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『神中心的律法主義者イエス』(ルカ福音書6:1-5)

2016.08.21(20:18) 319

『神中心的律法主義者イエス』
(2016/8/21)
ルカによる福音書 6章 1~5節

ユダヤ教のセクトについて
 律法とは、イエスが生きた当時のユダヤ人たちにとって、法律であると同時に、倫理観や道徳観というものの規範でした。しかし、歴史の中の様々な出来事の中で、受け取り方の違いや考え方の違いが生まれていきました。イエスの時代であれば、敵対者としてよく登場するファリサイ派、律法学者、サドカイ派などが知られています。また聖書には登場していませんが、エッセネ派やシカリ派などが存在していました。また、福音書の読み方として、このような間違いをしている場合が多いように思います。それは、ファリサイ派やサドカイ派といった人たちが伝統的なユダヤ人たちのあり方だ、という考え方です。しかし、それは間違っています。少なくとも、彼らの考え方というのは、イエスが生きた時代から200年前から100年前ぐらいから出てきたことであり、別に伝統的なユダヤ人の考え方を表しているわけではありません。
 彼らも、イエスとイエスの弟子たちのように、神様の説明や律法の解説を行い、ある意味における伝道活動や宣伝活動を行っていたのです。ですから、イエスという自分たちとは違う考え方を持つ人がいると、自分たちの方がより正しい律法理解を持っている。より神さまへの信仰を持っているのだ、という勝負をかけてきたわけです。つまり、彼らもイエスたちのように、自分たちなりの律法理解を広めようと、ある種の宣教活動をしていたいえるわけです。

律法理解における主な尺度
 イエスの敵対者として、よく登場するファリサイ派と呼ばれる人々がいます。「ファリサイ」とは、「分離する者」という意味で、自分たちを特別な存在として、考えていました。彼らは、神殿や王族といった存在をあまり重んじていませんでした。その代わりに、生活の中における律法の実践を事細かに深めていきました。いわゆる律法主義というのは、彼らの姿勢を指すものとして用いられている言葉と言えます。
 彼らは、都市に住む比較的富裕な人たちや知的階級の人々が所属していることが多かったと言われています。そして70年のユダヤ戦争において、神殿が滅びて祭司階級の人々が実質的に滅びてからは、彼らがユダヤ人の中心となって、歴史的にいえば、現在に続くユダヤ教の流れを引き継ぐ存在となっていきました。
 また、サドカイ派と呼ばれる人々がいます。「サドカイ」とは、サドクというよく知られた大祭司の名前であり、彼らはその大祭司の子孫であると考えていました。そして、祭司階級ですから、律法理解においては、とても保守的な考え方をしていました。例えば、復活は信じない、預言者の存在も認めない。神殿と祭儀のみが大事。ようするに宗教的なり政治的な革命になるメシアのような存在が現れることは、自分たちが失脚することになるわけですから、まったくそうした理解や存在を受け付けませんでした。
 そして、聖書には出てきませんが、エッセネ派と呼ばれる人たちがいます。語源は不明なのですが、彼らはもともと祭司階級であり、神殿内における祭司たちの権力争いに敗れた人々が始まりであると考えられています。彼らは神殿や都市を汚れた存在と考えていました。そうしたことから、荒野で集団生活を営むようになり、その一つが、死海写本が発見されたクムラン宗団でありました。彼らは、基本的に男性のみで共同生活を行っており、結婚なども否定していました。また水による清めを重んじていました。
 バプテスマのヨハネがその流れを引き継いでいる、ということが言われています。ただ、エッセネ派の清めは特別な人(メンバー)しか受けられないものでした。それを一般の人に広げるということは考えられず、バプテスマのヨハネもエッセネ派の影響を受けてはいましたが、脱会していたと考えるの自然でしょう。

安息日規定において何が重要なのか
 今日の箇所において、安息日規定が問題となっています。安息日というのは、土曜日のことであり、その日は働いてはいけない、労働してはいけない、という日とされています。なぜ、安息日は労働してはいけないのでしょうか。律法においては、その理由として二つのことを上げています。
 一つは、天地創造物語です。主なる神が、6日間で、この世を創造し、7日目に休まれたことから、人も休まなければならない、という理由です。出エジプト記20章8節から11節(P.126)。
「20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。 20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
 そして、もう一つは、出エジプトの出来事、ユダヤ人が奴隷状態から解放されたことを記念してという理由です。申命記5章12節から15節(P.289)。
「5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」
 安息日規定は、十戒の一つであり、どちらもモーセの口を通して、言われている理由です。ですが、この規定が出来た理由が違うとなると、その法律の理解にも違いが出てくるはずです。また、先ほど紹介しましたように、同じユダヤ人であっても、それぞれの立場によって、違いが出てくることがあります。

ファリサイ派の人々の主張
 今日の箇所において、弟子たちは、「麦の穂を摘み、手でもんで食べ」ました。実は、このことは、ファリサイ派の人々にとっては、律法違反をしている、と捉えられることでした。何が律法違反だったのでしょうか?現代人の私たちには、この畑は当然、イエスでも弟子たちの畑でもないので、他の人の畑の実り、収穫物を勝手に取ることは罪に当たるのではないか、と考えます。しかし、律法違反に当たるのは、弟子たちが麦の穂を「手でもんで」、殻をむいたことを律法違反である、と戒めているのです。申命記23章25節26節にこの様な箇所があります。(P.317)
「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」
 人の畑に入って実を取って食べることは、空腹を癒やすため、貧しい人を助けるという理由から認められていることでした。しかし、脱穀にあたる手でもむ行為は、鎌を使う行為に当たる「仕事・作業」であり、安息日にはしてはならないことだ、という主張なのです。

イエスの答えに対する疑問
 イエスはこれに対して、ダビデの例を出して、答えていますが、なぜイエスは先ほどの律法で答えなかったのか、と感じるのです。なぜわざわざダビデを出したのか、違う理由で反論すること、答えることも出来たと思うのです。先ほど、申命記における安息日規定の箇所をお読みしました。それを理由にしてはどうでしょうか。安息日規定は、もともと奴隷の解放を祝って出来たものである。奴隷は休みもなく、無理矢理に働かされていて、そうした状態から解放されたことを記念するために出来たのが安息日だ。私たちは自分の空腹を癒やすために自分の意志で作業をしているから、それには当たらない、と。
 また、こうではどうでしょうか?律法と人間という存在の関係を問題にする方法です。マルコによる福音書2章27節28節(P.65)。この箇所の並行箇所にあたります。
「「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」」
 一種の人権宣言とも言って良いと思います。法律と人一人の存在とどちらが大切なのか?安息日規定と人の存在とどちらが重要なのか?当たり前でしょ。安息日規定のために人がないがしろにされるのはおかしいのだ。人が大切にされるため、人が人として当たり前の権利を得るために、安息日規定があるのだ、という主張。とてもはっきりしているとは思いませんか?しかし、イエスはそうではなく、ファリサイ派の人々にダビデの例を出して答えました。

イエスの悪知恵とユーモア
 ルカ福音書6章3節4節(P.111)。
「「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」」
 わたしは今回、この箇所について、いろいろ考えてみたら、イエスのこの返答というのは、ちょっとズルいなあ、ということを感じました。要するに、ダビデの権威を使って、人が安息日規定を破る例があるのだ、とファリサイ派の人々に認めさせているのです。どうでしょうか?普通の人、一般の人とダビデでは、やっぱり扱いが違います。ダビデというのは、イエス時代のユダヤ人にとっては、自分たちの民族国家を築いたスーパーヒーロー。あんまり好きな言い方ではありませんが、建国の父です。そして、今やその子孫が、メシアとして現れて、ユダヤ人を救ってくれる、と考えられている人です。そんな例を出して、自分たちの行動を正当化している。なんかとても横柄な感じがしないでしょうか。議論として見たとき、この返答というのは、5節にあるように、自分は「人の子」「メシア」だから、安息日の律法なんか破って良いのだ。ダビデも律法を破っているけど、イスラエル統一王国を築くために必要なことだったでしょ。俺たちも同じことをしているんだよ、とも聞こえる。すっごくイヤな奴じゃないでしょうか?
 最近の日本の情勢を見ていて、感じることは法律や世のあり方に関わる責任ある人々があまりに恣意的に、自己中心的に、世の中や法律を動かしていることがあります。見方によっては同じではないでしょうか。本来、法律というものはどのような人であったとしても、平等に取り扱わなければ、どんな法律であっても、人を迫害するものとなり得ます。また、責任ある人が恣意的に法律を扱うのであれば、それは人と人の平等が保証された民主主義国家とは言えません。イエスも同じ事をしているとは言いませんが、そんな風に考えてみますと、とてもイヤな感じがします。
 しかし、あんまりイエスのことを悪くいうのもなんなので、肯定的に考えてみます。それは、イエスはファリサイ派の人々の痛いところをよく知っていて、ただ議論に勝つため、揚げ足を取るために、ダビデの例を出したのだ、という考え方です。なぜなら、ファリサイ派の人々は、メシアの存在を信じていましたし、求めていました。ですから、メシアの一人、ルーツとも言えるダビデの行動がどのような律法違反であろうとも否定することは出来なかった。そして更に重ねて言うのです。6章5節の言葉。
「人の子は安息日の主である。」と。

神中心的律法主義(天地創造物語から)
 ファリサイ派の人々でも、サドカイ派の人々でも、エッセネ派の人々であっても、それぞれの律法理解は、自分の立場を守るためのものであって「自己中心的律法主義」と言えるものであったと言えるのではないでしょうか。自分たちの都合の良いように、律法を解釈し、ある部分を重んじたり、ある部分を軽んじたり、また守ったり守らなかったりして、自分たちの立場というものを守ろうとしていた、と思うのです。
 それに対して、イエスは徹底的に「神中心的」に律法を実践しようとしたのではないか、と感じるのです。6章5節でイエスは言いました。「人の子は安息日の主である。」
いわゆるキリスト教的な理解においては、この時代、「人の子」とはメシアをさしており、イエスは自分のことをさして、安息日の主と言っていると理解されます。しかし、本当にそうでしょうか?普通の言葉の感覚で考えて、「人の子とは」誰のことでしょうか?カエルの子はカエルであり、一般の人全体を指すとも考えられるのです。
 イエスが発した「人の子」という言葉の理解、こんな可能性があるのではないか、と思うのです。イエスは、ファリサイ派の人々が、この言葉を聞いたとき、メシアのことを言っている、と受け取るということを想定して、述べたのではないでしょうか。そして、見た目としては「安息日は人のためにある」「律法は人のためにある」という主張を納得させたのだ、と心の中で喜んでいたのではないでしょうか。
 ファリサイ派の人にしても、サドカイ派にしても、他の様々なユダヤ人たちの集団にしても、自分たちこそ神に近い存在である、という主張に基づく、律法理解でありました。しかし、イエスはそれとはまったく違う立場であったと思うのです。それは、徹底的な人間の平等主義ではないでしょうか。そしてそれこそ、本当の意味での神中心的な律法主義と言えるのではないでしょうか。
 天地創造の物語は、当時のオリエント世界の国々がもっていた神話や宗教と比べて、とても変わった特徴を持っていました。それは多くの神話において、神の子どもと言えば、王様や宗教的指導者でした。しかし、天地創造物語において、神の子とは人という存在すべてを指しています。それに基づいた人間理解とはも徹底的な平等主義であり、神が誰にも近くない、ということです。イエスはそのような信仰を持って、日々を生きたのではないでしょうか。そしてそのような考え方を持ち、また実践していたからこそ、敵対者たちから命を狙われるようになり、十字架への道を歩まされたのではないでしょうか。しかし、だからこそイエスこそ神の子であり、キリストであるのだ、ということが言えるのではないでしょうか。

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岡崎茨坪伝道所の礼拝後の食事(通称:ばらつぼ丼)でっす。

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