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『罪に抗う道こそ平和への道』 (ヨハネ福音書8:1~11)

2016.08.14(21:15) 318

『罪に抗う道こそ平和への道』
(2016/8/14)
ヨハネによる福音書 8:1~11

姦通という罪
 今日の箇所、様々な捉え方がされます。イエスの慈悲深さを示す物語として、またイエスが持っている人という存在に対する鋭い視座を示すものとして、またファリサイ派や律法学者たちという論敵に対する見事な知恵の勝利として、など本当に様々な捉え方があります。さらに、ここに出てくる女性は、とある伝承によれば、マグダラのマリアではないか、として語られることがあります。また、そうした考え方を元にしてか、イエスを描いた映画などでも、マグダラのマリアとイエスの出会いの物語として、描かれることがありますが、聖書のテキストとしては、あくまで一つのテキストであり、一人の女性として捉えることが適切と言えるでしょう。
 「姦通」という罪は、結婚している夫であれば妻、妻であれば夫以外の存在と親しい関係を持つことを指し、十戒にも記されている重い罪と考えられていました。十戒には第5戒(第五の戒め)として、「姦淫してはならない。」(出エ20:14)とあります。一般に姦通罪というのは、いわゆる夫と妻以外の関係において、親密になったことを指すと考えられます。
 が、当時のユダヤ社会においては、夫は妻以外の女性と関係を持っても、罪を問われることはありませんでした。もっぱら妻が夫以外の男性と関係を持つことを罪とされており、この記事も夫のある女性、結婚していた女性が夫以外の男性と関係を持った場合にのみ罪とされ、罰が下されるものとされていました。なぜ、このような差別があったのか。
 実は、十戒にしても、律法にしても、男性中心的な価値観、いわゆる家父長制の家族制度、社会制度に基づいて、律法全体、法体系が男性中心的なものであったのです。姦通に関する罰が記されている箇所、申命記22章22節以下を開いています。申命記22章22節。(旧.315)「22:22 男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。」その前後に、様々な「姦淫」に関する罪と罰について記されています。実は、そこで何が大切に考えられているか、と言えば、夫と妻の関係に対する裏切り行為ということへの罰というものでないのです。

律法学者とファリサイ派の企み
 この女性、神殿の中、境内において、イエスの前に律法学者とファリサイ派の人々によって、連れてこられました。彼らはイエスに質問しました。4節5節です。
「…「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
 なぜ、律法学者とファリサイ派の人々は、イエスにこのような質問したのでしょうか。実は、律法学者とファリサイ派の人々のこの問いは、たくみな罠となっております。「姦通の罪」は、十戒の第5戒「姦淫してはならない」にも含まれており、この違反は重大なものとして、違反に対しては、テキストにあるとおり石打ちの刑とされていました。イエスの敵対者たちは、イエスがこの女性は石打ちであると答えれば、イエスに希望をかけた民衆の支持を失うということになります。また「赦す」と答えれば、十戒の第五戒の戒めを破ることとなり、律法の解釈者として律法の教師としての人気を集めていたイエス自身の人気が地に落ちてしまいでしょう。このように「許すべき」「許さないべき」、どちらの答えを述べたとしても、イエス自身が失脚する、立ち場を失うという良く出来た質問を投げかけているのです。しかし、イエスはその質問に対して、地面に何かを書くような仕草をしてから、逆に彼らに対して、ある質問を返します。今日の箇所、8章7節。(P.180)
「「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」」

石打ち刑という罰
 その質問に対し、そこにいた人々は「(これを聞いた者は、)年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(8:9)とのことです。なぜ、そこにいた人々は彼女に石を投げることなく立ち去ってしまったのでしょうか。また、なぜ「年長者から」立ち去っていったのでしょうか。
 このような理由が考えられます。石打ちの刑とは、律法にも規定されているユダヤ人独特の処刑方法です。石打ちの刑のみがユダヤ人の処刑方法だ、という理解もあるのですが、高いところから突き落とす、という方法もあり、ルカ福音書においてイエスがナザレに戻ったとき、高いところから突き落とされそうになる場面がありますが、それも処刑の一つである、と言えます(ルカ4:29)。
 そして、その手続きですが、どのような場合でも裁判のような形を取ります。そして、その中では、処刑されるべきだ、とされた人の罪を証言する人が、二人いなければ、それは罪として認められない、とされていました(マタイ18:16)。そして、その証言が得られ、死刑が執行されるとなった場合、最初の石を投げるべき存在として、その証言を行った人自身が行うべきとされているのです(申命記17:5-7)。
 こうした法律のあり方からこういうことが想像できると思います。いわゆる夫婦の裏切りの場合、残酷な話だと思いますが、その証言をする人というのは、裏切ってしまった妻の夫や婚約者、その家族の場合が多いのではないでしょうか。(赦す権利もあるということ)また、その最初の石が投げられたことによって、他の人が石を投げ、処刑される人は、その一つ一つの痛みによって、徐々に、ゆっくりと死に至っていくわけです。とても残酷な刑と言わざるを得ません。いっそのこと、一撃で、一瞬で殺してくれないか、と感じるでしょう。

石を投げなさい
 イエスに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と問われて人々は、誰もこの女性に石を投げることが出来ず、「年長者」より順に立ち去っていった、と記されています。ここにおいて、なぜ年長者はその場から立ち去ってしまったのでしょうか。この問いに正解はない、と思うのですが、わたしとしてはこんな想像をしています。それは、誰もこの女性が姦淫をしたという事実を見た人はいなかったのだろう、ということを思うのです。
 しかし、誰かの伝聞によって、この女性やその夫や家族にも訴えられていたわけでもないのに、イエスを陥れるためにこの女性はこの場に連れてこられていたのです。誰も彼もが、確かな罪を確認することなく、全体的な雰囲気によって、連れて来られてしまったのではないでしょうか。そして、イエスに「罪を犯したことのない者が石を投げなさい」と問われ、改めて女性を罪に定めること、女性を死に至らしめることの重さを思い、誰も石を投げられなかったのではないでしょうか。
 
戦争の恐ろしさ
 日本が先の戦争を戦ってから、71年の時が過ぎようとしています。8月第一週は、日本キリスト教団においては、平和聖日として礼拝が守られております。今日のテキスト(聖書箇所)は、聖書日課に従ったものです。説教題にも「平和」という言葉が出て参ります。あえて、この箇所、平和のテーマとして捉えてみたいと思います。イエスは11節でこの女性に対して「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃっています。この箇所、罪という言葉が二つありますが、岩波訳の聖書においては、この言葉を訳し分けて、このように訳されております。「「私もあなたを断罪しない。行きなさい。〔そして〕これからはもう過ちをやめなさい。」」
 断罪しない、ということ。その相手との関係を切らない、その相手を攻めない、その相手を攻撃しない、その相手と戦わない、その相手と戦争しない、ということに繋がるのではないか、ということをこのテキストから受け取りました。戦争の恐ろしさというものを考えるとき、良い言葉があります。「戦争ははじめるのは簡単だが、やめるのは難しい」また「戦争は、始めたいときに始められるが、やめたいときにはやめられない。」
 戦争が始まるとき、おそらく誰もが終わるときを想像して始まるでしょう。しかし、文明の発展がもたらした効果か、近代以降における戦争の多くが「戦争があって良かった」と言えるような終わり方をしているだろうか、ということを思います。また、最初は小さな争いであったかもしれませんが、どんどん大きくなり、またどんどん泥沼にはまってしまっていき、多くの生命や財産、資源を無駄にしていくことばかり繰り返しているように感じます。
 石打ちの刑で考えてみてどうでしょうか。最初は小さな石であったかもしれない。しかし、周りの誰もが石を投げるようになったらどうでしょうか。また、こういうことも考えられるでしょう。戦争が本格的に始まってしまったとき、誰もが石を投げることが当たり前になったとき、石を投げることがおかしいと思ったとき、石を投げることを辞めることが出来るだろうか。また、さらに石を投げる行為を止めることが出来るだろうか。
 写真家で桃井和馬という人がおられます。世界中の様々な紛争地を訪ねてこられてきています。その彼から、平和のことを話題にしているときに、このような質問をされました。「平和のことを考えることとは、ある日突然、自分の家族が殺されたとして、その犯罪者を許せるかどうか」という問題だ、といった内容でした。どうでしょうか?自分だったら、許せるだろうか?この問いは、自分の問題だけではありません。自分たちを攻撃する国や人々がいたとしてその人の家族が、自分が所属している国家や関係している存在に、もし家族や恋人、友人を殺されていたとしたら、どのような言葉や方法を持って平和を訴えるでしょうか。その人は、戦争を始めた人ではありません。その人も自分の家族の犠牲が合った故に、銃を取ったかもしれない。彼も石を投げられた犠牲者であったかもしれない、と考えたとき、私たちはどうしたら良いのでしょうか。

平和への道
 聖書のお話に戻ります。イエスとこの女性を取り囲んでいた人は誰もいなくなり、イエスとこの女性のみになり、このような言葉を彼女にかけています。(8:11)
『「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』
 この女性が、イエスを陥れるために、この場に連れてこられました。それ自体は、とても不当なことでありました。しかし、この場に残り続けたということは彼女自身、いわれるような罪を犯していたのでしょう。なぜ、イエスはこの女性の罪に定めなかったのでしょうか。
 それは、この女性を罪に定めることによって、ますます神から離れた道を歩んでしまう、と考えたからではないでしょうか。この女性が歩むべき道は、罰を受けることではない、すでに充分に受けてきた。イエスはこう考えたのではないでしょうか。彼女に必要なのは、主なる神とこの女性が和解するだ、と。神と和解することによって、より良い道、より良い未来がある、と。神との和解は、また周囲の人々との和解へと繋がります。平和の課題でも同じではないでしょうか。自らの過ちにまず目を向け、間違いを正し、互いに許し合い、未来に対して新しい関係を築いていこうという姿勢こそが、平和へと繋がるのではないでしょうか。


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 ニケの像(長野県の美ヶ原高原美術館)
  ※何年か前の写真でっす。

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