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。
 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。([私という]プレーヤーはまだここにいる。)」


「弱さ」に基づいて共に
 今日の箇所、パウロは教会のあるべき姿を記しています。パウロが言いたいことを一言でいえば、こうです。人間の体は、部分部分によって、違いがありながらも、一つに結びついて、それぞれの役割を果たして、互いに重んじられている。「強さ」を持つ場所もあり、「弱さ」も持つ場所もあり、それと同じで教会にも強い人もいれば弱い人もいる、そうし違いがあっても、互いに重んじ合うべき、互いに支え合うべきである、と。
 様々な災害やテロ事件、そしてそれに続く報復の連鎖について、例を上げさせて頂きましたが、報復の連鎖とは、「強さ」に対して、「強さ」で対抗しようとすることと言えるのではないでしょうか。そして、それに対して、「強さ」という形でテロ事件が頻発する。それに対して、「弱さ」で繋がることは出来ないのだろうか、ということを感じます。「強さ」とは、違う角度から見れば、私たちに与えられている様々な能力と言えると思います。キリスト教的にいえば、それは「賜物(タラント)」と呼ばれるものでありましょう。そして、この世的に言えば、それらは家族の中での役割であったり、社会の中における役割であったり、職業に結びついたり、立場に結びつくこともありましょう。ですが、そうした職業や立場というものは、同じ仕事や近い分野であれば、繋がることもあるでしょうが、まったく違う立場や世代、人種や文化的な背景などでは、そうした繋がりを作ることが困難であり、逆に、敵対してしまうこともあったりします。
 しかし、「弱さ」においては、どうでしょうか?社会的立場や職業、国籍、人種や文化、そうしたものを超えて、繋がる可能性を持っているのではないでしょうか。先ほど、紹介しましたアメリカの同時多発テロから生まれた「ピースフルトゥモローズ」は、国籍も宗教も超えて、テロや戦争の犠牲者の母の「悲しみ」という感情によって、つながりました。また、さまざまな災害における悲しみからの回復においても、本当に必要な視点というのは、「強さ」によって解決するという姿勢ではなく、「弱さ」に基づく態度、また支援ではないでしょうか。

「弱さ」=人
 冒頭に触れたロボットは「あの人の思い出…消さないで…」と、同僚のロボットに答えました。悲しみが癒されること、長い道のりが必要であると感じます。しかし、人は医療が進歩して、たとえ技術が発展して親しかった人との別れを消し去る、ということが出来るようになったとしても、そのような選択をすることはないのではないでしょうか。また、そうした洗濯が出来るようになったとしたら、それは人間と言えるのか、という課題が出てくるように思います。
 心の傷が癒やされるためには時間が必要であり、「弱さ」に対して、「弱さ」を寄せることが、時間がかかるかもしれませんが、本当の癒しが始まるのではないでしょうか。また、そうした「弱さ」にこそ、私たちの本質があり、「弱さ」を捨てることは自分自身を捨てることにも等しい行為なのかもしれません。

共感共苦共同体
 聖書の話に戻ります。パウロは元ファリサイ派でありましたが、キリスト者となり、使徒と呼ばれるほどの宣教者となりました。パウロの活動がとても積極的なものであり、新約聖書に記されております数多くの手紙、イスラエルから小アジア全域までに至った宣教の旅、そしてそれに伴う先ほど触れましたエルサレム教会への献金を集める活動を進めておりました。そうした意味で言えば、大きな「強さ」をもった人でありました。しかし、実は彼自身は、「弱さ」に基づく信仰、力を持って、宣教者として使徒としての歩みを歩んだと言えるのではないでしょうか。
 パウロ自身も、キリストの十字架の前において、自らの強さではなく、弱さを誇るようになりました。パウロは第二コリント書12章9節でこのように記しています。
「…「…だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(P.339)
 今日の最後の箇所、第一コリント書12章26節をお読みします。
「12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
 日々の生活の中において、私たちは常に「強さ」というものを重んじてしまう癖をもってしまってはいないでしょうか。そして、そうした私たちが求める「強さ」によって、隣人と敵対してしまってはいないでしょうか。しかし「弱さ」は違います。「弱さ」にこそ、あらゆる人と人をつなげる可能性を持っているのではないでしょうか。
 今日の説教題は、共感共苦共同体としました。そして、これこそ教会のあるべき姿ではないか、と考えております。私たちは時に、苦しいときにこそ、「強さ」に頼ろうとしてしまいます。コリント教会も混乱の中において、誰もが来るしさを感じていたでしょう。しかし、そうした時にこそ、「弱さ」に立ち返ること、自分たちの本当の姿に立ち返ることが必要なのではないでしょうか。私たちはどのように強さを誇っても、キリストの前においては、か弱き羊でしかありません。そして同時に、教会の枝であり、キリストの身体である教会を形作る1人1人であります。パウロが自らの「弱さ」を誇ったように、私たちも自らの本当の姿、「弱さ」を持ち寄って、キリストの身体としての歩みを進めることが、主なる神より求められている、と感じます。

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